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第10話『隣国の王子来訪──揺れる心と新たな波紋』

ローデン領に春の香りが戻り、畑は若葉がそよぎ、村には仕事の掛け声があふれていた。

朝の巡回を終え、私は倉庫で納品の確認をしていた。リュシアンの手配で届いた商隊は滞りなく動き、商品は徐々に量産体制へ移行している。

――着実に、『日常』が築かれていく実感が、じんわりと胸を満たした。


「レティシア様、昼前に国境からの来客があるとのことです」

メイドのマリアが書簡を差し出す。封蝋に押された紋章は、見慣れないものだった。


私は目を細めて紋章を見比べる。隣国ファルネス公国――確か、交易で折に触れて接触のあった国だ。だが、これは公文ではなく、直接の訪問を意味する印。書簡の文面は丁寧だがどこか格式高く、短く誘いを含んでいた。


「隣国の王子が、ローデン領へ来訪したい――と」

ガイルが近くで組んでいた荷を肩にかけながら、眉をひそめる。

「王子か。何の用があって来るんだ?」

「商談兼、視察のようです。王都でも噂になっているらしく、興味本位でお見えになるようですわ」

「興味本位だと……面倒が起きそうだな」


私も胸に小さな高鳴りを感じていた。王都での出来事以降、外部からの注目が増えたのは事実だ。だが今の私にとって重要なのは、ローデン領の安定と領民たちの暮らし。形式的な歓迎の準備を指示し、私は正装ではなく実務服のまま迎えの場へ向かった。


正午。領の広場にて、黒い馬車がゆっくりと到着した。車輪が石畳を刻む音に、人々が自然と集まる。黒と藍を基調にした外套に身を包む一団の先に立っていたのは、若き王子だった。


浅葱色の瞳。栗色の巻き毛を整えた端正な顔立ち。服装は派手ではないが、その立ち居振る舞いに自然な気品がある。彼の隣には数名の近衛騎士と、公国の商人長らしき人物が控えていた。


「ローデン領主代理、レティシア・アーベントハインに会いたく、はるばる参った」

王子は礼を尽くし、微笑みながら私へ一歩前へ出る。声は柔らかく、だが芯が通っている。


彼は名をアレン・フォン・ファルネスという。公国の第二王子と紹介された。彼の視線がやや長く私を捉えたとき、周囲の空気がふっと静まるのを私は感じた。


「噂は耳にしている。あなたが追放されたあとの再建は、まさに奇跡のようだ」

「ありがとうございます。ローデンの方々の努力あってのことです」

私はすぐに視線をそらし、村人たちの顔を見る。彼らは誇らしげに胸を張っている。


アレン王子はにこりと笑い、用意された席につく。会話はすぐに実務に移った。交易のルート、商品の品質管理、将来的な相互扶助の可能性――王子は細かく、しかし決して押しつけることなく質問を重ねる。聞けば彼は経済学に興味を持ち、自ら商隊の動向を学んでいるらしい。


「ローデンのハーブ染めは、我が国の染織業にも応用できそうだ。互いに技術交流ができれば、双方に利益があるはずだ」

「ぜひお願いしたいですわ。物資の流通が整えば、皆の生活はもっと安定します」


私は率直に答えた。アレンは真剣に頷き、その姿勢に好感を覚えた。リュシアンが近くで眉をひそめながらも、静かに情報を引き出している。黒衣商会にとっても利がある話だろう。


来訪の目的が一通り済んだあと、王子はふと個人的な問いを私に投げかけた。

「あなたは、なぜこの土地を――ここまで変えられたのか」

問いは、単刀直入で、しかし重みがあった。


私は目を伏せ、正直に答えた。

「私は前世の知識と、この地で得た人々の“努力”を組み合わせただけです。特別なのは、信じてくれた人たちがいたということ」


彼は静かに聞き入り、その瞳にどこか柔らかな光が差した。

「その“信じる”力が、最も大切なのだろうね」

アレンの声は、微かな感慨を含んでいた。


それを聞いた瞬間、ガイルの姿勢がわずかに硬くなるのが私にもわかった。彼は私のそばに控え、表情一つ変えずにいるが、視線の端には確かな嫉妬が潜んでいる。私は胸の内で小さく笑い、すぐに話題を交易へ戻した。


夜。小さな晩餐の後、アレン王子は私に一つの申し出をした。

「近いうちに、我が国で行われる小規模な学術会議に招きたい。農業と流通に関するフォーラムだ。あなたの話は、多くにとって参考になるだろう」


王子の言葉には政治的な意図も含まれている。しかし、単純な名誉欲だけではないのは彼の眼差しから伝わった。交流を通じて両国が結びつけば、ローデンの安全も広がる。私には分かった――これはリスクでもあり、好機でもあると。


「ありがとうございます。光栄です。ですが、準備期間をいただければ…」

「もちろんだ。援助も惜しまない」


その提案に、リュシアンは淡い笑みを浮かべ、ガイルは黙ったまま私の肩に軽く触れた。触れ方は短く、しかし確かな安堵を含んでいた。


私は少しだけ迷った。王子の誘いは、新たな発展を意味する。だが同時に、王都時代の面々が再び動き出すきっかけにもなり得る。過去の傷が再び開く恐れは否めない。


――だが、私が目指すのは安全で持続的な繁栄だ。恐れに縛られていては、誰のためにもならない。


私は静かに顔を上げ、王子の瞳を見据えた。

「お受けします。ただし、ローデンの代表として、我が領民の利益を最優先に交渉いたします」

「それでこそだ」

アレンは笑い、契約のように短く頷いた。


月が高く昇る頃、私は裏手の畑に一人立っていた。村の灯りが穏やかに揺れている。ガイルがそっと隣に来て、私の手を取る。


「……気をつけろよ。王都に戻るのは、いいことばかりじゃない」

「分かってます。でも、それでも行きます。ローデンのために」


彼は短く息を吐き、ぎゅっと私の手を握った。

「行くなら、俺も行く」

その言葉は私の心に、温かな安心を灯した。


遠くに聞こえるのは、商隊の馬の蹄音。新たな道が、少しずつ伸びていく音だ。

――王子の来訪は波紋を広げた。だが私たちは風向きを読み、ゆっくりと舵を切る。揺れる心も、少しずつ正しい方へ向かっていくと信じて。


次に待つのは、学術会議という名の新たな舞台。そこで何を得て、何を守るべきか――答えはまだ、これからだ。

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