第6章 リュラという名の少女
霧の中の出会い
濃い霧が空気に漂い、エリアナの視界を覆っていた。
息は荒く、胸が不規則に上下する。手に握った光るモップは温かく、まるで心臓の鼓動を持っているかのようだった。
その目の前に、ひとりの優雅な女性が静かに立っていた。
長い髪が夜風に揺れ、銀色の鋭い瞳がエリアナをまっすぐ見つめる。その視線に、彼女の背筋がぞくりと震えた。
「ずっとあなたを待っていたの。」
女性の声は柔らかく、それでいて否応なく威厳を感じさせた。
「ま、待ってた? ちょっと待って…あなた誰? ここどこなの!?」
エリアナは混乱した声で叫ぶ。
女性は微笑んだ。
「私はリュラ。ここは〈ネトラの地〉──あなたの世界と対をなすもう一つの世界よ。」
「ネトラ…? 何それ? 全然わかんない!」
エリアナは一歩後ずさり、モップを握りしめたまま叫ぶ。
「私はただの清掃員よ! 海外にだって行ったことないのに、なんでいきなり異世界に!?」
リュラは静かに前へ進み、エリアナの手の中の光るモップを見つめた。
「それが答えよ。あなたは〈光の守護者〉。世界と世界を繋ぐ扉を開ける唯一の存在。」
「はぁ!? 私が光の守護者!? 違うって! 私は守ってるのは床の光沢だけ!」
エリアナは半ば叫ぶように言った。
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迫りくる影
リュラが何か言おうとしたその時、森の奥から地鳴りのような咆哮が響いた。
「な、なに今の!?」
木々の間から、先ほどのような化け物が三体現れた。
赤く光る目、巨大な体、鋭い牙。ゆっくりとエリアナへ迫ってくる。
「うそ…もう無理…戦えないよ…!」
リュラはエリアナの隣に立ち、淡い冷気のような気配を放つ。
「大丈夫。私がいるわ。」
青く輝く細剣を抜くと、リュラはひと閃。
空を裂くような光が走り、二体の怪物が木に叩きつけられた。
残る一体が怒りの咆哮を上げ、エリアナに飛びかかる。
反射的に、エリアナはモップを振り抜いた。
白い光が放たれ、化け物の胸を貫く。
爆ぜるような音とともに、霧の中へと消えた。
「い、今の…私が…?」
リュラは小さく微笑んだ。
「ええ。あなたは証明したのよ、自分が何者かを。」
「信じられない…私、ただ床を磨きたかっただけなのに…!」
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森の焚き火
数時間後、リュラが灯した小さな焚き火の前で、エリアナは座っていた。
夜の冷たい空気が肌を刺すが、火のぬくもりがかすかな安心をくれる。
魔法のモップはそばに立てかけられ、今はただの道具のように沈黙している。
「これ、夢だよね。明日目が覚めたら、またアパートの部屋で寝坊して、上司に怒られてるはず…」
エリアナは頭を抱えた。
リュラは静かに炎を見つめながら言う。
「まだ信じようとしないのね。」
「そりゃそうでしょ! 私は普通の人間だよ!? 掃除して、ご飯食べて、スマホいじって…異世界の勇者とかありえないってば!」
リュラの銀の瞳に火が映る。
「すべての守護者は最初、そう言うの。でも真実は、拒んでも変わらない。」
エリアナは溜息をつく。
「運命とか言われても、私、学費だって払えないんだけど。」
リュラは小さく微笑む。
「だからこそ、なのかもしれないわ。」
「それにしてもさ…なんでモップ? 剣とか杖とかあるでしょ、普通!」
「それはあなたの一部だから。モップはただの器。光を放つのは──あなたの魂よ。」
「はぁ…もし上司がこれ見たら、絶対クビだわ…。」
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リュラの物語
しばらく沈黙が続いた。焚き火の音と虫の声だけが響く。
「ねぇ、リュラ。あんた何者なの?」
「私は〈影の守護者〉の一族。二つの世界の均衡を保つのが使命だった。
けれど最近、境界が崩れ、闇の獣たちが現れ始めたの。」
リュラは真剣な眼差しでエリアナを見つめる。
「その裂け目を閉じられるのは〈光の守護者〉だけ。あなたのモップこそが鍵よ。」
「はぁ!? このモップが世界を救う鍵!? 冗談でしょ!?」
リュラは静かに頷いた。
「信じられない…異世界が清掃員に希望を託すなんて…。」
エリアナは苦笑した。
だが心の奥では、確かに何かが目覚め始めていた。
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不安な夜
夜は更け、リュラは眠りについたが、エリアナは目を閉じられなかった。
「もし私が本当に光の守護者なら…帰れるの? 私の世界に。」
霧が再び立ち込める。
エリアナは薄い作業着を抱きしめ、目を閉じた。
その時──
『二つの世界は裂け続ける…お前が“選ぶ”その時まで。』
耳元で囁くような声がした。
エリアナは飛び起きて辺りを見回すが、そこには眠るリュラしかいない。
彼女はモップを抱きしめ、震えながら呟いた。
「お願い…ヒーローなんて無理だよ…洗濯物すら終わってないのに…。」
それでも、胸の奥で確かに何かが動き始めていた。
もう──元の世界には戻れない。




