第5章 割れた境界(われたきょうかい)
土曜日。
会社は静まり返っていた。残業している社員が数人いるだけ。
エリアナは週末の出勤にはもう慣れていた。
彼女にとっては、曜日なんて関係ない。掃いて、拭いて、磨くだけの毎日だ。
けれど――昨夜の夢のせいで、心はまったく落ち着かなかった。
あの謎の女の言葉が、まだ頭の奥でこだましている。
> 「私は“向こう側”で待っている。あなたの時間は、もうすぐ尽きる。」
思い出すたびに、背筋がぞくりとした。
ただのストレスからくる悪夢――そう思いたかった。
だが、部屋のモップは確かに光ったのだ。
それは幻ではない。事実だった。
深く息を吐き、エリアナはモップをカートに戻すと、いつものように仕事を始めた。
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地下ホール
今日の担当はまた地下ホール。
滅多に使われない広い部屋だ。
蛍光灯がちらつき、壁に不規則な影を作っている。
静寂の中、モップを動かす音だけが響いた。
エリアナは集中しようとしたが、思考がまとまらない。
気づけば、モップを動かす手がどんどん荒くなっていた。
床が不自然に輝き始め、淡い光の筋が走る。
エリアナは動きを止め、息を呑んだ。
「……やめて……もう、やめて……。」
しかし光は広がり、やがてホールの中央に円を描いた。
耳鳴りのような低い唸りが響き渡り、空気が震える。
床が揺れ、蛍光灯が激しく点滅する。
エリアナは後ずさったが、モップが手から離れない。
木の柄が掌に張りつき、まるで生きているかのようだった。
「離して! いらないのよ、こんなもの!」
必死に引き剥がそうとするが、無駄だった。
光はさらに強まり、円が渦巻く水面のように変化した。
その中には、暗い森のような風景が見える。
木々が揺れ、薄い霧が地面を覆っていた。
「嘘……これ、現実じゃない……」
そのとき、足音が聞こえた。
「エリアナ? ここにいるの?」
エトルの声だった。
ホールの扉が開き、スマートフォンのライトをかざしながら入ってくる。
床の光る円を見た瞬間、彼女は凍りついた。
「な、なにそれ……?」
「近づかないで!」
エリアナが叫ぶ。
だが遅かった。――円が爆発的に光を放つ。
空気が一気に吸い込まれ、巨大な渦が生まれた。
書類や椅子、雑巾までも宙を舞う。
エトルはドアの枠にしがみつき、必死に耐えた。
「エリアナ! モップを離して!」
「離れないの!!」
エリアナの叫びが、光の嵐に飲み込まれる。
彼女の体は宙に浮かび、輝くモップがそのまま円の中心へと引き込んだ。
「エリアナーーーッ!!!」
エトルの手が空を切る。
次の瞬間、エリアナの姿は消えた。
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世界の狭間
エリアナは落ちていた。
どこまでも、どこまでも。
果てのない闇と光の渦の中を。
声を出そうとしても、音にならない。
手の中のモップだけが、まばゆく光っていた。
その光が闇を裂き、二つの世界を映し出す。
左側には――現代の都市。
高層ビル、車の流れ、ネオンの光。
だがすべてがひび割れ、壊れかけていた。
右側には――異界の森。
黒い木々、遠くにそびえる城、蒼白い月。
二つの世界は衝突し、互いを押し合っていた。
> 「選びなさい、守護者……」
あの女の声が、虚空に響く。
> 「あなたの一歩が、均衡を決める。」
エリアナは耳をふさいだ。
「わたし、ただの清掃員よ! こんなの、望んでない!」
だがモップの光はますます強くなり、彼女の体を右の世界――霧に覆われた森へと引き寄せた。
抗おうとしても、身体は言うことを聞かない。
まるで、運命がすでに決まっているかのように。
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霧の森
ドンッ――。
身体が硬い地面に叩きつけられた。
冷たい空気が肺に突き刺さり、思わず咳き込む。
目を開けると、そこはもう会社のホールではなかった。
闇に包まれた森。ねじれた木々、手のように伸びる根。
濃い霧が道を覆い、空には青白い月が浮かんでいる。
「う、嘘でしょ……ここ、どこ……?」
遠くから、聞いたことのない獣の声が響いた。
低いうなりと咆哮が混ざり合う。
風はないのに、葉がざわめいた。
手の中のモップを見る。
それはもう“ただの掃除道具”ではなかった。
柄は金属のように輝き、布の部分は柔らかく光を放ち、温かな気配を漂わせている。
「……わたしに、何が起きてるの?」
霧の向こうから、重い足音が近づく。
エリアナは身をこわばらせた。
木々の間から現れたのは、巨大な影。
黒い皮膚、赤く光る瞳、獣のような体で、しかし人のように直立している。
「や、やめて……来ないで……!」
唸り声。牙が光る。
エリアナは反射的にモップを構えた。
次の瞬間、光が爆ぜ、刃のような光線が走る。
獣は悲鳴を上げ、後退した。
エリアナは自分でも信じられなかった。
「今の……わたしが……?」
その時、柔らかくも力強い声が霧の奥から響いた。
「――その者から離れなさい。」
獣が唸り、そして森の闇へと逃げ去った。
エリアナは呆然と立ち尽くす。
霧の中から姿を現したのは、一人の女性。
長い髪が月光にきらめき、鋭い瞳が夜を貫く。
異国のような、優雅で危うい衣装。
夢で見た“あの人”だった。
「ようやく会えたわね、守護者。」
エリアナの喉が詰まる。
「……あなた……夢に出てきた人……」
女はかすかに微笑んだ。
「私の名はリュラ。
今夜から、あなたはもう“ただの清掃員”ではない。」
エリアナの心臓が激しく鳴った。
自分の世界、仕事、日常――すべてが消えた。
見知らぬ世界、見知らぬ人、そして――武器のように輝くモップ。
気づけば、彼女の新しい物語が静かに始まっていた。




