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第4章  光の狭間にある影


その日は激しい雨から始まった。

雨粒がエリアナの家の屋根瓦を叩きつけ、単調な音を響かせていた。

そのせいで朝の時間がゆっくりと流れていくように感じられた。


彼女はカップに入ったインスタントコーヒーを手に、窓の外を見つめる。

コーヒーの香りと、カビの生えた壁の湿った匂いが混ざり合っていた。


「はぁ……エリアナの華やかな人生ね。インスタントコーヒーに、染みた壁、光るモップまでついてるなんて。」

彼女は自嘲気味に呟いた。


部屋の隅を見やる。

そこにはいつものようにモップが立っていた。

くすんで古びていて、布の先は少し破けている。

光も、囁きもない。

まるで昨日の奇妙な出来事が、ただの幻覚だったかのように。


けれどエリアナは知っていた。

自分の中の何かが、確実に変わってしまったことを。



---


朝の職場にて


雨のせいでバスはぎゅうぎゅう詰めだった。

皆が傘を抱え、びしょ濡れになり、うんざりした表情を浮かべている。

エリアナもその中に押し込まれていた。

曇った窓の向こうに、微かな閃光が走る。

高層ビル群が、黒い影をまといながら二重に重なって見えた。


彼女は目をこすった。

――消えていた。


「寝不足ね……そうに違いない。」


会社に着くとすぐ、厳しいことで有名な上司サミュエルの怒鳴り声が響いた。

「エリアナ! 七階が汚いぞ! すぐ掃除に行け!」

エリアナは何も言わずにうなずき、ため息を抑えた。

心の中ではこう叫びたかった。

(もし私のモップが本当に光るなら、こんな仕事しなくていいのに……)


でももちろん、そのモップのことは誰にも言えなかった。

あれは、ただ頭を痛くするだけの存在だ。



---


第七フロア


七階は改装中のフロアだった。

床には厚く埃が積もり、電線がぶら下がっている。

エリアナは静かに作業を始めた。

モップを動かすたび、布が床をすべる音だけが響く。


そのとき――再びそれが起こった。


モップの動きに合わせて、細い光の線が現れたのだ。

誰もいない空間で、エリアナは目を見開いた。

光は広がり、淡い円を描く。


「やめて……今はやめて……」


彼女は後ずさった。

だが光の輪は震え、水面のように揺れ始めた。

その中から、影が立ち上がる――長い髪をした高い人影が、じっとこちらを見下ろしている。


エリアナの体が凍りついた。息が止まる。

「……誰?」


影は何も答えない。

ただ見つめ返すだけ。

人間のようでいて、しかし周囲の空気が異質だった。

この世界のものではないような冷たい気配が漂う。


そのとき、突然大きな声が響いた。

「エリアナ! 何ぼーっとしてるの!」


エラフィエルが雑巾を抱えて入ってきた。

光は一瞬で消え、床は元のままになった。


エリアナは瞬きを繰り返した。顔は真っ青だ。

「えっ……な、なんでもないの。ちょっと……滑りそうになって。」

「もう、気をつけてよ。手間増やさないでね。」


エラフィエルは去っていった。

エリアナは震える手でモップを握りしめた。

心の奥で確信していた。――あれは幻じゃない。本当に起こったのだ。



---


昼休み


休憩室で、エリアナは食欲がなかった。

向かいにはエトルが座り、カップ麺を食べながらスマホをいじっている。


「また顔色悪いよ、エル。マジで病院行ったほうがいいって。」

エリアナはぎこちなく笑う。

「大丈夫。雨でちょっとだるいだけ。」

「倒れても俺が代わりに掃除する羽目になるんだから、マジで倒れないでね。」


軽口のように言いながらも、エトルの目には心配の色が浮かんでいた。

エリアナは胸が痛んだ。

だが話せるはずがなかった。

どうやって説明できるというのだ――モップが光の門を開くなんて。



---


夜、自宅にて


雨はまだ止まない。

エリアナはびしょ濡れで帰宅し、ベッドに身を投げた。

疲労で意識が沈む。

眠りはすぐ訪れたが、安らぎはなかった。


夢の中で、彼女は無人の街を歩いていた。

高層ビルはそびえ立つが、どれも暗く、灯り一つない。

冷たい風が吹き抜ける。

通りの中央に、光り輝くモップが立っていた。

まるで神聖な柱のように。


エリアナが近づき、その柄に触れた瞬間――

世界が裂けた。

左側には崩壊した現代都市、右側には歪んだ木々が立ち並ぶ黒い森。


その境界に、昼間の影の人物が再び現れた。

今度ははっきりと姿が見える。

長い光沢のある髪、鋭い瞳、そして優雅でありながら危うい装い。


その声は口からではなく、直接頭の中に響いた。


「守護者……やっと見つけた。」


エリアナは息を呑んだ。

「……何のこと? あなたは誰?」


女性は一歩前に出て、光るモップの光を浴びた。

「私は――向こう側で待っている。あなたの時間は、もうあまり残されていない。」


「待って……どういう意味!?」

彼女が問いかけた瞬間、地面が激しく揺れた。

光の亀裂が地面を走り、世界が崩れ始める。

エリアナは倒れこみ、モップが手から滑り落ちそうになる。


「行かないで! まだ何も――!」


しかし、女性の姿は光の中に消えていった。

残ったのは、かすかな囁きだけ。


「……二つの世界の狭間で……」


エリアナは飛び起きた。

息が荒く、額に冷たい汗が滲んでいる。

外ではまだ雨が降っている。

けれど部屋の中は、異様なほど静かだった。


彼女は部屋の隅を見た。

モップは静かに立っている。

だが――布の先端が、一瞬だけ淡く光った。

ほんの一瞬。

そしてまた闇に戻った。


エリアナは毛布を握りしめた。

「もしこれが現実なら……もう逃げられない。」


雷鳴が轟き、稲妻が街を照らす。

その閃光の中で、遠くのビルの屋上に巨大な影が一瞬浮かび上がった。

彼女は目を強く閉じた。

――幻覚であってほしいと願いながら。


けれど、心の奥では分かっていた。

世界の境界が、今まさに開こうとしていることを。

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