第3章 ― 見えない輝き
朝がまた訪れた。
薄いカーテンの隙間から差し込む朝日が、エリアナの部屋の空気中に漂うほこりを輝かせる。
彼女は重たいまぶたをゆっくりと開けた。体中が筋肉痛のように痛む。まるでマラソンを走りきった後のようだ。
昨夜の眠りはひどかった。目を閉じるたびに、暗く長い廊下の夢に戻される。
その廊下の先で、いつも光るモップが彼女を待っていた。
エリアナは顔を手で覆い、うめいた。
「マジで…この夢が続くなら、カウンセリング受けようかな。」
起き上がって、部屋の隅に立てかけたモップを見つめる。
古びた木の柄、くすんだ布。見た目はただの掃除道具。
けれど、エリアナには分かっていた。あれの中には“何か”が潜んでいる。
「…もしあんたに命があるなら、お願いだからこれ以上私の人生を面倒にしないで。」
---
朝のルーティンはいつも通りだった。
冷たい水のシャワー、色あせた制服、簡単な朝食――食パンと温かい紅茶。
バス停では、遅れてきた市バスを待つ人々でごった返していた。
エリアナは人混みの中で押しつぶされそうになりながら立つ。
その時、スマホが震えた。差出人はエラフィール。
> 「エル、10階に大きいほうき置いといて。持ってくるの忘れた。」
エリアナはすぐ返信する。
> 「了解。後で持っていくね。」
ふと、バスの窓に映る自分の顔を見た。
一瞬だけ、自分の瞳がかすかに光った気がして、思わず目をこすった。
もう一度見ても、何も変わらない。
「気のせい、気のせい…寝不足だよ、エル。」
小さくつぶやいた。
---
その日、エリアナは12階の大会議室の掃除を任されていた。
広い部屋、光沢のあるテーブル、整然と並ぶ革張りの椅子。
彼女は机を拭き、モップで床を磨き始める。
すると、モップを動かすたびに――薄い光の軌跡が残った。
まるで漫画のスピードラインのように。
「エル、また独り言?」
不意に声がして、エリアナは飛び上がった。
「えっ!? い、いえ!考えごとしてただけです!」
エラフィールが怪訝そうに眉をひそめる。
「考えごとしながらニヤニヤ?ホラーアニメ見すぎじゃないの?」
「へへ…そうかもです。」
エラフィールが去った後、エリアナはそっとモップを見下ろした。
「…本当に、私にしか見えないの?」
---
休憩時間。
エリアナは一人でパントリーに座り、弁当箱を開ける。
中身はご飯と薄いテンペの揚げ物。
スマホに届いた通知には「未払いの学費請求書」。
「はぁ…別の世界があるなら、そっちに引っ越したい。」
ぼそっとつぶやいた瞬間――
カチッ。
壁に立てかけていたモップが、小さく音を立てた。
エリアナはびくっとして顔を上げる。
心臓がドクンと跳ねた。
「…ねぇ、冗談だから。マジで反応しないで。」
---
夕方、彼女は追加で地下ホールの掃除を頼まれた。
広いホール、ちらつく蛍光灯、小さなステージ。
静寂が耳を打つ。
モップをステージに滑らせるたび、床に淡い光が走った。
それは確実に、以前よりも明るい。
「やめて…今じゃない、お願い…。」
その時、背後から足音がした。
「ひとりかい、エル?」
エトルがスマホを弄りながら現れた。
「うわっ!びっくりしたぁ!」
「ごめんごめん。モップで踊ってるのかと思ってさ。」
「やめてくださいよ…。」
エリアナは mop を動かしながらも、ちらりと光を確認した。
不思議と、エトルがいる間は光が消えている。
「でもすごいよね。こんなに頑張って、給料少ないのに。」
「辞めたら生活できないからね。」
「確かに。」
沈黙。
モップの音と、エトルのスマホゲームの効果音だけが響く。
「そういえば、昨日地下に行ってたよね?」
「うん、どうして?」
「顔、真っ青だったよ。体調悪かった?」
「…ううん。ただ…あの場所、空気が変だっただけ。」
「地下はいつも変な感じするけど、あの時は…本当に、何か見た顔してた。」
エリアナの手が止まる。
「…もしかして。」
---
夜。
アパートのベッドで、エリアナは天井を見つめていた。
体は疲れ切っているのに、頭の中はざわめいている。
目を閉じるたびに――光るモップが夢の中に現れる。
そして、二つの世界が重なって見えた。
一方は高層ビルが立ち並ぶ現実の街。
もう一方は霧に包まれた暗い森。
その境界線に、モップが立っている。
微かな声が響いた。
「お前は“境界の守り手”。二つの世界が、お前を待っている。」
エリアナは飛び起きた。
冷たい汗が頬を伝う。
視線を向けると、部屋の隅のモップが静かに立っていた。
ただ、その影だけが――異様に長い。
「…マジで、これが霊のドッキリなら笑えない。」
けれど、心のどこかでエリアナは分かっていた。
――これは、始まりにすぎない。




