婚約破棄したのあなたでしょ!? ~押しかけ王子の過保護溺愛でスローライフ崩壊中~
空気がひんやりしている。
王都を出て丸一日、私は馬車もなしに山道を歩き続けていた。
背中の革鞄には最低限の衣服と、侍女のマリアが押し込んでくれた乾パンが少し。
「婚約破棄、か……」
つぶやきは白い息となって散る。
あの日、第二王子エルネストから突きつけられた一枚の破談文書。
その瞬間、私は王宮からも実家からも『厄介者』の烙印を押され、行く当てを失った。
山の斜面にへばりつくように、目指していた空き家が見えた。
年季の入った木造の小さな家。
屋根の一部は苔むし、庭には荒れ放題の畑が広がっている。
「……ここが、私の新しい家」
覚悟を込めて扉を押し開ける。
軋む音とともに埃が舞い上がり、思わずくしゃみが出た。
けれど、壁に大きな亀裂はないし、暖炉も残っている。
修繕すれば充分住めそうだ。
荷物を降ろして一息つくと、井戸のそばに立って水を汲んだ。
顔を近づけてくんくんと匂いを嗅ぐ。
「変な臭いはしないけど……っ」
口をつけると、冷たい甘みが喉を潤す。
意外なことに、王都の銀の水差しから汲んだそれよりもずっと美味しかった。
「畑を耕して、薪を割って、食べる分だけ作る。……うん、それでいいわ」
畑仕事や薪割りなんてしたこと無いけれど、きっと忙しくしている方が色々と考えなくて済む。
私にはもう豪奢なドレスも、絢爛な舞踏会も必要ない。
誰かに期待されることも無いし、期待することももうやめよう。
山鳥の声に耳を澄ませながら、心の底でそっと宣言した。
その日の夕暮れ。
暖炉に火を入れ、乾パンを少し炙って初めての食事を取った。
粗末だけれど、不思議と胸が温かい。
「明日は畑の草を抜いて、石もどかさないと……いや、それより食料の確保が先ね」
考えることは生きるために必要なことばかり。
それがかえって心地よかった。
夜が深まり、藁束の上に毛布を敷いて横になる。
窓の隙間から覗く星が、王城の自室から見たものより鮮明に瞬いている。
この静けさこそ、私が望んだ新しい生活の始まり。
今は辛く苦しいけれど、きっとここから良くなる一方だ。
だって、今がどん底なのだから。
そう思って目を閉じた。
翌朝、東の空が淡く染まるころ。
山鳥のさえずりで目を覚まし、私は伸びをした。
マリアがいなくたって、一人で起きれるんだから。
そう思った瞬間、 コンコン と玄関板を叩く音が響く。
「……え?」
荷物の配達など来るはずもない。
訝しみながら扉の前に立つ。
「あの……どちら様でしょうか?」
返答はない。
そっと鍵を確かめる。
ちゃんとかかっている、はず。
「…………ボクだ」
聞き慣れた低い声が木戸越しに落ちてきた。
胸の鼓動を押さえつつ取っ手を回す。
扉がきしみ、朝の光が細く差し込む。
そこに立っていたのは、紛れもなく第二王子エルネストだった。
「おはよう、リーゼ。マリアからここだと聞いて……」
エルネストは、声をひそめるようにして頭を下げた。
腕には革のバスケット。
中には野菜や燻製肉、パンなどの食料がたっぷり詰め込まれている。
「……何の御用ですか?」
声が震える。
私は扉の縁を握りしめ、半歩だけ身を引いた。
「引っ越したばかりで、何かと不自由だろう。少しでも役に立てればと思って」
「そんな心配、要りません。お帰りください。私は……私は、アナタに捨てられたんですよ……!」
絞り出した言葉に、自分でも驚くほどの苦味が混じった。
エルネストは小さく息をのみ、しばらく黙ってから、深く頭を下げた。
「……あの時のこと、本当に申し訳なく思っている。だが理由を説明するにはまだ準備が足りない。今日のところは、これだけ受け取ってほしい」
バスケットを土間に置くと、後ろへにじる。
無理やり足を踏み入れる素振りは一切ない。
「今日のところはって……また来るおつもりですか?」
「ああ。明日も、明後日も、その次も。キミに“もう来るな”と言われるまで」
静かな声が朝の冷気に溶け、胸の奥で波紋を広げる。
私は扉の隙間をさらに細くし、噛み締めた唇から熱い息を漏らした。
──いったい何を考えているの?
あの日、彼は私ではない“別の未来”を選んだはずだ。
「キミは不要だ」と突き放された痛みは、いまだ刺のように残っている。
それでも、彼と過ごした穏やかな時間を私は忘れられない。
いつかまた愛されるかもしれないという淡い期待。
その弱さが、拒絶を思いとどまらせる。
本当に、嫌になるほど未練が残っている。
「……どうぞ、ご自由に。ただし家の中に入れるとは思わないでくださいね」
「もちろんだ。リーゼ、くれぐれも体調を崩さないように」
小さく礼をして、エルネストは未舗装の山道へと背を向けた。
その姿が木々の陰に溶けるまで、私は扉を閉められなかった。
足もとに置かれたバスケットから立ちのぼるパンの匂いが、まだ冷え切った胸の奥で静かにうずまいていた。
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そこから、本当に毎日彼は来た。
朝早く、まだ霧が薄く漂う時間。
扉を叩く音は小さく、控えめで、私が反応しなければ諦めたように帰っていく。
カップを伏せて乾かしているときも、ベッドの中でまどろんでいる時も、あの足音を聞けば心臓が跳ねる。
「もう来ないで」と言わなければならないのに、言えない。
言った瞬間に、もしかすると本当に姿を見せなくなるのではないかという、不思議な不安が胸を締めつける。
それでいいはずなのに。
一日目は卵と野菜。
二日目は保存食と、短い手紙。
三日目は傘。
四日目は苗木。
五日目には種と小さな木箱。
どれも生活の役に立つものばかりで、私は受け取りながらも自尊心がちくりと痛む。
自分で生きると決めたばかりなのに、彼の差し出す便利に甘えてばかりだ。
ある時、井戸が壊れた。
見るからに古そうな物だから仕方ない。
生活に必須な水の確保に困っていると、その日の晩に彼がドアをノックした。
「井戸、直しておいた。……ちょうど交換用の部品を持っていたんだ」
そう言って、私が礼を言う前に静かに去った。
あまりに力技な言い訳に、私は思わず笑ってしまった。
怖くなってしまうほどの気遣い。
けれど彼の行動であれば、途端に愛しく思えるから不思議だ。
そして、暖炉の前で考える。
なぜ彼はそこまでするのか。
罪悪感だけでここまで足を運べるだろうか。
本当は、私のことをまだ、想ってくれているのだろうか。
もしそうなら、私の苦しみは一体何のためだったのか。
「会って話しましょう」と書く勇気はまだない。
あの扉一枚が、私の最後の抵抗であり、彼の最後の礼節だ。
また別の日、扉の前には何も置かれていなかった。
ノックの音も、足音もない。
胸がざわつき、さらに静寂が深くなる。
自分がどれほど彼に慣れてしまっていたのか、思い知らされる。
午後になっても彼は現れず、私は落ち着かないまま鍬を振るい、無駄に畑の土を掘り返した。
夕暮れ間際、ようやく彼はやって来た。
「遅くなった。王都の報告書が……」
言い訳の言葉は途中で掠れる。
私は咄嗟に「もう来ないかと思った」と言いかけて、言葉を飲み込む。
その代わりに出たのは、思ってもいなかった一言だった。
「――冷たいお茶くらいなら、あります」
扉は開け、外に出る。
小屋の外、切り株に腰掛ける彼に陶器のカップを渡す。
私はその隣に少し距離を取って座り込み、同じお茶を啜る。
それだけなのに、胸の奥に灯がともったように温かい。
彼は多くを語らず、私も問いたださない。
けれど沈黙がやさしかった。
こんなふうに時間を共有するだけで、過去の痛みがほんの少し薄れた。
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ある日の夜、山の天気は豹変した。
遠くで雷鳴が響きはじめ、続く強風が森をざわめかせる。
私は戸締まりを確かめ、暖炉に薪を足した。
けれど天井板を打つ雨音はどんどん激しくなる。
やがて、ぽたり。
額に冷たい滴が落ちた。
見上げると、屋根材の継ぎ目から雨漏りが始まっている。
「まずいわ……」
桶を置いて凌ごうとしたものの、滴は次第に線になり、床を濡らし始めた。
放置すれば寝床まで浸みる。
私は合羽がわりに布を羽織り、外梯子をつかむ。
風が唸り、足元の泥が滑る。
必死で屋根へよじ登ると、板の一枚が剥がれていた。
釘を打ち直そうと体を伸ばした瞬間、突風。
「きゃっ――」
視界が揺れ、身体がずるりと滑る。
爪が瓦をかき、肘と膝を打ちつけた。
息が詰まる痛みと共に、雨水が肌着まで染み込む。
どうにか軒先で踏ん張ったものの、頭がぼうとする。
そこで意識が途切れた。
気がつくと、板張りの天井が見えた。
火の明かりがゆらぎ、頬に濡れた布の冷たさ。
私はベッドに寝かされていた。
「目が覚めたか」
枕元に座るエルネストの声。
彼の上着は泥だらけ。
袖口は裂け、右手には薄い擦り傷がにじんでいる。
「……どうして、ここに」
喉は焼けるように痛い。
声を出すと咳がこみ上げる。
「雷鳴が酷かったから心配になって。戸を叩いても返事がなかった。許可なく入るのは礼を欠くと分かっていたが……家の裏手に回ったとき、屋根の下で倒れている君を見つけて、迷っている余裕はなかった」
私の手が布団の上で拳を作る。
「勝手に……でも、ありがとう」
彼は首を振り、薬壜を揺らした。
「熱が高い。解熱の煎じ薬を作った。苦いが、飲んでほしい」
匙で口に運ばれる液体は確かに苦かった。
「屋根は応急で塞いだ。明日、天気が落ち着いたらしっかり直す。君は安静にしていてくれ」
「……そっちの腕は?」
彼の右袖ににじむ血が、焚き火の橙に照らされている。
「掠り傷だ。気にするほどではない」
そう言いつつ、私が眉をひそめると、彼は観念したように布を巻き直した。
手当ては粗末だが止血はできている。
私は枕から首を起こしかけ、眩暈で再び沈む。
「無茶はしないで」
かすれる声でそう言うと、エルネストは一度大きく目を見開いて、そして柔らかく細めた。
「その言葉はボクの方こそキミに言いたい。……リーゼ。こんなこと、ボクが言える立場じゃないのはわかっているが……どうか、自分をもっと大事にしてくれ」
掛け布を直し、髪の水気をタオルで拭い、彼は暖炉に薪を追加する。
動作は静かで、まるで長年連れ添った家族のようだ。
私は微熱に浮かされながら、その背をぼんやり眺める。
私を守る人だった頃の面影。
あの日、突然失ったものがこんな形で戻ってくるなんて。
瞼が重く、再び眠りの底へ沈みかける。
そのとき、遠くで囁くような声が聞こえた。
「明日、キミに伝えたいことがあるんだ」
言葉の続きを聞く前に、意識が闇に塗りつぶされる。
私はただ、触れた額の手が温かかったことだけを覚えていた。
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嵐は去り、早朝の空気は澄んでいた。
熱が下がったとはいえ、まだ倦怠感は残る。
私は椅子で居眠りするエルネストに毛布をかけ、暖炉の炎を見つめた。
「……すまない! 少し居眠りを……」
浅い呼吸で目を覚ました彼は、すぐ私の額に手を当てる。
「もう平熱よ。ありがとう」
そう答えると、彼は私の手首で脈を測り、安心したように微笑んだ。
その笑顔の奥に深い影が見える。
問いかけをためらう私に気づいたのだろう。
彼は包帯の巻かれた腕を膝に置き、真っすぐこちらを見た。
「キミを傷つけた日のことを、話させてほしい」
私は頷く。
暖炉の火がはぜる音だけが、小屋の静けさを切り裂いた。
「王都の近衛に、敵国の内通者がいた。ボクの周りの者から、キミを人質に取る計画が持ち上がったんだ」
声が震える。
「証拠をつかむまで気取られたくなかった。誰が敵で誰が味方なのかも、いつ計画が実行されるのかもわからない。とにかく早急にキミを切り離すしか、守る手立てが思いつかなかったんだ」
婚約破棄の場面が頭の中に蘇る。
冷たいあの言葉は、私を遠ざける盾だった。
そう思えば納得できる。
だが、胸の痛みまで消えるわけではない。
「……なぜ、一言相談してくれなかったの?」
掠れた声が自分でも驚くほど穏やかだった。
「ボク一人で、何とかできると思っていたんだ。一旦キミを隔離して、急いで事件を解決して、そして迎えに行けばそれでいいと。けれど……本当に、独りよがりだったと思う。キミに酷い傷を負わせてしまった」
俯いた彼の拳が震える。
包帯の白が涙に滲んだ。
「私は強くないから、守ってもらえたら嬉しいわ。でも同じくらい……信じてもらいたかった」
言葉にして初めて分かる。
求めていたのは、拒絶ではなく信頼だったのだと。
彼は顔を上げ、まるで壊れ物に触れるように私の手を包む。
「もう二度と独りで結論を出さない。君と一緒に考え、君と一緒に選ぶ。どうか……やり直させてほしい」
私はそっと瞼を閉じる。
完全に許したわけじゃない。
でも彼が差し出したこの手を振り払う理由も、もう見つからない。
「私、まだ怖い。もう一度アナタが離れていく日が来るんじゃないかって」
「分かってる……本当にすまない」
「それでも。少しずつなら、歩けるかもしれない」
指先が震えながら、彼の手を握り返した。
暖炉の火よりも彼の掌は温かかった。
窓辺の鉢に植え替えた苗木が風に揺れる。
春になれば花が咲くという。
「王都の問題はカタが付きつつある。花が咲くころには、キミも再び――」
言いかけた言葉を、私は片手で制した。
「その時はその時。今は……お茶でも淹れましょう。甘い蜂蜜入りの」
エルネストの肩がふっと緩み、安堵の笑みがこぼれる。
私は立ち上がり、吊るしてあったティーポットを火にかけた。
外では雲が切れ、木洩れ日の筋が床を照らす。
静寂を望んだはずの山小屋で、差し向かいの湯気が立ちのぼる。
再び始まるかもしれない未来の、その最初の一歩。
まだ許しきれない想いも、癒えない傷もあるけれど。
それでも今は、同じ温度のカップを手に、同じ場所で息をつくことができる。
暖かいお茶の香りに包まれながら、私は小さく笑った。
やっと、心から「おはよう」と言える朝が来た気がした。
リーゼの物語を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本作とは少し毛色違いにはなりますが、異世界転移モノのファンタジー小説を掲載しています。
もしご興味あれば、下部の作者マイページからぜひ読んでみてください。