第3話 接触と試金石
「……何の、こと」
月読静の問いかけに、澪はかろうじてそう答えるのが精一杯だった。「この街の“軋む音”」。その言葉は、まるで澪の内側で鳴り響く不協和音を正確に言い当てているかのようだった。目の前の少女は、自分と同じ「何か」を感じ取っているのだろうか。それとも、これは巧妙な罠なのだろうか。
静は、表情一つ変えずに澪を見つめ続ける。その黒曜石のような瞳は、感情の機微を一切映し出さず、ただ静かに真実を吸い込もうとしているかのようだ。
「言葉通りの意味よ。この街は、どこか歪んでいる。あなたも、それに気づいているはず」静の声は、囁くように低いが、有無を言わせぬ響きがあった。「そして、その歪みは、時々、形を成して現れる」
形を成して現れる――その言葉は、澪が日々感じている「澱」のことを指しているのだろうか。
「私には、あなたの周りに、奇妙な“揺らぎ”が見える」静は続けた。「それは、他の人には見えないもの。そして、あなたの感情と呼応しているように見える」
澪は息を飲んだ。この少女は、自分の能力の本質を、ここまで正確に見抜いている。夜長とは違う、もっと直接的で、分析的な視線。それは、ある種の心地悪さと同時に、これまで誰にも理解されなかった自分を初めて「認識」されたような、奇妙な感覚をもたらした。
「……だから、何?」澪は警戒心を解かずに問い返した。「あんたは、一体何者なの」
「私は、月読静。ただの転校生よ」静はあっさりと答えた。「でも、あなたとは、少しだけ“同じ景色”を見ているのかもしれない」
そう言って、静はふっと視線を逸らし、屋上のフェンスの向こう、灰色の街並みを見やった。「この街の澱は、濃すぎる。放置すれば、いずれもっと大きな不協和音を引き起こすわ」
その言葉の真意を測りかねていると、静は再び澪に向き直った。「あなたの力は、その不協和音を調律できるかもしれない。あるいは……増幅させることも」
調律、あるいは増幅。その言葉は、澪の胸に重く響いた。自分のこの忌まわしい力は、一体何のために存在するのだろう。
翌日から、静は何かと澪に接触してくるようになった。それは、あからさまな接近ではなく、まるで偶然を装ったかのような、巧妙な接触だった。昼休み、澪がいつものように屋上で弁当を広げていると、静も同じように屋上に現れ、少し離れた場所に座る。そして、ぽつりぽつりと、この街の「奇妙な出来事」について語り始めるのだ。
「昨日、駅前の交差点で、信号機が一斉に故障したらしいわね。原因不明だって」
「商店街の古い時計台の針が、数日前から逆回転しているらしいわよ。誰も気づいていないみたいだけど」
それらは、些細な、しかしどこか不気味な出来事だった。そして、静がそれらの話をする時、決まって澪の感情が大きく揺さぶられるような状況――例えば、佐伯教師からの理不尽な叱責の後や、クラスメイトたちの陰口を耳にした直後――に重なることが多かった。
ある日の放課後、澪が一人で図書室にいると、静が隣の席に座った。そして、一冊の古い郷土史の本を開き、あるページを指差した。そこには、かつてこの芦浜市で起きたとされる、原因不明の連続小火災事件の記録が記されていた。古い文献には、「人々の悪意が炎を呼んだ」といった、迷信めいた記述も散見された。
「興味深い記述だと思わない?」静は、澪の反応を窺うように言った。「悪意が、物理的な現象を引き起こすなんて」
その時、図書室の蛍光灯が、チカチカと数回点滅した。そして、澪のすぐそばの本棚から、一冊の本が滑り落ちた。誰も触れていないのに。
(……まさか)
澪は自分の胸の高鳴りを感じた。自分の怒りや苛立ちが、今、この現象を引き起こしたのだろうか。そんな馬鹿なことがあるはずがない。しかし、静の視線は、まるで「ほらね」とでも言いたげに、澪に向けられていた。
「あなたの感情は、思った以上に周囲に影響を与えるみたいね」静は、こともなげに言った。「自覚はあった?」
「……気のせいよ」澪は吐き捨てるように言ったが、声が微かに震えているのを自分でも感じた。
こうした静との奇妙なやり取りは、彰人の注意を引かずにはいられなかった。彼は、以前にも増して澪のことを気にかけるようになり、時折、心配そうな表情で声をかけてくるようになった。
「水瀬、最近、月読さんとよく一緒にいるみたいだけど……大丈夫か?」
ある日の昼休み、彰人は屋上で一人佇む澪にそう尋ねた。彼の表情には、純粋な心配と、そしてほんの少しの嫉妬のようなものが混じっているように見えた。彼の周囲の澱も、いつもより不安定に揺らいでいる。
「別に、あんたには関係ないでしょ」澪はいつものように冷たく返した。
「関係なくないだろ。同じクラスなんだし……月読さんって、なんだか、こう……掴みどころがないっていうか」彰人は言葉を選びながら言った。「水瀬が、何か変なことに巻き込まれてるんじゃないかって……心配なんだよ」
「心配?」澪は鼻で笑った。「あんたみたいな“人気者”が、私みたいな“はみ出し者”のことなんか心配するなんて、酔狂ね」
その言葉に、彰人の顔が傷ついたように歪んだ。彼の笑顔の仮面が、一瞬剥がれ落ちそうになる。
「……そういう言い方、しなくてもいいだろ」
「じゃあ、どういう言い方をすれば満足なの? 『ありがとう、風間くん。心配してくれて嬉しいわ』って? 馬鹿馬鹿しい」
澪の言葉は、棘のように彰人に突き刺さった。彼女自身も、なぜこんなにも彼に対して攻撃的になってしまうのか、分からなかった。彼の見せる「善意」が、あまりにも眩しくて、そしてあまりにも嘘くさく感じてしまうからかもしれない。あるいは、彼の澱の奥に見え隠れする、彼自身の「痛み」に触れるのが怖いのかもしれない。
彰人は、しばらく何も言えずに立ち尽くしていたが、やがて力なく笑った。「……そうだな。俺の余計なお世話だったみたいだ。悪かった」
そう言って、彼は屋上から立ち去っていった。その背中は、いつもよりも小さく見えた。
一人残された澪は、胸の中に奇妙な罪悪感が広がっていくのを感じた。しかし、それを認めたくなくて、無理やり心の奥に押し込める。
その時、ポケットに入れていたスマートフォンが短く振動した。見ると、匿名のSNSアカウントから、澪を誹謗中傷する書き込みがまた一つ増えていた。内容はいつもと同じ、澪の孤立を嘲笑し、彼女の存在を否定するような言葉の羅列。
(……くだらない)
澪はスマートフォンをポケットにしまい込み、空を仰いだ。灰色の空。どこまでも続く、出口のない閉塞感。
佐伯教師の澪への圧力は、日増しに強まっていた。服装の乱れ、授業態度の悪さ、そして、最近では「月読静との不健全な交友関係」までが、彼の叱責の対象となっていた。
「いいか、水瀬。お前は周りに悪影響を与えているんだ。少しは自分の立場をわきまえろ!」
職員室に呼び出され、一方的にそう怒鳴られた後、澪は重い足取りで廊下を歩いていた。怒りと屈辱で、頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚。
(私のせいだって言うの……? ふざけるな……!)
その瞬間、廊下の窓ガラスが一枚、ピシッ、と音を立ててひび割れた。まるで、澪の怒りに呼応したかのように。
澪は、はっと息を飲んで立ち止まった。自分の足元に散らばる、小さなガラスの破片。そして、窓に残る、蜘蛛の巣のような亀裂。
(まさか……私の……せい?)
自分の感情の高ぶりが、現実に影響を及ぼしている。その可能性が、否定できない確信へと変わりつつあった。恐怖と、そしてほんの僅かな、禁断の力を手にしたような高揚感が、澪の中で渦を巻いた。
遠くで、静がこちらを見ているような気がした。彼女の表情は、相変わらず読み取れない。しかし、その瞳の奥には、まるで試金石が期待通りの反応を示したのを見届けたかのような、微かな満足感が宿っているようにも見えた。
この力は、一体どこへ向かうのだろう。調律か、それとも増幅か。澪の心は、まだその答えを見つけられずにいた。