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第1話 煤色の日常と不協和音

はじめまして。或 るいと申します。


いよいよ、この場所で、私の綴った最初の物語を皆様にお届けできることを、心から嬉しく、そして少しばかりの緊張と共に、ご挨拶させていただきます。


今日から連載を開始するのは、『灰燼のアルペジオ』と名付けた物語です。


普段、私たちが「当たり前」と感じている日常のすぐ隣で、もし、人の心の奥底に澱のように溜まる感情が、見えない形で蠢いているとしたら――。そして、その不協和音が、やがて現実の世界にまで響き始めたら、一体何が起こるのでしょうか。


この物語は、そんな問いかけから生まれました。

一人の少女が見つめる、どこか煤けた世界の風景と、彼女が感じ取る、言葉にならない「何か」。そこから始まる、切なくも激しい、感情の記録です。


拙い文章ではございますが、この物語が、皆様の心のどこかに、微かな「音」や「響き」を残すことができたなら、書き手として望外の喜びです。


どうぞ、ごゆっくりとお読みいただければ幸いです。


或 るい

ガタン、ゴトン。規則正しい振動が、水瀬澪の意識を現実へと引き戻す。薄汚れた電車の窓ガラスには、煤けた街並みがスライドショーのように映り込んでは消えていく。海沿いのこの街、芦浜市は、いつだってこんな灰色だった。朝日だろうが夕日だろうが、空の色は常に薄ぼんやりとしていて、まるで古い写真みたいに色褪せている。


「……っ」


不意に、澪は眉をひそめ、軽く口元を押さえた。目の前の席に座る、スマートフォンに夢中な女子高生二人組。その周囲に、黒いもやのようなものがまとわりついているのが見える。それは澪にしか見えない、人間の感情の「おり」だった。嫉妬、嘲笑、優越感。言葉にはならない、しかし明確な悪意の塊。それがじわりじわりと澪の視界を侵食し、胸の奥を不快にかき混ぜる。今朝は特に酷い。まるで、澱が飽和して、そこかしこで滲み出しているかのようだ。


(またか……うんざりする)


澪は小さく息を吐き、制服のポケットからイヤホンを取り出して耳に突っ込んだ。大音量のノイズミュージックが、周囲の音と、そして自分の中の不協和音を無理やり掻き消そうとする。それでも、完全に遮断することはできない。視界の端に映る澱は、まるで生き物のようにうごめき、澪の神経を逆撫でし続けた。


芦浜市立芦浜東高等学校。それが澪の通う学び舎であり、澱の巣窟でもある。教室のドアを開けた瞬間、むわりとした澱の臭いが鼻をついた。気のせいではない。実際に、甘ったるく腐臭を放つような、そんな感覚。クラスメイトたちの笑顔、挨拶、当たり障りのない会話。その全てが、薄っぺらなオブラートに包まれた嘘に見えた。


「おはよー、水瀬さん」


声をかけてきたのは、クラスの中心人物の一人、風間彰人だった。太陽みたいに明るい笑顔。非の打ちどころのない優等生。しかし、澪の目には、その完璧な笑顔の縁が、ほんの僅かに黒く滲んでいるのが見えた。それは、彼が必死に隠しているであろう、焦燥や虚無感の欠片。


「……別に」


澪は短く答え、自分の席へと向かう。彰人の笑顔が一瞬だけ、ほんの僅かに強張ったのを、彼女は見逃さなかった。だが、すぐにいつもの人懐っこい表情に戻り、他の生徒たちとの会話の輪に入っていく。


(……こいつも、同じか)


心の内で呟く。誰もが何かを隠し、何かを偽り、そうやって器用に生きている。それがこの世界の「普通」なのだと、頭では理解しているつもりだった。それでも、全身でそれを拒絶してしまう自分がいる。


ホームルームが始まり、担任の佐伯が教壇に立った。彼の澱は、他の誰よりも粘着質で、よどんだ色をしていた。諦めと、自己保身と、そして生徒たちへの見下したような感情。それらが複雑に絡み合い、彼の言葉の端々から滲み出ている。


「えー、来週の進路相談だが、水瀬。お前は特に時間を取るからな。その格好も、もう少しどうにかならんのか。社会に出たら、そんなんじゃ通用しないぞ」


佐伯の言葉は、いつものように澪に向けられた。少し着崩した制服、耳を覆うイヤホン。それらが彼の「普通」の基準から外れているらしい。


(だから何? あんたの言う「社会」って、そんなに偉いわけ?)


口には出さず、ただ無表情に佐伯を見つめ返す。彼の言葉は、ノイズミュージックの壁をいとも簡単にすり抜けて、澪の鼓膜を不快に震わせた。澱が濃くなる。佐伯の背後に、黒い影が揺らめいているようにさえ見えた。


授業が始まっても、澪の意識はどこか遠くにあった。教科書に書かれた文字は意味をなさず、教師の声はただの雑音として右から左へと抜けていく。窓の外に広がる、相変わらずの灰色の空。あの空の向こうには、何があるのだろう。この息苦しい澱から解放される場所は、存在するのだろうか。


昼休み。澪はいつものように、弁当を持って屋上へと向かった。立ち入り禁止の札はとっくの昔に意味をなさなくなり、そこは澪にとって唯一、澱の薄い避難場所だった。金網越しに見下ろす校庭は、まるで蟻の巣のようだ。楽しそうに騒ぐ生徒たちの声が、風に乗って微かに聞こえてくる。


イヤホンを外し、冷たいコンクリートの上に胡座をかく。弁当の蓋を開けると、母親が作った卵焼きが目に入った。それだけが、この灰色の日々の中で唯一、確かな色彩を持っているように感じられた。


不意に、背後で金属の軋む音がした。振り返ると、彰人が立っていた。手には、彼もまた弁当箱を持っている。


「……ここ、お前の指定席だったか?」


彰人は少し気まずそうに笑いながら言った。彼の周囲の澱は、教室にいた時よりも薄いが、それでも消えてはいない。むしろ、二人きりになったことで、その揺らぎがより鮮明に見える気がした。


「別に」


澪は再び短く答え、視線を校庭に戻す。彰人はためらうように数秒立ち尽くしていたが、やがて澪から少し離れた場所に腰を下ろした。


沈黙が続く。風の音と、遠くで響くサイレンの音だけが、二人の間に漂っていた。澪は黙々と弁当を食べ進める。彰人は、時折澪の方を気にしているようだったが、何も話しかけてはこない。


(何を考えてるんだか)


彼の澱は、まるで万華鏡のように、様々な感情の色合いを見せていた。好奇心、戸惑い、そして、ほんの少しの…羨望? まさか、と思った。この、何もかもを拒絶している自分に、羨むものなどあるはずがない。


「なあ、水瀬ってさ」


不意に、彰人が口を開いた。


「いつも、何聴いてんの?」


その問いかけは、あまりにも普通で、拍子抜けするほどだった。澪は一瞬、答えに窮する。自分の聞いている音楽を、他人に説明するのは難しい。それは、言葉にするにはあまりにも個人的で、混沌とした感情の塊のようなものだったからだ。


「……別に、あんたには関係ない」


結局、いつものように突き放すような言葉しか出てこなかった。彰人の顔に、またあの微かな強張りが浮かぶ。そして、すぐにそれは苦笑へと変わった。


「そっか。だよな」


彼はそう言って、自分の弁当に視線を落とした。その横顔に浮かぶ澱が、ほんの一瞬、濃く揺らめいたのを、澪は見逃さなかった。それは、諦めにも似た、しかしもっと深い、何か別の感情のように見えた。


(こいつも……何か、抱えてるのか)


そう思った瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。それは同情とは違う、もっと複雑な感覚だった。この男の完璧な仮面の下にも、自分と同じような澱が渦巻いているのかもしれない。そう思うと、ほんの僅かだが、息苦しさが和らぐような気がした。同時に、そんな感傷的な考えを抱いた自分自身に対する嫌悪感が湧き上がってくる。


結局、その日の屋上での会話は、それきりだった。


放課後、澪は一人、古びたアーケード街を抜けて家路についていた。シャッターの下りた店が多く、人通りもまばらだ。ここもまた、澱が堆積しやすい場所だった。家々の窓の奥、路地の暗がり、そこかしこに黒い影が潜んでいる。


ふと、一軒の古書店の前で足が止まった。煤けた看板には「夜長堂よながどう」と書かれている。以前から気にはなっていたが、入ったことはなかった。何かに導かれるように、澪は錆びたドアノブに手を伸ばす。


ギィ、という重たい音と共にドアが開くと、カビと古い紙の匂いが鼻腔をくすぐった。薄暗い店内には、天井まで届きそうな書架が迷路のように並んでいる。


「……いらっしゃい」


奥のカウンターから、老婆の声がした。

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