8
パーティの当日、三人は待ち合わせをしてマデリーンの屋敷に向かった。
マデリーンの屋敷は、都の中心地から離れた閑静な住宅街にあった。広々とした敷地内にある立派な屋敷の佇まいに思わずソフィアは言葉を失う。
しかしジョンとヒューゴは特に戸惑うこともなくさっさと屋敷の中に足を進めてしまった。ジョンは相変わらず得体が知れないが、彼の裕福さは感じとれる。こういった場面にも慣れているのだろう。ただ、ヒューゴの物怖じしない態度は不思議だった。
わたしは思わずドレスを踏んでしまいそうなのに、とソフィアは嘆きつつ慌てて後を追う。ヒューゴの衣装のみならず、ジョンはソフィアのドレスまでどこかで仕入れてきたのだった。
緑と紫という一風変わった色使いだったが、紫陽花を思わせる美しいドレスだった。綺麗なドレスが着られて嬉しい、という気持ち以上に腰が引ける。揃いの靴と装飾品まで用意したジョンに、思わず疑念の視線を向けてしまった。
こんな高いもの借りられないと叫ぶソフィアとこれを着ていかなかったら連れて行かないと言うジョン、なら別に行きたくもない、行けよ、という押し問答は、ホテルに現れたヒューゴが放った「ああ、これを着たソフィアは綺麗だろうねえ」の一言で落着した。
なんで僕の言う事は聞かないんだとジョンが不満を漏らしていたが、ソフィアに言わせれば当たり前のことである。
マデリーンの屋敷に入ると、すでに招待客でにぎわっていた。華やかな衣装を身に着けた人々が、美しい床石が置かれさらに分厚い絨毯が敷き詰められている廊下で、慣れた様子で歓談している。誰も彼も有力者とその取り巻きである事が場慣れしていないソフィアでも容易に推察できた。新聞で見たことのある政府の要人まで来ている。
玄関から近いところで客を歓迎していたマデリーンが三人に気がついて近づいてきた。
「来て下さってありがとう」
マデリーンはソフィアの手をそっと両手で握り締めた。
今日のマデリーンは深い海のような光沢のある紺地に銀糸で刺繍がされたドレスをまとっていた。結い上げられた髪が室内の光を反射して美しい。
「どうか楽しんで行ってね。わたくしソフィアと知り合えてとても嬉しいの」
それから彼女は横にいるジョンとヒューゴにも微笑みかける。
「ジョンも楽しんでもらえると嬉しいわ。そしてあなたがウィルシャー先生?」
「そうです。マデリーン」
ヒューゴは礼儀正しくマデリーンの手の甲に口付けた。その自然な動作にソフィアは驚く。今まで見たことのないヒューゴの姿に驚きが隠せない。
ソフィアが見たことのあるヒューゴは、いつも皺だらけのシャツをズボンから少しはみださせて、髪も今起きたところですというくしゃくしゃ加減だ。そこに適当な場所に放置しておいたのを拾って着ましたとばかりの白衣を羽織っている。記憶をずっと遡って、ソフィアの祖父母が生きていた頃を思い出してみれば、小奇麗にしていた時も会ったような気もするが……。
それなのに今のヒューゴはどこに出しても恥ずかしくない紳士だ。
確かに衣装こそジョンがどこかから持ってきた借り物とはいえ、それは身にぴったり在っている。そして着慣れした様子を伺わせる。
「最近は忙しくてなかなか行く機会がありませんが、以前家内とあなたの芝居を拝見いたしました。とてもすばらしかったと記憶しています」
よどみない調子で話す姿も堂々としたものだ。
「ご多忙のところ、無理にお越しいただいて申し訳ありません。でもあなたの学生時代の論文を読みましたわ。それが大変面白かったものですから。ぜひお話をしてみたかったの」
「そういった方面にも興味がおありで?あれは確かシナバー患者の血液の保存についてでしたが」
「わたくし、恥ずかしながら学はありませんけど、やはり自分のことですから興味はあります」
マデリーンは微笑んだ。
「よろしければお話を伺えます?」
「喜んで」
どうせ美しいだけだろうと思っていたらしいヒューゴはマデリーンの言葉に大変驚いた様子だった。それは嬉しさに繋がったようで、彼はマデリーンと一緒に室内に歩み去ってしまった。
「マデリーン・レノルズは確かに学校こそ行っていないものの、さまざまなことに興味があるらしいな。聡明な人だ」
二人の後姿が客たちの中に消えていくのを見守って、ジョンが言った。
「すごい人ね」
唖然としてしまってさっぱり気の利いたことも言えない。
「なんだか精彩に欠けるな。ああそうか、もしかしてヒューゴの様子に驚いているのか?」
「あなたは驚かないの?」
「もしや君はヒューゴの事をあまり知らないのか?」
「父の友人だったということぐらいしか。父はヒューゴの家のこととか何も語らなかったし、シンシアと駆け落ちしてからはわたしの口からは聞きづらくて」
「ウィルシャー家は貴族だが」
「え?」
まあ今となっては貴族もだいぶ特権を失っているがな、とジョンは続ける。
三百年前、大陸の四つの国を併合した建国王。各国の基盤はなるべく尊重したが、ある程度権力層を整理した。多くの貴族階級が特権を失ったが、その分民衆からの指示を得て建国王は国の土台を作ったのだった。
そして百年ほど前に、議会制が始まり王家は権力をそちらに段階的に委ねていった。穏健な権力移譲だったがために、王家も残った貴族も多くを失う事無く、領地内でまだ裕福に暮らしている。王家と貴族は国家の象徴として生き延びたのだった。現在の女王も国民から愛されている。
ジョンの話では、ウィルシャー家は都から遠いものの広大で豊かな領地を持つ地方貴族であった。
「その次男坊。だから医者を志すところまでは特にとめられなかったらしいが、さすがに結婚についてはいろいろ周りがやかましかったらしい」
「そうなの」
「シンシアは貧困層の出で、働きながら看護学を学んでいたらしい。どこで知り合ったのかは知らないが、二人は出会い、そして駆け落ちした」
「ジョン、あなたねえ、話をはしょりすぎ」
しかしそれでも必要な事はわかった。それに何が起きたか推察するのは難しくない。次男坊とは言え、貧困層の娘との結婚を無条件に許す貴族の当主はなかなかいないだろう。
駆け落ちするくらい好きだったのか、と思う。
そしてシンシアが亡くなった後も実家に戻ったりせずこの町の貧困街に留まっているのは、やはりまだ彼女への愛情がそこにあるからだろう。
「だからこういった場も別に苦手ではなさそうだ」
マデリーンと話し込んでいる彼をちらりと見て、ジョンは話を終わらせた。
「さてせっかくの楽しい会なのにここでヒューゴの話をしていてもつまらない。僕は何か食べてくる」
「えーと、わたしは」
室内を見渡してソフィアは少々気後れする。さすがマデリーンの開いたパーティだけあって、来ている人々もかなりの上流階層だと見受けられる。どうにも自分が場違いに思えて招待客の集うボールルームから目をそらす。と、その先に見えたものにソフィアは目を輝かせた。
「あそこにいるわ」
ソフィアが示したのは廊下の突き当たりにある図書室だった。
「この規模のお屋敷なら、きっと図書室も充実しているんじゃないかと思うの。見学してくるわ」
「何も食べなくて良いのか?」
「ええ。あとで行くわ」
ソフィアはそわそわしながらジョンを置いて廊下を進み始めた。急に足取りが軽くなる。人の気配が徐々に少なくなり、廊下には給仕のために行きかう使用人の姿と、酔いつぶれて座っている男性の姿が見つかるようになったころ、図書室にたどり着いた。開かれたままの扉を抜けると大量の書物独特の香りがした。
「ああ、やっぱりすごい」
図書室は最近張りかえられたばかりらしい美しい壁紙の前に本棚が立ち並んでいる。花柄の布が張られた椅子に座って眺める図書室はサロンの様である。ソフィアの通う大学校も歴史ある校舎であるが、ここに比べればやはり無骨感は否めない。図書室一つにも手を抜かない美意識とそれを支える資産が見受けられる。それはひとえにパトロンのものであり、さらにはそれを可能にするマデリーンの美貌と才能に思い至った。
さて何を読もうかと見渡した時、図書室の奥に先客がいることに気がついた。人の声がする。だが、普通の声ではなく潜められた声になんとなくただならぬものを感じ、ソフィアはそっと立ち上がるとそちらに近づいてみた。
本棚の影から覗き込んでみると、そこにはめかしこんだ男女が一組いた。二人はほぼ抱き合っているという状態であり、オマケに顔まで触れ合っている。
あらあらこんなところ見ちゃいけないわ、そう考えてソフィアがまた静かに立ち去ろうとした時だった。
「マデリーンだって」
聞き覚えのある人の名が聞こえておもわず足を止めてしまった。
「マデリーンだってそのうち引退するわ。きっとそう遠くない」
そろりと再び書棚の影から盗み見る。若い女性の顔には見覚えがあった。マデリーンに劇場で会った時に廊下ですれ違った女優の一人だ。マデリーンの後輩だろう。まだ端役であろうが確かに愛らしい顔をしている。互いの距離の近さから見て男は恋人か。しかし女とはまるで父と娘くらい年齢が違う。
「そうかな。彼女はまだ引退は先だろう。演技力の高さは他とは比べ物にならないし、ファンも多い。まだ劇団も手放さないだろう」
男は特に感情を露わにしないで言った。
「でももういい年よ。そろそろ誰かと結婚したって良い頃だわ」
「そして君のパトロンに私がなるのかい?」
男は笑ったが女のほうは機嫌を損ねたようだ。その会話で男性がマデリーンのパトロンなのだと思いつく。立派な口ひげを蓄えたその男は堂々とした態度からもかなりの名士と察しがついた。
「マデリーンの機嫌を損ねたくないな、私も。マデリーンにはまだ十分期待できるよ。もうしばらくはね」
「でもマデリーンは身勝手よ。自分の贔屓の役者を強引に演劇団に入れたのよ。えっと確かダニエル・リードとかって……」
「ああ、彼の話なら聞いているよ。才能があるとマデリーンが気に入ったそうだ。進んで私に話すくらいだ。恋人同士なんてことは無いだろう。まああっても多少の火遊びなら私も目をつぶるがね」
そして男は立ち上がった。会場に戻らなければと告げると、その若い女優もしぶしぶ一緒に出て行く。パトロンを口説き落とすのは失敗したらしい。
「なんというか……美しさで生きていくのも大変な世の中ね……」
やっと静かになった図書室で、ソフィアはふうとため息をついて書棚の前に歩み寄ると立派な蔵書の背表紙を追っていく。
「あまり文学は得意じゃないから……」
恋愛小説をソフィアは読まない。事実を淡々と書いている歴史書のようなものが好きだった。自分にはそういった情緒が欠けているのかと悩む時もある。恋しあう二人が苦難を乗り越えて結び合ったラストよりも、骨と関節と筋の複雑な動きの図説を理解したときに爽快感を強く感じるのだ。
ああ、でも最近では、ジョンと会話がちゃんと噛み合ったときに爽快な……、とそこまで考えてソフィアは慄いた。いつの間にか毒されているとソフィアは青ざめるが、それ以上思案することはできなかった。
「あれーええ?」
突然、あまり口がうまくまわっていない危なっかしい言葉が聞こえてきたのだった。振り返って入り口を見てみれば、今度は若い男性の二人組が図書室にやってきたところだった。それなりに裕福なのであろう、着ている物は上等だが、特に特徴らしいものもない凡庸な二人だった。しいて特徴をあげるとすれば、すごく酔っている、であろうか。
「いないじゃないか」
ろれつが回っていない状態で一人が不満を言う。
「いやあ、さっきはちゃんといたんだよ。国立演劇団の女優が。そりゃマデリーンほどには売れていないけど可愛い子なんだ」
「だからいないってば」
ちょうど入れ替わりだったらしい。図書室も大賑わいである。しかし先輩のパトロンを口説いているようなところなど、誰かに見られなくて彼女も幸運であった。
「あ」
青年達は所在無げに立っているソフィアに気がついた。ふらふらと実に危なっかしい足取りでやってくる。
「なあ君、今までここに美人がいなかったかい?」
「さあ、わたしが来たときにはもうどなたも」
別に若い女優を庇ったわけでもないが、不用意に答えると自分が盗み聞きという行儀が悪いことをしていたことまでばれてしまそうなので、にっこりと笑ってソフィアは言い切った。その答えに目に見えて二人はがっかりする。
まあ女優がいるかと思えがいたのはこんな貧相な娘ではそう思うのも無理ないか。
と、若干同情をしたソフィアだったので、次に二人の行動には怪訝な顔をした。青年達はソフィアのそばまでやってくると、彼女の手をつかんだ。そのまま強引にひいて大きなソファに座らせるとソフィアの両側に腰を下ろした。
「いやあがっかりだなあ。いやね、探していたのは若手の女優なんだ。君、芝居に興味はあるかな。多分これから大きく売り出されると思うんだ。彼女がいたってこいつに聞いたからな」
「さっき図書室に入っていくのを見たんだよ!」
「まあでもいいさ、こうして君に会えたのも運命なんだろう」
え、と思っていると青年はソフィアの手を取った。ヒューゴのような生まれついてと思えるような優美さにはかけているが、それなりに恭しい仕草だ。彼らはまわっていない口で自己紹介するが、あまり聞き取れなかったので当然覚えることもできない。
図書室に来たら本を読め!
そもそもパーティに来て図書室で本を読んでいるソフィアも変なのだが。
青年達はソフィアの心の中などお構い無しに話を詰めてくる。距離もついでに詰めてくる。酒と香水くささにソフィアはだんだんくらくらしてきた。
「君はまるで、野に咲く花みたいな可憐な雰囲気があるな」
「そ、それはどうも」
なかなか聞くことができない褒め言葉にソフィアは対応しきれない。しかし青年の手が、自分の太腿に乗せられあたりで、明確な不快感を覚え始めた。おそらく彼らも素面ならばそれほど感じも悪くない礼儀正しい青年たちなのだろう。しかし泥酔している今では話が通じそうにない。もともとここには美人を探しに来て、それが空振りにあった。苛立ちはわかる。
もちろんソフィアの腕っ節はジョン・スミスにお墨付きを貰っている。小指一本で彼らを昏倒させられるだろう。
しかしせっかく招かれたパーティで事件を起こすのも野暮だし、ジョンとヒューゴにも迷惑をかけてしまう。困ったなあと対応を考えていた時だった。