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数日後、下宿先に足を延ばしてみれば、あの焦げた匂いはだいぶ薄くなり、下宿の外壁には作業用の足場が組まれていた。補修工事が行われているようだ。
一応状況が進展しているらしいことに安堵しながらソフィアは隣家であるルイス夫人の自宅の扉を叩いた。
「まあソフィア。元気そうで何よりだわ!」
出てきたルイス夫人は、元気な様子でソフィアを家に引き入れてくれた。
「こちらこそお元気そうで安心しました。途中で焼き菓子を買ってきたんです。ご一緒にいかがでしょう」
「あら嬉しい」
ルイス夫人は客間に通したソフィアにお茶を出してくれた。ソフィアが持参した最近評判の菓子の包みを解く。
「で、ソフィアは今どこにいるの?」
「あ、えーと」
「あの時は火事で私も気が動転していて。ソフィアも一緒に妹のところで泊まってもらえばよかったと後でとても後悔したの」
ああ、もしあの時ルイス夫人に冷静さが残っていれば、あの後妙な女装男に出会うこともなかったのか!と少々悔やまれる。
三日に一度くらい、ジョンは夜の見回りにでる。約束だから仕方ないのだが、勉強時間を確保するのにソフィアも苦労している。市警でも軍でもなんでもいいから、早く犯人を捕まえてくれないだろうか、とぼやきたくなる。ジョンはジョンで一体いつ寝ているのかわからないくらい活動的なのだ。
「いえ、大丈夫です。こちらの親戚を頼り、そこでお世話になっています」
「まあそう。ソフィアにそんな親戚がいたなんて知らなかったわ」
目を丸くするルイス夫人に微笑みかけながら「嘘ですから」とソフィアは心の中で呟く。ジョン・スミスと親戚だったら生まれた瞬間に絶縁している。
「ねえそこでずっとお世話になって帰ってこない?」
「え?」
「そうしたらつまらないから残念だと思って」
ルイス夫人の言葉にソフィアは激しく首を横に振った。
「いえいえ、こちらが片付き次第、すぐに帰ってきます。そのつもりです」
「よかった!ソフィアがいないとつまらなくて。それに私もか弱いから」
言いかけてルイス夫人は慌ててつけたした。
「別に用心棒として、あなたを頼りにしているわけじゃないの。でも一人は怖いわ」
ルイス夫人も年齢を重ねている。御主人はもう亡くなってしまって、娘は結婚して離れて暮らしているので心細いのだろう。非常識人のジョン・スミスの用心棒をやるよりルイス夫人のほうを守ったほうがこちらの心もよほど安らかである。しかし約束してしまったからにはしばらく彼に付き合わなければならない。
「すぐに戻ってきますので」
「お願いよ、ソフィア」
少しだけしょんぼりとした様子のルイス夫人だったが、ソフィアが買ってきた菓子をかじって、顔をほころばせた。
ルイス夫人に下宿の様子を聞き、もうしばらくすれば無事に帰れそうだとわかったソフィアは、安堵しながらホテルグレイシアに戻ってきた。すでにフロントの人間もソフィアの顔を覚えている。
多分、奇行の客人ジョン・スミス(金払いはいい)の知人ということで覚えられているのであろうという事実はソフィアを憂鬱にさせるが仕方ない。
そうでなければソフィアの貧乏そうな様子で覚えられているに違いない。今日もホテルのレストランへ着飾った紳士淑女が夕食を取りに向かっている。その横を、質素な服と教科書がぎっしり入った鞄を持って歩いていくソフィアは浮いている。
で、でも、人は見た目じゃないはずだもん……、と思いつつ、背中を丸めて階段を上っていく。二階の踊り場から見下ろしてみれば、きらきらと金色の光と虹色のガラスの光でまばゆいような世界だった。
気後れする自分は小市民かもしれないが、正常だ。正常じゃないのはジョンの方。つい昨日も得体の知れない植物の鉢植えが山ほどジョン宛に届いてホテルのスタッフを困惑させている光景に出会ってしまった。
「ジョン……」
ソフィアは買ってきた夕食を届けにジョンの部屋をノックした。はいりたまえという返事が聞こえてソフィアは部屋の扉を開けた。そしてため息をつく。
「ジョン、少し散らかしすぎじゃない……?」
初めてホテルのこの部屋を見たときから間違いなく状況は悪化している。昨日の鉢植えも無事全部ここに運び込まれたようだ。まるで話に聞く亜熱帯の密林のようだ。その惨状はソフィアが思わず入り口で立ち止まってしまうほどだったが、諦めて一歩踏み出して扉を閉めた。その足先には本が一冊開きっぱなしで置かれている。それをかがんで閉じようとしてジョンに止められた。
「ああ、そのページは大事なページなんだ。そのままで」
「世の中には『しおり』という便利なものが有ることを御存知?」
しかしジョンは手にした書類に目を通す作業に戻ってしまって、ソフィアの言葉には返事をしない。ソフィアはしおり代わりにテーブルに乗っていた封筒を手にした。
「中身は出しておいてくれ」
見ていないかと思ったジョンが声をかけてくる。
「なんなの」
「美術館のチケット」
なんでそんなものがあるのかわからないが、ソフィアは王立美術館のチケットのみテーブルに置くと、開いた封筒をしおりがわりにページにはさみ、その本を閉じてテーブルに置いた。
その脇に目を疑うものを見つける。
「ジョン、何でこれがまだここに!」
それはマデリーンのパーティの招待状だった。二通が封も開けずに置きっぱなしになっている。ソフィアの分は手元にあるから、これはジョンと……ヒューゴのものだ。
「もしかしてヒューゴにマデリーンのパーティのことを言ってない?」
「……マデリーンのパーティって?」
「何言ってるの!マデリーンにあった日に誘われたでしょう」
「……ああ、そういえば……あまり興味なかったから忘れていた」
「あなたはともかくヒューゴにもまだ伝えていないの?」
「明日言いに行ってくれ、頼む」
やっぱり忘れていたのだ、とソフィアはあの時感じた不吉さを実感した。あれはとりあえず聞き流している顔だったのだ。興味ないことはすぐに忘れてしまうのだ、この男は!
ソフィアはため息をついて、一通を預かった。それからまじまじと部屋を見渡す。
もともと洗練された優美さに支配されていたであろうホテルの一室だが、ジョンの荷物によってその秩序は蹂躙されていた。彼にとってはホテルの美しさなどすぐにどうでもよくなってしまうことなのだろう。だが毎日この部屋の花は変えられており、ホテル側の意地を感じさせる。逆に怖い。
出入り禁止になっても知らないから……と心の中で呟くと、ソフィアはテーブルを回り込んでジョンの近くに寄った。
「はい、パン」
帰りに買ってきたパンをジョンの前に置いた。今朝、ジョンから何か食べ物を買ってきてくれと頼まれていたのだ。
「助かる」
お礼とも独り言ともつかない返事をするジョンは、書類からは目を離さなかった。
「……もしかして今日一日なにも食べていないんじゃない?」
「よくわかったな」
「朝見かけた時と、テーブルの上が何一つ変わっていないから。ねえあなた何を食べて今まで生きてきたの?」
「そうだな」
ジョンは記憶を掘り起こすように空中を見つめた。
「家に居れば家族と使用人がうるさいし、なにやら勝手に出してくれる。ホテルなら頼めばいつでも持ってきてくれるとわかっているから、食べたい時まで食べない。そして何も無ければそれはそれでいい」
なるほど、こういう生活だから卵の殻を剥かないで生きてこられたのかと納得してからソフィアは言った。
「ジョン。わたしもこれから食べるのよ」
「そうか」
ジョンは手元の小箱を空けて小さなスタンプを出した。その後探している様子に察して、先ほど床に落ちているのを見つけたスタンプ台を拾い、ジョンの前に差し出した。
「ああ、ありがとう」
今度はきちんと礼を述べたジョンはインクをつけると書類に判を押した。
「一体何をしているの?」
「つまらないことだ」
それからジョンはようやくソフィアの存在に気がついたような顔をする。
「ああ、ソフィア、それで先ほど何か言っていたか?」
「あなた、集中すると自分が生きているってことも忘れない?」
おもわず尋ねてから、ソフィアは先ほど言いかけたことを続けた。
「わたしが言いたかったのはね、わたしもこれから食事だから一緒に食べましょう、ということよ」
それを聞いてジョンはソフィアを眺めた。その視線に自分が南国の稀少なオオトカゲにでもなったような気がする。
「……一緒に食事をしなければいけない責務は無いはずだが?」
今度はこちらがオオトカゲを見る目で見つめてしまう。
「まあそうだけど……というか逆に責務で食事をする機会とやらを知りたい」
「仕事としての付き合いとか、親戚としての付き合いとか、交際としての付き合いとか」
交際したことあるのか……?!
ソフィアは心の中で絶叫した。一体どんな女性だったのか気になる。ソフィア自身も変わり者という自覚があるが、ジョンはそれよりはるか上のとても太刀打ちできないレベルの変人だ。いったいどんな女性が彼との交際を成立させたのだろうか。もしかすると世にも稀なる慈悲を持った方かもしれない。聖人では間に合わないそれは間違いなく、神。
「わたし、今、神の存在を感じたわ」
「そうか。僕も信仰が厚いふりをするのはかなり得意だ」
ソフィアの皮肉は通じずジョンは大真面目に頷く。ソフィアはそれにはとりあわず言葉を続けた。
「わたしはただ、一人で食べるより誰かと一緒に食べたほうが美味しいんじゃないかと思っただけよ。でも逆に気を使うならやめておくわ」
ジョンはソフィアの代わり映えしない地味な顔を見つめている。その言葉の意味を考えているようだった。
「……いや、今食べよう。このまま徹夜で何も食べない可能性がある」
ジョンはそれでもどこか心ここにあらずで、ぼんやりしているだけだ。ため息をついてソフィアはテーブルの一部に隙間を作った。積み上げた書籍を眺めてから今度はメイドを呼ぶためのベルを鳴らした。すぐさま飛んできた彼女に紅茶を頼む。ジョンの部屋の支払いだが、まあこのくらい追加でたかっても罰は当たらないだろう。
さすが一流ホテルとばかりに最短と思われる時間でメイドは戻ってくる。部屋の散らかりように一瞬遠い目をしたが、それを隠してお茶を準備した。支度すると彼女は一礼してすぐに去ってしまう。ジョンは今の一連の動きも理解しているのか居ないのか、相変わらず書類から目を離さない。
「ジョン、食べましょう」
「……ああ」
ジョンは立ち上がってテーブルの端に座った。最上級の紅茶の香りが少しだけ彼を俗世に引き戻したようだ。結局こうなるなら、全てルームサービスでもよかったかもと思いつつ、ソフィアも横に椅子を持ってきて座った。
もそもそと特に表情も変えずに食べ始めたジョンだったが、二口ほど食べたところで呟くように言った。
「ああ、うまいな。そうか僕は空腹だったのか」
「今度は食べる前に気がつくと良いわね」
食べるまで気がつかなかったらいつか餓死するんじゃないかと思う。まあ自分が心配することではないのだが。
「ソフィアはこれが好きなのか?」
ソフィアの買ってきたものは、特に何の変哲もないパンだ。間にローストビーフの切れ端と野菜が入っている。
「好きというほど選択肢は無いかも」
「どういうことだ?」
「値段が手ごろで早く食べられて、とか、そういう条件が先にたつから」
「そうか。では必ず毎日これを食べなければいけないと言う訳ではないのだな。ならば今度から夕食は僕と一緒に取るといい」
一緒に食べると美味しいとか、そういう人との接触に興味をもったのかしら、と思うにはソフィアはすでにジョンという人間について理解を深めすぎている。ジョンがソフィアを誘うのは清々しいまでに利己的な理由があるのだと知っている。
「そうすれば僕も一日一食は得られる。以前食べなさすぎて立ち上がった瞬間倒れたことがあるのでそれは避けたい」
そんなものホテルの連中に言っておけばいいではないかと思ったが、それでも理解を深めつつあるからこそ、放置はできない気がして、ソフィアは頷いた。ああ、わたしって結構面倒見がいい人だったんだわと、自分の知らない自分まで発見してしまった。
「いいわ」
結局了承してしまった。仰天するような発言も多い青年だが何故かその行動は気になる。世話をしないといけないような気持ちになるのはなぜだろう。仔猫や仔犬のような愛くるしさなどかけらもないのに。
「ソフィアはいつも家族と食べていたんだろう?」
「……どうして?」
「違うのか?」
ソフィアのさりげない返答のずらしをジョンは即座に違和感として問い返してきた。その目は答えを求めている。
「違うわね。わたしは両親がいなかったから、祖父母と食べていたの。でも祖母はわたしがまだ八つの時に亡くなったし、祖父は仕事が忙しくて毎日一緒というわけにはいかなかった。だから割と一人よ」
「そうか……僕の周囲にはいつも人が居た。だからあまり意識もしなかったのだが」
「一体どんな会話をして食事をしていたのか謎だわ……」
「普通の話だ」
ジョンの場合、普通、がなんなのかをまず定義するべきだと思ったが話が長くなりそうなのでソフィアはその言葉を飲み込んだ。その代わり、今までなんとなく気になりつつも聞きそびれていたことを聞く。
「あれはご家族?」
ソフィアは壁にかかった肖像画を示した。ここに来た日に見ていたが、さすがにその日に尋ねるには個人的な事過ぎた。
老齢の女性の肖像画だった。着ているものがひどく古めかしいが、その蒼い目はジョンに良く似ていた。肖像画では白髪だが、若い頃は金髪だったのかもしれない。かつてはとても美しい女性であったと想像された。今は絵の中で知性に満ちた瞳をきらめかせて穏やかに微笑んでいる。
「ああ。実際に会ったことは無い。曾祖母のアンジェリーナだ。君と同じシナバーだったと聞いている」
「曾祖母となるとかなり昔の方ね。その頃はシナバーとして生きるのも大変だったでしょうね」
「かもしれない。でも曽祖父とは仲睦まじく生きたらしい」
「それはなによりだわ」
そんなまともそうな夫婦の血脈に、どうしてこんなジョンのような奇怪な人間が出てきたのかはソフィアの想像力の限界を超えている。なにか突然変異的なことでも起きたのだろう。大陸移動説について最近取りざたされているが、一般人と変人も地続きなのだと結論付けて思考を停止させるとソフィアは紅茶を飲んだ。
「ああそうだ。今日は夜は見回りには出ない」
「あら、じゃあ今夜は自由でいいいのね。それじゃあゆっくり勉強させてもらうわ」
「そうしたまえ」
急に解放された夜にソフィアはほっとする。最近予習復習が思うようにできなかったのだが、今日遅れた分を取り戻せそうだ。
「君は立派だな」
直後、突然そんなことを言われて、思わず紅茶を噴き出しそうになった。
「は?」
「毎日きちんと学校に出かけて、授業を受けて」
「それやらなかったら学生としてなにをやっているのかという話かと……」
「僕は学生だった時分にも好き勝手だったからなあ。夜遅くまで研究して、気が向いたら学校行って、教授と議論して」
「単位は……」
「試験で満点とって、それでも文句言ったら論文を書いて黙らせた」
「正直言ってなんか腹立つ」
「だろうな。僕は僕自身が大好きだが、回りに僕みたいな人間がいたら腹が立つ」
「一応わかっているのね、あなたいろいろと……」
まあね、とジョンは笑う。
それを見てソフィアは、おや、と思った。彼の素直な笑顔はそれなりに年相応で可愛らしい。自分より年上なのは間違いないのでそれもおかしいかもしれないが、笑顔は可愛かった。もともとジョンは整った顔立ちをしている。それなりに身づくろいしたら世の乙女の願望を具現化したような美形になる。
もし今の彼の笑顔で、自分がのぼせてしまうようだったら、今すぐこのホテルを飛び出して港まで走って海に飛び込んで「正気に戻れ、わたし!」と叫ばなければならない。しかし感じたのは可愛いな、だ。
大丈夫、ちゃんと冷静。
そんなわけで、その時に感じたものがジョンに対する好意であったことに、ソフィアは気がつかなかった。
気がついていたらやはり海に飛び込んでいたと思われるので、その方が良かったのか悪かったのかは難しいところだが。