5
「ジョン!」
ジョンの部屋に飛び込んで、ソフィアは新聞を掲げた。その先ではジョンが大理石のテーブルに同じものを開いていた。役所で配給血をもらった後、慌ててホテルグレイシアまで帰ってきたのだった。
「新聞、読んでいるのね」
「ソフィアも」
第四の犠牲者が出たことはあっという間に互いの共通認識となっていた。走って帰ってきたソフィアはそこでスカートのしわを整える。ジョンは固い顔をして新聞を見ていた。そのテーブルには新聞だけでなく、町の地図や今までの事件の切抜きを集めたスクラップブックなどが散らかっていた。
その中に六発式の回転式拳銃を見つけた。驚きはしたものの一応あんな危ないことをしていても護身の意志はあるのだなと安堵する。
ジョンはソフィアにさえあまり興味を示さず、なにやら書類をひたすら見つめていた。ソフィアはそれ以上声をかけるのもためらわれ、とりあえずコートを脱ぎ、ハンガーにかける。配給血を一番隅に壁にぴったりとつけて置いた。配給血自体はそれほどの量ではない。しかしなにぶんガラス瓶がかさばる。一度落として壊してしまったこともあり、ガラス瓶の扱いには慎重にならざるを得ない。
昨日も役所に行ったのだが混雑しすぎていてもらえず、やっと今日今週分を手に入れたのだった。
「うーん……もうちょっと持ち運びしやすいといいんだけど」
人にぶつかって壊したりしないように気を使って帰ってきた今の道のりにソフィアはぼやいた。
「まあなかなか瓶以上に便利な物は今のところなさそうだがな」
いきなり話しかけられてソフィアは振り返った。ジョンがこちらを見ていた。
「あら、集中しているのかと思った」
「話しかけられたのかと」
ジョンはそれから首を横に振った。
「いや、気にしないでくれ。独り言だったら悪かった。どうも誰かと一緒にいると言う事はあまり無かったから、いまひとつよくわからないことが多いんだ」
「紛らわしかったなら、わたしが謝らないと……こちらの話なんて聞いていないのかと思った」
まさかジョンにこんな素直なところがあるとは思わず、ソフィアも謝り返してしまう。
「それは配給血だな」
「そう。重いなんて事はわたし達にはないんだけど、かさばって」
「ふうん」
牛乳瓶よりふたまわりほど大きいそれを眺めながらソフィアは言った。
「でも昔は、実際に罪人から直接吸血していたんですものね。それに比べればずいぶん文明的になったと思う。わたしだって、ろくに体も洗っていないようなむさくるしい罪人に口をつけるとか、ちょっと嫌だわ」
「でも直接吸血したほうが味としては良いと聞くが」
「詳しいのね。じゃあジャス製薬のことも知っている?」
ソフィアはガラス瓶を取り上げた。その瓶に赤く印刷されているシンプルながら特長的な会社のロゴを指差した。
「採取した血液をよい状態に保つ薬を発見して、シナバー患者への配給血を一手に任されている会社。その薬のせいで多少味が落ちるらしいわ。まあでもそれなりに美味しいから感謝してる。そもそもわたし達の世代ともなれば、人血を直接摂取したことがない者が殆どだから、比べようもないしね。配給制がある代わりに直接吸血は禁止されているの」
「ジャス製薬といえば大きな製薬会社だ。他にもいろいろ薬を作っている」
「そのあたりはわたしは知らないわ。でもこの会社がなかったらいろいろ不便だろうなと思うだけ。いつか機会があったらもうちょっと保存瓶を何とかしてくださいってお願いするかもしれないけど」
一定量、一定期間の割合で、シナバー患者は人血の摂取の必要がある。毎日少しずつとってもいいし、一日で全部飲んでしまってもそれほど変わりは無い。夏場はいくら保存薬が入っているとはいえ心配なので、配給されるそばから飲んでしまうが今は晩秋なので部屋の隅においておけば冷気で保てる。これから毎日ちびちび飲もう。夕食後のお楽しみだ。
それなりに、と言ったがやはり人血は普通の食事とはまた違った意味で『美味しい』。好きなフィッシュフライのガーリック風味タルタルソース添えよりも、惹き付けられる。好物というよりはやはり欲求に近いのだろうなとソフィアは考える。
そしてそれをうっすら恥じてもいる。
どんなものにしても、強く欲しがるというのは品の無いことだ。
『ソフィア、我慢というのは美徳だよ』
祖父の言葉を思い出した。
母の自由な人生を苦々しく思っての祖父の言葉だったのだろう。
そんな祖父は、今の自分を見てどう思うか、それが少し怖い。それなりの教養を身につけて、それなりの男に嫁いで欲しいというのが祖父の願いだったように思うからだ。父というものに縁がなかったソフィアにとって祖父が父親代わりだったということもある。
「ソフィア?」
ぼんやりしてしまったようだ。様子がおかしいと感じたのかジョンが声をかけてきた。
「ああ、ごめんなさい。それで、何の話だったかしら」
「ジャス製薬の薬は呪われたようにマズイ」
「そこまで酷くないのよ」
ソフィアは笑った。
「本当に呪われたまずさというのは実はもっと別のもの」
「へえ?」
「シナバー患者の血は、本当にひどい味なの。シナバー患者になると医師から生活上の注意点の説明を受けるのよ。その時実際に同じシナバー患者の血もスプーン一匙味見するのね。すごくまずいの。あれ、沢山飲んだら命に関わるくらいまずいわ。まずいというより毒としか思えない」
ソフィアは身震いしてから話題を変えた。
「それはともかく、四人目の犠牲者の話をしましょう」
ソフィアはテーブルに近づいた。ジョンが頷く。
「四人目もシナバー患者だったわね」
「四人目の犠牲者ハンナ・コール。家の近くの暗い路地を歩いていた時に襲われたようだ。もちろんシナバー患者、そしてもちろん首がかき切られていた」
「こっちの新聞には年齢まで書いてあるわ。四十五歳ですって。やっぱりいままでと同じで年齢はまちまちね……」
ジョンは都の地図を眺める。そこにはすでにいくつか点と線が書かれていた。点はどうやら事件の発生現場のようだ。ソフィアが見つめてみてもそこから何か法則を得る事はで着なかった。
「しかしこのあたりも貧しい人間が住む場所だな……ハンナ・コールの経済状態も一応把握しておくか……」
「どうやって?」
「聞き込み。明日行ってみる」
「あなたどうしてそんなに暇なの?」
おもわず本音が装飾無しにこぼれてしまった。しかしこぼれたものは仕方ない、といっそ清々しいような気分だ。
「今はこれにかかりきりだからだ。僕がこういう人間だと言う事はありがたいことに家族は把握している」
「そう……」
思いもかけず自分の傷をつつくような言葉が出てきて、ソフィアは少しだけ不快感を顔に出してしまった。
自分が今やっていることは誰からも認められないことなのではないかという漠然とした不安。
「どうしたのだ、ソフィア」
「なんでもないわ。家族に恵まれてよかったわね」
「うーん……」
それには妙に言葉を濁したジョンだったが、話題を別のものに変えてしまった。
「それよりも首切り事件の話だ。今までどうしようかと考えていたが、ここまで来たらやらないわけにはいかないだろうな」
「なにを?」
「三番目だけが犠牲者ではなく被害者と表現されているのには気がついていただろう。彼女だけは殺されなかった生き残りだ。会って話をしなければなるまい」
その意味はもちろんわかるソフィアだが、一瞬頭が真っ白になった。連続首切り事件はその猟奇さによって都では知らぬもののいない事件だが、これほどまでに騒ぎになったのにはもう一つ理由がある。
三番目の被害者が有名人だったのだ。
「三番目はマデリーン・レノルズでしょう?」
「その通り」
「彼女が今国立演劇団の中で最も有名な女優であるということを知らないの?」
今をときめく有名女優が襲われた。
それによって事件は恐ろしいほどの関心を人々から寄せられることになったのだ。マデリーン・レノルズの美しさによって。
「もちろん知っているとも。僕もそれなりに芸術は愛している」
「それが問題じゃなくって!」
ソフィアは地図の大演劇場の場所を手の平で叩いていった。
「どうやってそんな有名人に会うつもり?」
「普通に面会希望を出すつもりだが?」
ジョンは飄々と言った。
「……本当に来てしまった……」
四人目の犠牲者が出てしまった翌々日の夕刻、ソフィアは歴史ある国立演芸劇場の荘厳な建物を見上げていた。
これから舞台があるそうだが、ほんのすこしならばマデリーン・レノルズは時間を作ってくれるということだった。ソフィアは脇の青年を見上げた。
「どうして面会なんてできるの……」
まだ少し半信半疑だ。
ジョンに世話になるようになって数日。夜の捜査としてジョンと一緒に出かけたのはまだ一度しかない。学業に障りが無いのはありがたいがジョンの多忙さが謎のままである。ちなみにその一回、女装姿をなんとか止めたかったが、不首尾に終わった。
劇場の周囲には時間も早いためかまだあまり客は集まっていない。しかしあと少しすれば立派な馬車達でこの辺りは混み合うことだろう。きらびやかなドレスの女性やそれをエスコートする男性たちで華やかな風景へと変わる。
「だから言っただろう。面会希望を出したと」
正面入り口に向かって、ジョンはさっさと階段を上り始めた。入り口では黒く光る石に掘られ金の装飾をつけた巨大な神像が二人を見下ろしていた。中に入れば高い天井から見たことも無いような大きさのシャンデリアが下がっていた。そのまばゆさに目がくらみそうになったが、ジョンのほうはまったく興味がないらしい。受付を探すが時間も早くまだ担当者が居ない。どうするのかと思ってみていれば、ジョンは通りかかった壮年の男に声をかけた。
礼儀こそそれなりだが、胡散臭いほど若いジョンにどう対応するのだろう、あまり冷たくあしらわれて巻き添えをくらって追い出されても嫌だなと考えていたソフィアだが、予想もしない反応が帰ってきた。
「スミス様!」
男はジョンの顔を見るなり背筋を正した。それからこちらが何か言うより早く口を開いた。
「マデリーン・レノルズとのお約束でしたね、伺っております。こちらにどうぞ」
男は手で受付の裏にある職員用の通路を指し示す。通路の向こうからはにぎやかな物音と人の話し声が聞こえてくる。舞台の準備をしているのだろうということが察せられた。
「ジョン……あの人誰?」
彼の後を歩きながらソフィアは尋ねる。ジョンはこともなげに答えた。
「ここの支配人」
「……あなた何者?」
どうしたって聞いてみたくてならない。しかしジョンは目線も向けなかった。ただ、ぼそっと言う。
「ジョン・スミス」
その偽名くさい名前はもう聞き飽きたわー!と叫びそうになったときに、廊下の人影に気がつく。整った顔立ちの女性達が廊下の隅に集っていた。その話している内容がほんの少しだけ耳に入る。
「どうしてダニエル・リードなんかが……」
「でも彼は彼で、見所はあるのかもしれないわ」
「そうかしら。あんな小さな劇団からの引き抜きなんて」
どうやら脇役の女優達らしい。ちらりと視線を向けた彼女らは支配人に気が付き、会話をやめた。支配人はジョンに気を取られていて特に気がついていない。そこも足早に通り過ぎ、三人は奥まった場所にある扉の前にたどり着いた。
「失礼します」
支配人が扉を開け、中に向かって声をかける。
「お約束のジョン・スミス様がお見えになりました」
「どうぞお入りください」
美しく、それでいて明瞭な声が帰ってきた。支配人の横を通って二人が控え室に入ると、背後で扉はそっと閉じられた。
マデリーンの控え室は、花の香りが濃く漂っていた。その中を掻き分けるようにして進むとそれが化粧品のような人工物の香りではないことがわかった。マデリーンの控え室には溢れんばかりの花束があちこちに置かれているのだった。マデリーンの信奉者からのものだということは容易くわかる。
そして、信者の熱狂そのもののような花々の中に彼女が背筋を伸ばして立っていた。
……自分の中に浮かんだ凡庸な感想にソフィアはうんざりした。
マデリーンは本当にはっとするくらい美しい……なんて、ありきたりな。
声をかける前からマデリーン・レノルズは二人に向かって微笑みかける。
白く抜けるような肌の色はシナバー患者だからであり、皮膚の下からにじみ出るような薔薇色の頬は化粧技術の妙としても、明るい南の海のような瞳の色と、光なのか髪の色なのか一瞬わからなくなるような美しいプラチナブロンドの髪はそれだけで一生忘れられないような鮮明な印象を残した。整った顔立ちの中の桃色の唇が開いた。
「はじめまして」
小さな声であったが、はっきりと聞こえるのはさすが女優とソフィアは感心した。大きく胸元が開いた紅色のドレスは彼女によく似合っている。同じ流行色なのに、ジョンのドレス姿の衝撃とはまったく違う。あれは悪夢だった。
「こちらこそはじめまして。お忙しいところお時間を頂戴して申し訳ありません」
初めて聞くジョンのまっとうで常識的な言葉にソフィアは唖然として彼を見た。そんなソフィアを無視して彼はマデリーンに続けた。
「いいえ、あの事件以来少々体調を崩してしまって、今は舞台数を少し減らしてもらっているの。だから大丈夫」
確か今年三十歳にはなるはずだが、彼女はジョンと変わらぬ年に見えるほど若々しい。ただ、確かにその表情は曇っていた。それは仕方ない、あんな恐ろしい事件に巻き込まれたのだとソフィアは同情する。それなのにこの男はずうずうしく……と思わずジョンの足を蹴り飛ばしたくなる。
「あなたがジョンね。こちらは?」
「秘書のソフィアです」
秘書だと!?と思わずあっけにとられたが、よく考えれば「用心棒」と言われるよりよほどまともである。
「は、はじめまして。こんなこと言うとかえってご迷惑かもしれませんが、ファンです!チケットなかなか取れなくて、まだ一度しか舞台は見ることができませんが」
「ありがとう」
マデリーンは微笑んだ。
「あなたもシナバーなのね。同病者の知り合いはそれほどいないからお会いできて嬉しいわ。あなたのためにも早く舞台の数を増やさないと」
彼女はソフィアに手を伸ばした。白く細い指の先に、よく磨かれた桜貝のような爪が輝いている。己の手のかさかさ加減にがっくりしつつも遠慮なくソフィアは彼女と握手をした。
「ところでさっそくですが」
ジョンはいきなり本題に入る。しかしマデリーンは別に怒る様子もなかった。それどころか力強く頷く。
「ええ。市警にも話しましたけど、それでもあなたのお気持ちはお察しします。わたくしがあなたの力になれるといいのだけど」
……お気持ち?
ソフィアには心当たりのない言葉だった。ジョンはどんな説明をマデリーンにしているのだろうと疑問が湧いて出る。初対面ではあるようだが、お互いに共通の認識事項があるようだ。面会を申し込む時にジョンがなにかしら手紙に事情を書いたのだろうが、その内容はどうやらソフィアの知らないことも含まれているようだ。
……別にわたしが不満に思うことでもないけど、なんとなく仲間はずれになったようで寂しいわ。
でも今は問いただす場面では無い。
そう思って黙っているとマデリーンは言葉を続けた。
「わたくしが襲われたのは一ヶ月前くらいになるかしら。舞台後のことよ。支援者数名と食事をする約束だったの。劇場を出たところで急に」
「どなたもいらっしゃらなかったのですか?」
「付き人がいるわ。でも彼女はわたくしがうっかり忘れた帽子を取りに劇場に戻ってくれていたの。だからそのお陰で助かったようなものね。私の悲鳴を聞いてすぐに彼女が飛んできてくれたの、道具係の男性も何人か来てくれたわ」
その時のことを思い出したのか、マデリーンはぎゅっと唇をかみ締めた。眉が寄せられ表情は曇ったが、それでもなお美しさは霞まない。
「襲われた、というのはどんな風に?」
「急に背後から縄のようなもので首を絞められたの。わたくしの声を聞いて人が駆けつけたのを聞いて、慌ててわたくしを放して逃げだしてしまいましたが。後姿は大きなマントを羽織っていました。女性というには少し大きいかしら。ええあなたよりずっと長身だったわ。そこまで長身の女性は見たことがないからきっと男性ね」
ソフィアの身長を参考にマデリーンは説明した。ただ美貌を誇るだけで無く、聡明な女性でもあるらしい。しかしその後マデリーンは初めて言葉をためらった。ジョンの視線がそれを促す。
「……市警にも言ったけどあまり信じてもらえなかったことが」
「なんでしょう」
「わたくしを襲った相手は性別も年齢もわかりません。でもたった一つわかるのは相手が人間だということ」
言った言葉を自分で否定するかのようにマデリーンはため息をつきながら首を横に振った。ジョンが口を挟む。
「まあ一般的には、人間はシナバー患者にはほぼ太刀打ちできませんよね……市警にして見ればそんな存在はありえない」
マデリーンの言葉は市警には相手にされなかったのだろう。マデリーン自身も自分の考えを疑問に思っているようだ。
彼女は顔を上げてソフィアを見た。手を伸ばしてソフィアの手首を取り軽く引き寄せる。華やかにあたりに散ったのはソフィアもうっとりするような彼女の香水の匂いだ。
「でもここまで近づけば、わたくし達はお互いがシナバーだと感じ取れますでしょう。相手にはそれがなかったの。だから相手は同じ疾患を持つものでは無い。それなのに、あまりの力に振りほどけなかった。そんな正体不明の存在がいるなんて考えると、それだけで恐ろしくて……」
マデリーンは数歩よろめくようにして、近くのソファに座り込んだ。この会話でも恐怖を思い出して疲労を感じている事はソフィアにもわかった。
「ジョン」
そろそろ潮時ではないかという意味合いをこめて、ソフィアは彼に声をかけた。
「マデリーン、怖い思いをしたのに質問に答えてくれてありがとう」
素直にジョンは頭を下げる。
「今日はこれで失礼します」
「ええ。遠慮しないでまた何かあったらいつでも来てちょうだい」
それからマデリーンは花がゆらめくような優美さで表情を和らげた。疲れているだろうにソフィアにも微笑みかける。
「あなたも。こんなときじゃなければ同病者として美味しいケーキとお茶でゆっくりお話をしたいところだわ。どうかぜひ。改めて機会を設けたいと考えているから」
「こ、光栄です」
少し舞い上がったソフィアはマデリーンの次の言葉で身を引き締めた。
「他の犠牲になった皆さんが気の毒でならないわ。特にシナバーのお二方。こんなことがなければ、共に励ましあうことができる方たちだったのに。早く犯人が捕まってほしいと願っています」
そうだ、すでに何人かが亡くなっている。マデリーンは本当にたまたま逃げ延びただけだ。いつ五人目の犠牲者が出てもおかしくないのだ。
「そういえば」
マデリーンはふと思い出したように口にした。
「下町に、とてもシナバーについて詳しいお医者様がいると伺ったことがあるわ。最初の一人以外、続けて被害者はシナバーでしょう?参考までに意見を聞いてみたらどうかしら」
「ああ、もうやっています。ヒューゴ・ウィルシャーという医師です」
「そうそう。そんな名前だったわ」
「え、ヒューゴがそうなの?」
ソフィアには初耳だった。
「そうだ。以前は大学内でも将来を嘱望されていた若手の学者だったんだ」
自分の知らない彼の姿にソフィアは驚く。
「まあ、お知り合い?」
「ええ」
「わたくし、彼の論文を読んだことがあります。とても興味深かったわ。ええと、確か、シナバーの体質が主題で。まあそうなの……ねえちょっとお待ちいただいていいかしら」
マデリーンはソファから立ち上がった。楽屋の奥に向かうとそれほど時間をおかず戻ってきた。手には三通の封筒を持っている。
「十日後にわたくしの自宅でささやかながら復帰パーティがありますの。よろければぜひ、ウィルシャー先生と一緒にお越しになって」
ぱりっと固い上質の紙に金の文字で招待状と書かれた封筒をジョンは受け取った。にっこりと笑って「喜んで」と返す。
その笑顔になんとなく不吉なものをソフィアは感じとっていた。