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翌日学校に行くと、ソフィアの姿を見つけた瞬間、エイミーが駆け寄ってきた。イヴリンの結婚披露宴のことであろうと察しが着く。
「ソフィア!招待状は来た?」
「ええ。どうしましょう」
「親戚に聞いたら、ギャラガー家というのは大変なお金持ちなんですって。イヴリンが私達を忘れないでいてくれたことはとても嬉しいけど、そんな立派な披露宴に行ける様な支度はとても用意できないわ。それに、アーソニアの外れで、汽車も通っていないような場所だもの」
エイミーもソフィアよりもましとは言え、披露宴に向かうことについては難題になっていた。困った、とため息をついた二人は、ほぼ諦めであった。
それでもソフィアにとって幸運だったのは、封筒に書いてありギャラガー屋敷の住所が分かったことだった。これでイヴリンが忘れていった指輪を返すことが出来る。
「エイミー、わたしちょっとイヴリンに会いに行ってみる」
「それなら私も一緒に行くわ」
それもいいなと思った。それで一緒に結婚のお祝いを述べて、残念だけど出席できないと伝えれば用事は済む。二人一緒ならなおさら都合がいい。
けれどその時ソフィアの頭をよぎったのはあの恐ろしいライオネルの顔だった。まさか主人の前で主人の妻になる客に乱暴は働かないだろうと思うが、あんな暴力沙汰をエイミーに見せることは気が引ける。それに指輪のことも説明する必要が出てくる。そうなるとやはりイヴリンになにか起きているということをエイミーに伝えなければならない。
「いいえ、とりあえずわたし、一人で行ってみるわ」
「そうなの?」
「ギャラガー屋敷に本当にイヴリンがいるかはわからないし。ほら沢山別宅とかあると思うのよ。様子だけ見に行ってみるわ。それでイヴリンに会えたら日にちを決めて結婚祝いに欲しいものがあるか聞いて、改めて伺うというのはどうかしら」
「でもソフィアに悪いわ」
「いいのよ」
ソフィアはエイミーの同伴を断った。
ソフィアの不安は実際は外れるのだが……実際はもっと悪いことになり、ソフィアはエイミーと一緒に行くことを断って本当に良かったと思うことになる。
ソフィアがギャラガー屋敷を訪れたのは、それから二日後の休日だった。昼過ぎにソフィアは出かけることにした。どうも雲行きが怪しく、雨が降る前に用事は済ませたかった。
着ていく服はいつもどおりの質素なものだが、丁寧にブラシを掛けてなるべくこざっぱりと見える様にはした。
それでもたどり着いたギャラガーの屋敷はすくむほどの大きさだった。首都内の高級住宅地の中にあり、大抵の人間は狭い都内にぎゅう詰めになって暮らしていることを考えれば破格の広さだった。
ギャラガーは貴族ではない。近年になってその勢いを強めている新富裕階級である。マッチから兵器までかなり手広く商いをやっているらしい。高い塀に閉ざされた門だが、金属柱でできた塀からは中の様子が伺えた。門の内側に立っている門番にソフィアは声をかけた。
「すみません」
自分の名前と、イヴリン・ギャラガーの友人であること、約束はしていないが訪問を取り次いでもらえないかと問う。門番は屋敷の中に消えていったが、ソフィアはそこで肩をすくめた。
どう考えても富豪の夫人にたかろうとしている不審者である。なかなか門番も戻らず、これは期待できないかしらと考えたところで、門番は戻ってきた。
「どうぞ、ご案内いたします」
意外に愛想良く屋敷の中に通された。その先は若い男性の使用人が案内してくれる。通された応接室は実に趣味のよい装飾が成されていた。外の天候こそ今にも雨が降りそうに薄暗いが、応接室から見える庭園の緑は瑞々しく美しい。腕の良い庭師がいるのだろう。
案内の使用人とは入れ替わりになる様にまだ十代前半と思われる若い小姓がやってきてソフィアにお茶まで出してくれた。
ソファに座ってソフィアはイヴリンを待つ。立派な部屋で礼儀正しく歓迎されているが、どうもこういう場所は落ち着かない。
閉まっていた重い扉が開きソフィアは振り返り、そして空気ががらりと変わり、一気に張り詰めたのを感じた。
部屋に入ってきたのは、見たことが無い男性だった。四十歳近いだろうか。着ている服は今までこの屋敷で出会った人間とは格が違う豪華さだ。茶褐色の髪は綺麗に撫で付けられていた。ゆっくりとソフィアの前に回りこんでくる。無言のまま目の前に座ると彼はソフィアを値踏みするように見つめてきた。そこには初対面にも関わらず隠しきれない憎悪がある。
ソフィアはとっさにソファから立ち上がりかけた。その肩を背後から掴み、椅子に戻させたのはいつのまにか彼に続いて入って来ていたライオネルだった。
目の前の男はにやりと笑った。そこに含まれる嘲笑にソフィアはぞっとする。
「……あなたが、ヘンリー・ギャラガーさん?」
「君が、ソフィア・ブレイクか」
男の声は知的だった。それなのに、深い狂気すら感じさせる不安定さがあった。
「あの、イヴリンは」
「会わせると思うかね」
容赦ない拒絶に会い、ソフィアは一瞬言葉を失う。
「どうせ、イヴリンが富豪と結婚したのを知って、たかりに押しかけてきたんだろう?あの女の周辺はそういう人間ばかりだ」
もしかしたらそう思われるかもしれないという懸念はあった。しかしこうも攻撃的に振舞われるとは思わなかったのだ。そもそも、そう考えるのならば会わないし会わせないだろうと。まさか会って責められるとは。
「違います!」
ソフィアは会って一分もしないうちに彼の言葉に大声で反論することになった。
「イヴリンがこの間うちに来たんです。その忘れ物を返しに来ただけです」
「忘れ物?」
ヘンリーの首がわずかに傾げられた。ソフィアは持っていたバッグの一番奥底に丁重にしまった物を出す。白いハンカチで包まれたそれを差し出す。ヘンリーはテーブルに置かれたそれを触るのも嫌だとばかりに、指で触る範囲を極力少なくして開く。
中に入っていた巨大な宝石の付いた指輪。
ヘンリーはそれを大きく目を見開いて見つめた。
「……なるほど。ライオネル、どうして回収しなかった」
ヘンリーの次の言葉は背後の男に向かってのものだった。ソフィアの頭上から釈明の言葉が降ってくる。
「申し訳ありません。ろくに明かりもない部屋で」
「イヴリンはどこで無くしたかわからないと言っていたな。この娘を庇ったのか。まったく泥棒というものは」
「違います」
ぎょっとする言葉にソフィアは声を張り上げた。
「イヴリンだって気が付いていませんでした。彼女はわたしを庇わないし、わたしも泥棒ではありません。だから返しに来ました。日数がたってしまったのは、わたしにはイヴリンが今どこに居るのか知る手立てがなかったからです」
「そうだな。イヴリンがどうしても呼んで欲しい、呼んでくれなかったら自殺するとまでいった二人だ。ソフィア・ブレイクとエイミー・グリーン。お前は祖父の遺産でなんとか進学して勉強に励んでいるなかなか健気な人間だ。だがあまり生活には余裕がないようだな」
徐々にソフィアはヘンリーが怖くなり始めていた。どうしてそんなことまで知っているのだろう。
雨の音が聞こえ始めた。かなりの降りになっているようだが、ヘンリーから目が離せず、外を見ることができない。
「どうせ披露宴には来れまいと考えている。お前が来る場所ではない」
もともとそう考えていた場所だ。それが己の結論であれば仕方ないことだが、他人から侮蔑まじりに言われると傷つく。
「でもイヴリンはわたし達に来て欲しいと望んだんですね」
「みすぼらしい姿で来てみろ、放り出してやる」
面白い冗談を言ったとばかりに彼はげらげらと笑う。
「……イヴリンは。イヴリンは元気なんですか」
「お前に答える筋合いはない。あれは俺のものだ」
ソフィアはその言葉につい彼を睨みつけてしまった。
「……お言葉ですが、ギャラガーさん、あなたとても失礼です」
ソフィアの反論など彼には想定できなかったのだろう。一瞬彼は鼻白んだが、とりつくろうように薄笑いを浮かべた。不吉さと凶暴さを内包した笑みに、ソフィアは彼のあだ名を思い出す。
「イヴリンに会わせてください。彼女はわたしのものではありませんが、友達です」
「……生意気な女だな」
そこで初めて、ソフィアは彼から漂う不穏な気配の正体を知った。彼はソフィアやイヴリンという個人を憎んでいるわけではない。
おそらく女性すべてが嫌いなのだ。
ヘンリーの視線がソフィアの背後に動いた、と思ったときにはソフィアの左肩の関節が外れる鈍い音が響いていた。何が起こったのかすら把握できないままにソフィアは痛みに叫び声をあげた。外れていない右手はつかまれ頭上高く引き上げられて無理やり立たされた。すべて背後のライオネルのしでかしたことだと気が付くまでに時間がかかった。
「い……痛い……」
痛いだけでなく、左手が動かないとまったく身動きが取れない。ヘンリーは、ライオネルがソフィアを一瞬で無力化したことで、満足したように立ち上がった。ゆっくりと戸棚に向かう。
「お前はシナバーだったな」
彼は戸棚のガラス扉を開いた。痛みに呼吸を荒くしながらかすむ目でソフィアが見たものは、戸棚から取り出した銃の銃口をこちらに向けているヘンリーだった。
「シナバーは丈夫なんだよな」
腹に響く重い音がして、ソフィアの太ももに鋭い痛みが走った。銃弾が服を突き破って太ももをかすめたのだった。長いスカートからは足の正確な場所はわからない。だから掠めただけで済んだが、彼は間違いなく狙ってきている。
「俺を訴えるか?」
次の銃声が響いて、とっさにソフィアは身をよじった。背後の床に穴が開く。
「ヘンリー様、気をつけてください。私に当たります」
「お前もシナバーだろ」
ライオネルにも意図的な悪意を返してヘンリーはソフィアを狙い続ける。痛みと身の不自由さにソフィアは動けない。今まで自分が力で乗り越えてきたことがライオネル相手では無効だ。
「お前が俺を訴えるのは自由だが、俺は警察にも司法にも顔が利く。貧乏人の訴えなど無駄だ。それにお前が訴えるとイヴリンの立場も良くないものになる。いろいろとな。借金もあるしあのろくでなしの兄のこともある」
深いところまでは説明しないが、ヘンリーの言葉には嘘ではないと感じさせる勢いがあった。
三回目の銃弾は、ソフィアのわき腹を掠めた。痛みが広がり、じわりとした熱が湧き上がる。ソフィアは引きつる声で悲鳴を上げる。
「なかなか当たらないな。おい、もっと当てやすくしろ」
「……ソファに穴が開いてもよろしいですか?」
「かまわん。壊れたら買い換えればいい。妻と同じだ」
つかまれて頭上にあった腕をねじられ、急に身体ごとソファに押し付けられた。その場にへたり込んだが、腕だけは寄りかかるソファの座面に固定されている。引き抜こうとしたが、ライオネルの腕力と押さえつける技術はたいしたものだった。こちら側にやってきたヘンリーは、ほぼ押し当てるに近いほどの間近に、銃口を寄せる。手の甲にひやりと冷たさを感じた次の瞬間、灼熱と衝撃が叩きつけられた。
濁った絶叫がソフィアの喉から迸る。
「どうも射撃は下手でいかん」
ソフィアの手の甲に穴を開けて、ヘンリーは謙遜めいた言葉を発する。
怖い。
殺される。
ソフィアは歯を食いしばった。近くにあるヘンリーの足を思い切りけとばしたのだった。それだけでも外された左肩と撃ち抜かれた右手の甲に振動が痛みとなって伝わる。足元を払われたヘンリーは思い切り無様に転がった。一瞬ライオネルの手の力が緩むのを感じると、ソフィアは血まみれの右手を渾身の力で振り払い、鞄を掴んだ。それを背後のライオネルに向かって振り回し距離を作る。
あとは一目散だった。庭に面したガラス窓におもいきり体当たりすると、ガラス片もろとも庭園に転がった。皮膚のあちこちを破片で切った気がするが、かまっていられない。ソフィアは走り出した。背後からヘンリーの哄笑が聞こえたが振り返らない。
「ライオネル、追え!鼠狩だ」
その言葉に、ソフィアは庭をいっそう早足で駆け抜け門番を突き飛ばして屋敷をでる。気が付けば雨が降っていた。
とにかく遠くへ。
痛みと恐怖でそれくらしいか頭になかった。雨の勢いは強くなり、風景も見渡しにくくなる。高級住宅街を走っているが今自分がどこにいるのかわからないくらいだった。
手の甲から伝わって地面に落ちるしずくは血か雨か。
「あ!」
気が付けば下りの坂道で、ソフィアは転倒していた。脇の茂みの中に顔から突っ込んでしまった。低い潅木を折りながら、数メートル崖を落ちる。
「ああ……痛い……」
ほんの一瞬……かもしくは数分、気を失っていたようだった。風で揺れた木から落ちてきた大量の雨水をかぶって目が覚める。
まだわき腹と太ももの怪我は生々しく痛んだ。手の甲の怪我は、傷を覆うハンカチを超えて拍動に会わせて血が吹き出してくる。
ハンカチ……?
濃紺のハンカチでソフィアの手の甲は包帯のように包まれていた。自分でやったのだろうか。いいえこれはわたしのハンカチではない。でもそんなこと考えている場合じゃない、逃げなきゃ、早く、遠くに。
ソフィアは雨水を吸ってぐっしょりと重くなった身を起こした。中まで濡れそぼっている靴が一歩足を進めるごとにぶくぶくと音を立てる。落ちてしまった崖を上ることを諦めて、ソフィアは下におりる。やがて舗装された道にでた。
大雨でよかったと思う。歩く人はほとんどなく濡れ鼠で血を落としながらひた走るソフィアの姿を見るものはいなかった。どうして配給血を家に置いてきてしまったのだろうと思う。あれがあれば怪我くらいは治ったのに。
よろよろと朦朧としながら何度も転びつつ歩いていたソフィアは、だいぶ大学校に近い場所に居ることに気が付いた。
見慣れた光景に安堵する。そしてもう一つ気が付いた。
この道沿いには。
一度見たことのある扉をソフィアは押した。
「いらっしゃ……」
高級喫茶店……『ギネヴィア』は一度だけアーサーと一緒に来たことがあった。出てきた品の良い美しい女主人も見覚えがあった。本当は図書館まで行くべきだ。でもこの体ではいけない。
「お願いします。もしも、アーサーに……たぶんこの店に出入りしていると思いますが、アーサーが来たら伝えてください。ソフィア・ブレイクが、お話したいと言っていたって」
自分はなんとか逃げ延びた。これで下宿に帰れさえすれば、配給血がある。
今度はイヴリンを助けなきゃと思っていた。
あんな男のところにはけして置いておけない。でも彼女をどうやって助けたらいいのか自分にはまったくわからないのだ。ヘンリーの言葉の端々にイヴリンをがんじがらめにしているものが感じ取れた。アーサーなら相談に乗ってもらえるかもしれない。本当は相談したい相手は別に居るけど。
居るけど?
出血でぼんやりした頭では追求できない。
「お願いします……」
それだけ言ってソフィアは店を去ろうとした。
「お待ちなさい!」
鋭い声をかけられて、ソフィアは腕を掴まれた。外された肩が痛んで短い悲鳴を上げてしまう。驚いて手は放してくれたが、女主人はソフィアを離そうとしなかった。
「あなた一体どうしたの。どうしてそんな大怪我をしているの!」
「大丈夫です。シナバーだから……あのアーサーとは知り合いなんです。信じてもらえないかもしれないけど」
右手の甲から血を流し、左肩は外れて、服は血まみれだしずぶぬれだ。まとめ髪も崩れ落ちている惨めな姿のソフィアがあの洗練されたアーサーと知り合いなんて、自分でも冗談みたいだと思う。雨に打たれすぎて寒さで手が震え始めていた。
こんな姿でこの高級喫茶店に居るわけには行かない。ソフィアは背を向けて立ち去ろうとした。
「知ってますよ!アーサーがここに女性を連れて来たのなんてあの時がはじめてよ」
女主人は働いている若いボーイを呼んだ。
けれどソフィアはそこで足から崩れ落ちるようにしてしゃがみこんでしまった。




