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下町は確かにあまり治安が良くないと言う事は感じていた。しかし昼間に訪れることが多かったのでその本格的な怖さを知ったのは今日がはじめてであった。
目的地に向かって幾つも路地を曲がり、呑み屋の喧騒と漏れる明かりを幾つも通り過ぎていく。すれ違う酔っ払いから妙な視線を与えられたり、品のない野次を投げかけられたりして、ぎっしり荷物の詰まったトランクを思わず振り回したくなってしまう。それすら遠くなり、人の気配が薄れてきた細い道で、ソフィアは怒声を耳にした。
「おい、金をだせと言ってるんだよ!」
「痛い目に会いたくないだろう」
路地のしばらく先で、四、五人のあまり人相のよくない男達が、壁に向かって怒鳴っていた。む、と眉を寄せてソフィアは足を止める。
壁かと思いきや、そこには華やかなドレス姿の者がうずくまっていた。ドレスの趣味からして若いもののようだ。
どうしようかな。道を変えた方が良いかな……。
一瞬事なかれ主義がソフィアの脳をよぎる。
だいたいあんな身なりでこんな治安の悪い場所を歩くのがそもそもおかしい。わたしのように地味な灰色ドレスであればさして目もつけられないものを。まあわたしの場合、本当にこれしかもってないだけだけどね!
……事なかれ主義は自虐に発展した。
それでもトランクを両手に提げたまま、ソフィアはその集団に向かって歩き始めた。近寄る前に男の一人がソフィアに気がつく。ソフィアの身なりを一瞥して「あまり金はなさそうだな」と判断したらしい。的確な判定である。あっちに行けと、乱暴に顎でしめしただけだ。そのお金持ち以外お断りの厳格さはどこの高級レストランにも負けないわねと思わず感心する。
「あのですね」
ソフィアは声を張り上げた。
「まだ若い娘さんのようですし、勘弁してさしあげたらいかがでしょう」
老人ならいいというわけでもないが、それでもソフィアはやっぱり自分と同じような若い娘が怖い思いをするのは嫌なのだ。
「なんだてめえ!」
威嚇するかのように大声で怒鳴られてソフィアは悲しくなる。怖くは無い。
「通りすがりのものです」
「あっち行ってな!」
「ごめんなさい」
ソフィアは謝った……これから起こすことに対してだ。
ソフィアはトランクをとりあえず置いた。一歩踏み出すと一番近くに居た者の腕をつかんだ。そして無理やり引き剥がす。放り投げることも出来るがしない。ただ彼の腕を少しだけ強く握っただけだ。男は自分に起きたことを把握するまもなく腕の痛みに呻くことになった。
「な……」
ソフィアに改めて注目した男たちは、ソフィアを頭のてっぺんから、その灰色の地味な服の裾まで眺める。胸部の時に、気の毒そうに同情の色を帯びたその視線をソフィアはわりと執念深くしばらく忘れなかった。
「お前」
男の一人がかすれた声で言う。
「シナバーか!」
「ああ……正式名称の浸透は嬉しいです」
ソフィアは頷いた。
「だって吸血鬼なんて呼ばれ方、古臭くてかっこ悪いから」
大アルビオン連合王国。ここで過去吸血鬼と呼ばれ、迫害と闘争の過去があった存在は特発性銀朱球増殖飢餓症候群……通称シナバーと呼ばれる疾患として認知され、ある程度受け入れられている。そしてソフィアも罹患者の一人である。
シナバーは、魑魅魍魎のたぐいでもなく種族が違うというわけでもなく、もちろん呪いだなんてこともなく、ただ純粋に疾患である。おそらく数千人に一人の割合で発病している。そこに遺伝的要因は無く、今のところ他人への感染も認められない。残念ながら治ることは無い。
かつてシナバー患者によって死亡させられた人間達は、別に彼らに血を吸われことで死んだのではなく、その際の限界以上の失血や傷口からの不運な感染によって死亡したと今では結論付けられている。シナバーが吸血する時の噛み傷は不思議とすぐに塞がるのだ。
彼らに血を吸われてもその人間がシナバーになるわけではない。一方で今まで一度もシナバー患者の出ていない一族の間にもふいにその患者がでることも調査済みである。発病に至る経緯は今なお不明ではあった。
現状で人々は、別にむやみやたらと恐れるべきものではないのかな?という認識には至っていた。
とはいえ、それは別に自然に人々の間に発生した寛容の精神ではない。
三百年前、この大陸の三分の一を占めるアルビオン地方の覇権を巡って小国家がいくつも争っていた。長きに渡って続いた血生臭い戦争を終わらせた建国王がシナバー患者であった。
彼は周囲のシナバー患者を率いて、四つの国を大アルビオン連合王国として平定し、その際にシナバー患者への理解と共存を民に啓蒙したのだった。
続く戦乱にうんざりしていた庶民にとって、建国王と彼が率いるシナバー患者達は英雄である。むやみやたらと襲われさえしなければ受け入れることはやぶさかではないという素地はでき始めていた。建国王は犯罪者の血を配給することによって一般人への被害を極小とした。それは今も保存血の配給という形で制度を存続している。
そして建国王の聡明であった点は、別にシナバー患者による立国を目指したわけではないという点だ。等しく人として平和に生きる権利を求め、そして与えただけにすぎない。シナバー患者が一般人を支配する王国であれば十年と持たなかったであろう。王国は現在は王制から議会制へと変容したが、シナバー患者への寛容は今も息づいている。彼らがいなければ大アルビオン連合王国は誕生しなかったという意識があるからであろう。
大アルビオン連合王国誕生の礎、シナバー。
シナバー患者は一般人と見た目は変わらない。発病しても以前の容姿を保ち、別に不老不死でもない。昼も平気で出歩ける。昼間のピクニックや海水浴が好きな者もいる。にんにくやら鏡やら神の印に弱いわけでもない。銀の弾丸は致命傷にはならない。吸血した相手を支配なんてできない。少しだけ人より夜目が利くが、霧とか蝙蝠に変身できるわけでもない。顔色は悪いかもしれないが、棺桶で眠らなくても元気いっぱいであるし、普通の食事も必要だ。ちなみにソフィアの好物は山盛りのフィッシュフライである。ガーリック風味のタルタルソースが添えてあったら最高だ。
シナバー患者が一般人と違うのは、定期的に他人の血液がなければ生きていけないことと、尋常では無い運動能力と回復力だけだ。
今もソフィアは向かってきた男の拳を苦もなくよけた。別に何の格闘技の訓練を受けたわけでもなく、裾捌きの悪いドレスを着ているソフィアですら、この程度の乱闘は別に苦でもない。
拳闘家崩れなのか、普通だったら避けきれないほどの速い速度で繰り出された拳を、ひょいひょいと避けてソフィアは眉をひそめる。ため息をついてからソフィアは拳を真正面から手の平で受け止めた。見た目がやせぎすの若い娘であるソフィアに軽がると重い拳をとめられて男の一人は眼に見えて青くなった。そして彼が一番の喧嘩屋なのだろう、他の連中の鼻息も小さくなる。
「……シナバーめ……!」
男たちは一瞬固まったあと、一気に逃げ出した。
シナバー患者はあらゆるスポーツや格闘技の公式チームに加わることが禁じられている。平等とか権利とかの問題は残るが、「なんかずるすぎる」という確かに納得せざるを得ない理由のためだ。ソフィアですら、まあそりゃそうだと思う身体能力の不公平はある。
化け物か……罵る言葉としては平凡だなあ、とソフィアは肩をすくめた。日々、学内で受けている地味ながらしつこい差別に比べたらあまり心に響かない罵倒だ。
男達が逃げ出したあと、ソフィアはうずくまっているそのドレス姿の人間に近づいた。乱暴な事はされていないと思うが、怖がっていたら可哀想であるし、こんな治安の悪い場所にそんな豪華な身なりで出歩くなとちくりと釘を刺しておかねばなるまいと考えたのだ。
……そして衝撃的としかいいようのないものを見たのである。
相手は美青年だった。
「なんでドレス……」
思わず口を就いて出る。
可憐なドレスを着たそいつがどこからどう見ても男であり、さらに衝撃的なのは彼が悪びれる事無く堂々と己の名前まで名乗ったからだ。
ジョン・スミス……偽名……だわ、どう考えても……。
名前も苗字も国内一番の頻度だが、だからこそ子どもにジョンとはつける親は減り、今は逆にその数を減らしているありきたりの名前の男は胸を張って名乗った。
今、成すべきことがひとつだけということくらい、シナバー患者で腕っ節には自信があるソフィアにだって一秒でわかる。
「いかがだろう。お茶でも一杯」
「いいえ、ただの通りすがりの者ですからお気になさらず」
成すべき事は逃げること。
ソフィアはくるりとドレスの裾を華麗に翻し、トランクを両手にがっちりつかむとそのまま駆け出した。人生で一番の速度だったと思う。
「まて、お嬢さん!僕はまだ、あなたに御礼をしていない!」
男の声が後ろから追いかけてくる。無駄にいい声なのが若干腹立たしい。言っている事はわりと紳士的である。
いらぬ、変態からは、何一つ礼など要らぬ!
内心でそんな悲鳴を上げながら、ソフィアはうらぶれた路地をひた走った。
トランクすら重さにならぬ自分の体質に、人生でこの瞬間ほどシナバーでよかったと思ったことは無い。
「ヒューゴ!」
そして彼女が駆け込んだのは、下町の一角にある一軒の物寂しい……下手したら廃屋に見えるレベルで古い家だった。
そしてここが、ソフィアが荷物を抱えてこの下町にきた理由である。がたつく扉を壊さないように注意を払いつつも彼女はそこに飛び込んだ。中にいたのは二十代も後半の男だった。
短く切りそろえた栗色の髪に、優しさを滲ませたはしばみ色の眼をしている。清潔ではあるが少々くたびれている白衣を羽織り、琺瑯の手洗い台の前で手を拭っているところだった。彼……ヒューゴ・ウィルシャーは小さな診療所として機能しているこの廃屋……もとい民家の主人だ。すでに患者の姿はなく、磨かれた医療器具が整然と並んでいる様子から今日の後片付けをしているのだと伺えた。
「どうしたんだ、ソフィア。こんな時間にこんな物騒な場所に」
飛び込んできた彼女の勢いにヒューゴはわかりやすく驚いた顔を向けた。ソフィアがシナバーと知っているにも関わらず、彼の視線にはいつも「うら若い娘」に対する心配が滲んでいてそれが少し嬉しい。消防隊もソフィアがシナバー患者だとわかりさえすれば、ボヤ直後の建物に入りたいと言われても反対しない。それはわずらわしさはないものの、やはり少しばかり寂しいものである。
「ちょっと、ヒューゴに用事があって。それよりも、大変なことが!」
「物盗りかい?だから日が落ちたらこの辺りには近寄らないようにと言っているだろう」
「物盗りなんてタコ殴りで終了ですよ。それよりもっと恐ろしいものが……」
「だめだよソフィア。タコ殴りなんて乱暴な言葉を使っては。亡くなった御家族が悲しむだろう。特にお祖母様が。あの方は本当に天使のように優しかった」
「わたしが本気だしてぶん殴れば間違いなく相手を天国に送れますから、わたしだって相当に天使ですよ。それよりヒューゴ聞いてください。大変なものを見てしまったんです。恐ろしい、世の中の風紀は乱れまくりですね。なんて嘆かわしいことでしょう」
「何のことだい、ソフィア。まあ落ち着きなさい、お茶でも淹れよう」
患者用の椅子を差し出してヒューゴは言った。座ったら壊れないかな、と補修のあとが多々残る椅子に一抹の不安を覚えつつもソフィアは座った。すでに火を落とした暖炉だったが、その残り火でまだヤカンの湯は冷めていないようだ。ヒューゴは簡素なカップを二つ、そして一瞬迷って三つ目を手にするとテーブルに置いた。陶器のポットに茶葉を入れ湯を注ぎながら言った。
「多分、そろそろ戻ってくると思うんだ」
「え?」
「私のお客も。皆でお茶を飲もう」
その言葉を待っていたように、ふいに診療所の扉が開いた。ソフィアの開けかたよりよほど落ち着いて品のよい様子で。
「ヒューゴ、今日もだめだったよ」
そういって肩を落として入って来た相手を見た瞬間、ソフィアが目を見開いたのは、彼が先ほどのドレス男だったからだ。
診療所の中を埋め尽くすのでは無いだろうかと思われるほど贅沢に膨らみを取った彼のドレスのバッスルが一度入り口に引っかかった。おっと、という顔をして振り返りかけたその男ジョン・スミスは動かした視線の途中にソフィアを見つけた。
「これはこれは!」
ソフィアは逃げたい気分でいっぱいだが、とりあえず出口がドレスで塞がれている状況なので、脱出経路がない。
「先ほどの親切なお嬢さんではないか」
「人違いだと思いますよ?」
「ああ、そうか。ソフィアが見たのはジョン・スミスか。確かにこれじゃ、恐ろしいし風紀は乱れまくりだし嘆かわしいな」
知らんふりをしようと思ったソフィアだが、ヒューゴの悪気のない言葉によって足を引っ張られた。それにしてもまじまじと見てみれば、どぎつい緑のアイシャドウに冗談としか思えない濃さの頬紅などをつけていて、空恐ろしくなる不気味さだ。察するに元はそれなりの男前だと思われるのがなおさら恐怖感を押し上げている。
なるべく乱暴な言葉を使わず、品良く表現しても『この人ものすごい勢いで頭がどうかしている』としか言いようが無い男である。
「君は僕の名前を偽名と思っただろう。よくあることだ。しかし僕のジョンという名は偉大な曽祖父にちなんでつけられた由緒ある名前なのだよ」
そうか……偽名じゃないんだ……。
それがわかっても、あまり安心できなかった。
「おい、ジョン・スミス。茶を淹れてやるからとりあえずその不気味な仮装をなんとかしてこい」
ヒューゴがジョンに濡れタオルを投げつけた。ヒューゴの言葉にううむ、と唸ったジョンだったが、ソフィアの隠しきれない……そもそも隠すつもりのない不信を一応感じとったのか、おとなしく診療所の奥の部屋に消えた。確かそこはヒューゴの私室のはずである。気さくな関係ということにソフィアは気がついた。
「あれは、私の友人でね」
「……ヒューゴは懐が大きすぎませんか?」
口に出すのは恥ずかしくて言ったことは無いが、ソフィアはヒューゴを人格者だと思っている。
ヒューゴはソフィアの死んだ祖父の生徒であった。ソフィアの祖父は田舎で小さな町医者をしていた。時々講師として都会の大学に招かれて、そこでまだ学生だったヒューゴと知り合ったらしい。その時からブレイク一家とヒューゴの付き合いが始まり、ソフィアにとって彼は時々遊びに来る優しい都会のお兄さんだった。
彼が実の家族と袂を分かち、駆け落ち同然に結婚した時も、こんな貧しいものしか住まない場所で診療所を開いた時も、そしてその妻が若くして亡くなった時も、ソフィアの祖父は彼を応援したようだ。祖父が亡くなってからヒューゴはソフィアを身内のように心配してくれている。
それはソフィアの祖父に対する恩義からだということはわかっていたから、あまりソフィアも彼を頼るということは無かったが、しかし、さすがに焼けだされた今はそうも言っていられない。そんなわけで彼女はここを訪れたのだった。
得体の知れないジョン・スミスという男がなぜか乱入してきたが。
「いや、あれはあれで、とても面白い男だよ。私よりもけっこう年下だけど、非常に優秀で、いくつも飛び級してもう院まで行っている」
「え?」
「そうは見えないだろう?ああでもね、人格という点ではちょっと難有りだな。私自身も時々どうして彼の友人なんてやっているんだろうと思うことがある。一度あいつを殴れたら爽快だろうなとは毎回会うたびに思う」
「ヒューゴも人間なんですね……」
ソフィアが目を見開いた時、奥の扉が再び開いた。
無難、を絵に描いたような衣装だったが、きちんとした青年らしい服に身をつつんだジョンが化粧をまだごしごしふき取りながら出てきた。
「ああ、腹が減ったよ、ヒューゴ。何か食べたい」
おまえずうずうしいにもほどがないかわたしのすてきなヒューゴに!と思わず睨みつけようとしてジョンを見たソフィアはぽかんと口を開けてしまった。
世の中にこれほどに整った顔立ちがあるのか、と衝撃を受けてしまう。世の娘達の「王子様」を具現化したような端正な顔をしていた。豪奢としか言いようのないたっぷりとしたストロベリーブロンドは診療所の乏しい明りを倍にするかのような輝きを持っている。はっきりとした目鼻立ちはそれだけで華やかだ。
さらに淡い蒼の瞳は先ほどのヒューゴの話を裏付けるように理知的な光が強く宿っていた。その鋭さが彼の顔立ちから甘さを差し引いており、脆弱さをまったく感じさせない力強い表情となっていた。
……これだけの美形を台無しにできるさっきまでの化粧もまたすごい破壊力……などと別方向でも感心してしまった。