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キスと弾丸  作者: 蒼治
1 首都連続首切事件
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 ソフィア・ブレイクはそこを通りすがっただけだ。


 確かにこの場所は、首都の中でも最も治安が悪い区域。しかも時間は日がすっかり落ちた午後八時。スリ、強盗、阿片売り、娼婦に客引き、酔っ払い、いつ何時身の危険を感じるような相手に会うとも限らない事は覚悟していた。

 十八歳のうら若き乙女がうろうろするには確かに不適切な場所なのだ。

 ただ、ソフィアが単なる十八歳のうら若き乙女ではないことは彼女自身が一番知っている。


「……ありがとう、親切な方」

 心の底からソフィアに感謝を告げている相手から、ソフィアは一歩退いた。

 目の前にいるのはそんな物騒な場所でうっかり関わってしまい、その身を助けてあげることになった相手だ。あまり服飾に詳しくないソフィアでも一目で他とはまったく違うとわかるような豪華なドレスをまとっていた。


 色は今年の秋流行の紅色。染料の質も量もそのあたりで売っているものとは格が違うと思われる豊かな深みを持っている。そしてアクセントになっている裏地の花柄は、繊細かつ鮮明で、最新設備を持っている大工場で仕上げられたものだろう。レースは間違いなく一流編師のものだ。お金が無ければ買えないがお金だけあっても買えない超高級品。今の騒ぎで少し破れてしまい、腕がむき出しになっていて、その損傷が痛ましかった。こんな夜更けなのに深々と被っているボンネットも繊細な工芸品のように美しい。


 そして見るべきは衣装だけでは無い。その中身も見事だった。ボンネットの中からこぼれる赤みがかったブロンドは、夜の街の光を受け止めて金でできた糸のように輝いた。感謝とともにソフィア見つめる瞳は秋の空のように澄んだ蒼だ。

 そう、助けた相手は美しい。


「ありがとう。僕はあまり人に感謝することはないけれど、今回ばかりは素直に礼を言う。君の名前を聞こう。ああ、申し遅れたが僕はジョン・スミス」

 彼はソフィアに笑いかけた。

「ジョンと呼んでくれてかまわない」

 ……『僕』で『ジョン』。

 ドレスの破れた箇所から見える二の腕は逞しく、感謝の言葉は耳に心地よく低い。顔立ちは凛々しく、びっくりするほど端正だ。

 ……ものすごい勢いでその麗しいドレスが似合っていない。

 そう、美しいけど、意味わからないけど、相手は青年。


「いやちょっと待って。なんでドレス?」

 ソフィアが助けた相手は、ドレス着用女装男だった。



 その日、ソフィアは朝からついていなかった。

 朝食のパンは固く乾いていた。下宿から出てみれば晩秋の冷たい雨が降りだした。慌てて傘を取りに戻れば階段を三段落ちた。学校では苦手な教師に意地の悪い質問で回答を求められ、答えに窮した。昼食時間にくい込むほどに説教されてから慌てて行ったいつものカフェがいつにない混雑で入れずじまい。別の店を探している間に時間を失い昼食は抜きになった。週に一度の用事で役所に行けば、窓口は長蛇の列で時間を無駄にした。

 そして最大についていなかったのは、下宿に戻ってみれば、そこはボヤ騒ぎの後だったということだ。


 十八歳になって国立医科大学校に通うことになったのをきっかけにソフィアは慣れ親しんだ田舎を離れ、国内一の大都市の首都で一人暮らしを始めた。黒煙を吐く蒸気機関車に乗って初めてこの都を訪れたのはまだたった三ヶ月前の話だ。首都は家賃が高く、当然ソフィアの下宿も狭くて古く、日当たりが悪い質素なものだったが、それなりに愛着がわいてきたところである。

 ちょうど火を消し終えたところの優秀な消防隊と、馬に乗ってあたりの混雑をさばいている警官達、そしてそれらの数倍はいる野次馬を押しのけて下宿の前まで行ってみれば、途方にくれた顔の大家がいた。


 大家である初老のルイス夫人はソフィアを見つけると気の毒そうな表情で近寄ってきた。いつもは非常に朗らかな彼女も、さすがに表情を曇らせている。

「ソフィア、見ての通りよ。大変なことになったの」

「そうですね……」

 息が詰まるようなきな臭さが残る現場だ。放たれた水が上階から滝のようにまだ滴り落ちている。

「火事になったのはうちじゃないの。うちのお隣さん。本当に大した火じゃなかったのは幸いなんだけど、消火のために水を使ったからあなたの部屋は水浸しなの」

「みず……」

 ソフィアは唖然として建物を見上げた。ルイス夫人は畳み掛ける。


「しばらくは部屋に戻れないわ」

「あの……荷物は……」

「どうかしら、そうね。少しでも持ち出せたほうが良いわね。水はまだまだ乾かないみたいだし」

 ルイス夫人が消防隊に交渉すると、当然のことながら彼らは危険だという理由で室内へ人を入れることを断った。しかしルイス夫人がさらに言葉を付け加えると、彼らは一瞬の間の後あっさり承知してくれた。ちらりと興味深げな眼でソフィアを見てから。

その視線の意味をもちろん理解しているソフィアは少しだけわずらわしさを覚えながら、了解を貰った室内に入り込んだ。


 暗く、焦げ臭い、そして水を滴らせている一階の玄関の壁を見てソフィアは眉を寄せる。階段の踊り場の割れた鏡に映った自分の顔を見て深いため息をついた。

 地味な黒髪は個性も無くただまとめられていた。やせぎすで、身長は多くの男の人が可愛いと思ってくれるであろう平均身長より少し高い。母親譲りの緑の目だけは自信を持っていい美しさでないかと思うが、とりあえずそれも疲れきって濁っている。


 これから使えそうな荷物を仕分けして手早く持ち出して。

 そして……さあ、わたし、今日どこに泊まればいいの?


 ともかくソフィアは自室に戻ると水浸しのトランクを拭いた。室内の惨状についてはなるべく見ないようにした。見なくても水が落ちる音は聞こえてしまうのだが。

 まず救出したのは書物だ。濡れたものはなるべく丁寧に拭きトランクにしまいこんだ。それから少しばかりの服を詰め込む。その間を日用のこまごまとしたもので埋めると、あっというまにトランク二つはいっぱいになった。もともとあまり持ち物が無かったのは幸いだった。


 狭い階段をトランクを提げて戻ると、ルイス夫人がまた駆け寄ってきた。この一時間ほどでさらに白髪が増えたような気がする。しかし彼女はかなり気力を取り戻してきたようで、こんな事態にもめげる事無くソフィアの心配をしている。


「ああ、ソフィア、怪我も無く降りてきてよかったわ。ねえ身分証明書はちゃんとある?あれがないといろいろ困るでしょう。配給品だってもらえないし。もしなかったら私も一緒に探すわよ。水で流されちゃっていたら探すのも大変よね。でも私、探し物を探すのは得意なの。亡夫もね、すぐに無くし物をするうっかり屋だったから、いつも私が探してあげていたのよ。『ねえナンシー、私がさっきまで持っていたパイプがない。知らないかい?』とかね。それがどういうわけだか下駄箱にあったりするの」


 延々と続きそうなルイス夫人の言葉になんとかソフィアは割り込んだ。

「大丈夫です。身分証はいつも携帯していますし、それに配給品はちょうど明日貰うところです」

「まあよかった。不幸中の幸いね。それで今日は行くところがあるの?私は妹のところにいくつもりよ」


 今日、行くところ。

 ソフィアはとりあえず何も思いつかない。しかし人のいいルイス夫人に心配させるのも気が引けた。これがよく可愛げがないと言われてしまう自分の欠点かもしれない。しかし可愛げなど、女だてらに国立医科大学校に通い始めた時点で不要なものだ。今、このボヤ騒ぎ現場から持ち出せる物だとしても『可愛げ』はトランクに入れない。


「そうですね……友人のところにとりあえず行ってみます」

「ああそう!よかったわ。あなたにも友人が居るのね?あら、でもそれはちゃんと女性なのよね」

 ええ、もちろん、とソフィアは微笑んでしれっととぼけた。

 国立医科大学校に居る女子生徒はソフィアを入れてわずか三人。まだ仲良くなるに至っていない。そして男子生徒にもまだ仲良くなれるような人間はいない。


 国立医科大学校が女性に門戸を開いたのは昨年度の話である。しかし昨年は誰も入学しなかった。二期生だが実質初めて女子学生が存在することになった今年は、三人入学しただけだ。学内の大部分の男性は女子学生への態度を決めかねている。ほんの一部は時代の流れというものであろうと好意的に受け入れている。残りの大方が、嘆かわしいことだと考えている。今日ソフィアに意地の悪い(まだ学んでいない範囲であったのに!)質問を投げかけてきた教師は、嘆かわしいを通り越して許せないと考えている一人だ。

 それも覚悟の上だったので、ソフィアは淡々と、次はもっと予習しておこうと考えただけだったが。


 そんなわけで頼れそうな人間は学内では心当たりは無い。というか問題を起こしたと見なされまた言いがかりをつけられそうなので、この件は校内では伏せておきたいところだ。

 のん気に不幸を嘆いている場合では無い。

 茫然自失から立ち直ったソフィアは、ただ一人の心当たりに向かって、下町へと行くことにした。彼女自身、切り替えが早い事はわりと長所だと自分でも考えている。

で。

その下町で本日最大の不運に遭遇したわけである。

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