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~音で繋がる世界の物語~

マホウノコトバ

作者: 璃依



───ライトに照らされて、ピアノはいつにも増して存在感を放っていた。

 すぐにでも弾いてしまいたい衝動を懸命に押さえつけ、鍵盤を睨み付ける。まだ弾かない。私がここに座っている間は、誰も邪魔はできないのだから、慌てる必要はない。

 ライトのせいで汗ばむほどに暑いというのに、手は冷え切り、かたかたと震えていた。

私は目を閉じて───二日前のことを思い返した。



***



「はぁ……」


 自分の机に突っ伏して、らしくもなくため息をつくのは私───桜羽(さくらは)琴音(ことね)だ。

ようやく六限の授業が終わり、あとは帰り支度をすればいいだけなのだが、私はいっこうに片付けようとせず、指先で消しゴムを弄んでいる。


「どーしたの、琴音。ため息なんかついてさ」


 どんと音をたてて机に手を付くのは、小学校からの付き合いである大場(おおば)有紗(ありさ)だ。

小学四年生のころ知り合ってから、毎年のクラス替えで一緒になり、こうして中三になっても同じクラスだというのだから凄い。裏から手を回しているのでは、と思ってしまうほどに。

そうは言っても、友人がクラスにいることに対して文句はないのだが。

 私はもう一度吐息を零すと、言った。


「ほら、今週末……ピアノのコンクールがあるから」


「あー、そういえば言ってたね」


 私は、幼い頃からピアノを習っている。

そのピアノの講師から、コンクールに出てみないかと提案されたのはいつのことだったか。

コンクールと言っても、大人たちの中に混ざって参加するわけではない。子供むけのコンクールで、小学生から中学生───せいぜい高校生までが出場できる。

いくつかの部門に分かれていて、今回私が出るのは中学生の部門だ。


「でも、琴音なら大丈夫じゃない?合唱の伴奏とか、毎回上手いし」


「…あのねえ、コンクールには私なんか足下にも及ばないくらい上手な子達がわんさかといるの。それに、前回……」


 前回のコンクールのときは思い出したくもないほど散々な演奏だった。

指が思うように動かなくなり、まわりの音を巻き込んで不協和音を生み出した挙げ句、最後の音すらも弾き間違えて、何とも後味の悪い終わり方となったのだ。

人を感動させる演奏なんて冗談じゃない。あれは、人に聴かせられる演奏じゃなかった。

───結果は、審査発表の紙を見るまでもなく予選落ち。


「怖い?」


「───怖いよ。……また失敗するんじゃないかって」


 本音は怖い。ひどい演奏をして、おざなりな礼だけ残してステージの袖に戻るとき、同じ出場者や親達が私を指差して笑っているような気がして、ひどく惨めな気持ちになる。

実際、与えられた席からステージに上がって演奏したまでは良かったのだが、戻ってくる場所を間違えて「説明、ちゃんと聞いてたのかしら」と言われたこともあった。

怖い。恐ろしい。わざわざ自分の無様さをさらしに行くようで、何度もやめたいと思った。

───だが、結局私は今年もコンクールに申し込み、練習を重ねてきた。

 ここまできて、やめることなどできない。やるしかないと分かっているのに、緊張感と恐怖が際限なく高まってくる。


「───琴音、深呼吸」


 有紗に言われて初めて、私は呼吸を忘れていたことに気付いた。

有紗はじっと、荒い息を吐く私を見つめていたが、不意に口を開いた。


「私はコンクールなんて出たことないし、ピアノも弾けないけどさ。勝手なこと言わせてもらうよ」


 何を言われるのだろうと、思わず身構えた私に向かって、有紗はいつになく真剣な目で言った。


「ステージの袖までは、あれこれ考えていいと思う。緊張するなってほうが無理だし」


「───」


「───だけどね、琴音」


 有紗はぐい、と顔を近付けて続ける。初めて見る有紗の様子に私はもう、目を丸くして聞いているのみだ。


「一度ステージに上がったら、緊張しようが怖かろうが、弾くしかないんだよ。だから、失敗なんて考えたってどうしようもないでしょ?」


 唇を震わせるが、何も言葉が出てこない。───それぐらい、圧倒された。


「───失敗した後悔も、観客にどう思われてるかも、終わってからぐだぐだと考えればいい。話聞いて、慰めるくらいなら私にもできるしね」


 目の前に立ち塞がっていた壁の全てではないが、少し取り払われた気がした。

驚くほどに、心が軽くなる。───まさか、有紗の言葉に救われるなんて考えもしていなかった。


「……有紗は、強いね」


 そう言うと、有紗はぱちぱちと瞬きしてから笑みを浮かべた。


「まあ、生徒会やってると人前で喋ることも多いしさ。もちろん緊張するし、慣れるものじゃないけど……心の置き方については慣れたんだよね」


───有紗はこう見えて、生徒会書記なのだ。選挙中の演説も堂々としたもので、ひそかに感嘆したほどだった。

 そんなことを考えていると、有紗は思い切り伸びをして、席のほうに戻っていこうとする。


「あ、有紗!その……」


 呼び止めたものの、適切な言葉が出ずに口ごもる私。有紗はちらりと振り向くと、


「今日は生徒会ないから、先帰ってる」


それだけ言って、戻っていった。

お礼すらも言わせないあたり、有紗らしいと思う。


「───ふぅ」


 良い感じに緊張感が抜け、私は立ち上がると通学鞄を取りにロッカーへ向かった。



***



 部活を終え、私は下駄箱から靴を取り出した。普段は有紗と一緒なのだが、今日は帰ってしまったのでひとりだ。

できれば、頑張ってくるねとそう意気込んでから帰りたかったのだが───、


「……あれ?」


 下駄箱の奥に朝はなかった紙切れのようなものがあって、私は手を伸ばしてそれを取り出した。

丁寧に折られたそれを開くと、蛍光ペンで書かれた文字が目に飛び込んできた。


『頑張れ!』


 こんなことをしてくれるのは、有紗以外にはいない。

さすが書記で、綺麗に整った文字の横には可愛らしい猫のイラストが描かれていた。

 私は微笑み、紙切れをたたむと落とさぬよう鞄に入れて、生徒玄関を出た。



***



 目を開ける。なかなか始まらない演奏に、観客席のほうが微かにざわめいているのを感じながら、私は有紗の言葉を反芻した。


『一度ステージに上がったら、緊張しようが怖かろうが、弾くしかないんだよ。だから、失敗なんて考えたってどうしようもないでしょ?』


 ああ、有紗の言うとおりだ。

やるしかないのだ、ここまできたならば。

逃げることはできない。諦める選択肢など初めからない。

───足がガクガクでも、ペダルは踏める。手が強張っていても、弾けないほどではない。


『───失敗した後悔も、観客にどう思われてるかも、終わってからぐだぐだと考えればいい。話聞いて、慰めるくらいなら私にもできるしね』


 今は、ピアノを弾くことだけを考えていよう。

そうしないと、ピアノに失礼だし───弾かれるピアノが可哀想だ。

 鍵盤に手を乗せた。弾き始めようとして、再び脳内に有紗の声が再生される。


『───琴音、深呼吸』


 声に従って深呼吸を繰り返すと、あれほど煩かった心臓の鼓動が嘘のように気にならなくなり、視界がクリアになった。

───有紗の声が、まるで魔法の言葉だったかのように。


 ピアノの音が流れ始める。

 この曲は、最初から最後までテンポが一定だ。速くなってしまう傾向にある私は、気を付けなければならない。だが、あまりテンポに囚われすぎてもいけない。表現が疎かになるからだ。

キツい音になってしまわぬように優しく、しかし聞こえなくなってはいけないため音を鳴らして。

二分弱の曲はあっという間に終わってしまった。

 二曲目は一曲目と違って、一定のテンポで弾くよりも多少の揺さぶりをかけたほうがいい。

ワルツは一拍目を強く、と言われたことを思い出す。

曲に乗って弾けるので、個人的に私はこちらのほうが好きだ。

トリルを美しく響かせる。トリルはあくまでも装飾だ。けれど、適当に弾いていいというわけではない。

 もはや観客の視線など欠片も気にならない。

今この世界には、私とピアノしか存在しない。そんな感覚が私を支配していた。

もっと深く。深く、一体となって───、


───我に返ると曲は終わっており、私は弾ききった状態のまま固まっていた。

慌てて立ち上がり、礼をすると拍手がホールに響き渡る。

 舞台袖に戻り、私は息をついた。ミスタッチもなかったし、今までで一番、弾いていて楽しかった。

二曲目は長いから、途中で止められるかとも思ったのだが、幸いなことにベルは鳴らされなかったようだった。

 全身の熱と心地良い疲労感に支配され、次の人の演奏が始まるのを感じながら、私はただただ自分の呼吸音に意識をかたむけていた。



***



 審査中のしぃんと静まり返った様子はどこへ消えたのか、掲示板のあたりに集まる人々はざわめいていた。もうすぐ結果が掲示されるのだから、それも当然のことだろう。かく言う私も、前々回までは落ち着かずに掲示板前をうろうろしていたものだ。

 結果が気になる、という気持ちもないわけではない。だが───さっきの演奏は今の私にできる最高の演奏だった。これで届かぬのならば、そのときは練習を重ねて再び出場するのみ。

そう考えてから、私は口の端に微笑を浮かべた。───あれだけ怖いと思っていたはずなのに、またコンクールに出ようと決めていることが何だかおかしかった。

 コンクールのスタッフ達が数枚の紙を抱えてやってきて、人が集まり始める。私はゆっくりと立ち上がり、そこに混ざった。

早く見なくとも結果発表は逃げていかないのだが、私が掲示板を見る前に先に誰かに結果を教えられてはたまらない。喜びも半減するというものである。

 スタッフがセロハンテープで紙の四隅をしっかりと留めると、途端に騒がしくなった。

歓声を上げて飛び跳ねる子もいれば、ぎゅっと服の裾を握りしめて俯く子もいる。私はその子達を横目に、中学生部門の掲示内容に目を通した。


『中学生部門予選通過者 演奏番号5番 佐々木悠里、7番 相川理那、11番 桜羽琴音……』


───予選通過だ。


 私の名前があったことに、驚きはない。純粋な嬉しさだけがあった。

 予選通過者には、本選への参加権が与えられる。数ヶ月後の本選に向けて、練習は一層大変なものになるはずだ。

練習だけでなく、本選は予選よりも大きなホールで行われる。上手い人達など山のように出てくるだろう。


でも、大丈夫だと胸を張って言える。


勘違いしないでほしい、自分を過大評価しているわけではない。相変わらず自信はないし、私のピアノスキルが本選で通用するのかも怪しい。

だけれど───今の私には、もう怯える気持ちはないのだから。


 結果を見たら審査員方からの講評が書かれた紙を受け取りにいかねばならないのだが、私は掲示板の前に立ったまま、手に提げた鞄を開けた。

譜面やら手袋やらが入ったピアノ専用の鞄から、小物を入れるためのポーチを取り出す。

ポーチのファスナーを開けると、入っていたのは有紗が下駄箱に入れておいてくれた紙切れだ。

私は折り畳まれた紙を右手でそっと包み込むと、囁いた。


「───ありがとう、有紗」


 本当に、長い付き合いの親友には頭が上がらない。

面と向かって言っても、きっと誤魔化されてしまうだろうけれど。


───今日あの演奏ができたのは、間違いなく有紗がくれた、魔法の言葉のおかげなのだから。



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