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第九話 逃げるための戦い

 ゴリラは拳を固く握りしめ走り出した。あの隆起する筋肉から繰り出されるパンチを受ければひとたまりもないのは、戦うことになれていない乾でもすぐに判断できた。だが、乾には相手を打ち負かすような体術も、強力な魔術を会得しているわけでもない。

 

 そこには圧倒的な力の差があるのはこの場に居た全員が理解している。それでも戦わなくてはならない。

 

 乾は心の中で舌打ちをした。出来ることは限られている。その中でしか戦えない自分の無力さを少し呪う。

 

 だが、何もできないわけじゃない。そうだ。俺にだって出来ることがあるはずだ。


 隣で山口は先程よりハイペースに地面に陣を書いていく。

 アスファルトの摩擦で彼の足は今も激痛を走り、それでも生き残るために人を書いているんだ。


 乾は魔術を発動するために意識を自分の心の中に向けた。



 ******************



 そこにはいつも目を背けていた醜い闇が渦巻く。この気持は何と名付ければいいのだろうか。

 不安?恐怖?それとも怒り?

 様々な感情が交わり、広大な黒い海となり、それは大波となり乾を飲み込んだ。

 水中の中はまるで瞳を閉じたときのように真っ暗で光を通さない。体には水中の浮遊感は無く、海底に押し付けるような重さが体を覆った。

 負の感情は、氷のように冷たく、炎の中のように熱い。

 

 息を吸いたくて水面を目指し藻掻くが、それに逆らうように体は奥へと沈んでいく。

 次第に自分が昇っているのか、沈んでいるのかわからなくなり、藻掻く手足を止めた。

 

 

 苦しい。だれか助けて。水面に連れてってくれ。

 心の中で叫んだ言葉は泡となり水面に向かっていく。

 

 そして聞こえたのは華の声。

 底から見えたのは華と見た暗がりの海。

 

 そうだ。華に会いたい。



 *****************



 「解!」


 乾は集中しその言葉を放った。


 イメージする物体を解いていく。それはこちらに向かって走ってくるゴリラの靴紐。丁寧に解けないように固く結ばれた靴紐は、まるで窮屈だったかのようにぎごちなく解けていった。そのことにゴリラは気づいていない。まさか俺が口にした呪文を、何かの脅しでも思ったのだろうか。間抜けな奴め。

 

 「溝渕、魔術が効いているぞ!」焦りが感じられる女性が叫ぶ声が聞こえた。先程の冷たい声とは似ても似つかないものだ。

 

 その声に反応したゴリラは咄嗟に声のする方向に振り向く。そのおかげで、靴紐を踏んでしまい体制を崩した。

 意図しない体の動きにゴリラの体は前のめりになって倒れていく。踏み出そうとした右足の靴紐を、左足がしっかりと抑えられている。


 倒れそうになった態勢を戻すために手をつく前に乾は動く。

 手は倒れそうな体を地面に付くためにガードはできない。尚且体は空中であるために動かない。動かせる足も封じた。

 

 ゴリラの目が合う。相手から目を離さないのは戦いなれている証拠なのだろう。

 その目の奥には怒りの感情が読めたが、同情すること無くそのがら空きの顎に膝蹴りをお見舞いする。

 

 

 ゴッという鈍い音ともに、顎の硬い骨が膝の筋肉を突き刺す。

 鋭い痛みが膝に走る。涙が出そうな痛みに堪え、顔を歪ませつつその膝を振り抜いた。

 

 男の体が宙に浮かぶ。普通の乾の力では無理だったが、脱出するときに描かれた強化の山口の魔術が役に立った。

 こればかしは山口に感謝をしなくては。


 どさりとゴリラの体が地面に転がる。

 頭から行ったようで、軽い脳震盪でも起こしたのか、すぐに立ち上がろうとしているのだがその動きはふらふらと覚束ない。


  

 「眠れ眠れ眠れ。優しい母の腕に抱かれ、揺られながら安らかに眠れ」


 直ぐ様乾は眠りの魔術を使い、その意識を刈り取った。

 人に使うために、呪文は長くなってしまうのだが、このようにフラフラの相手にしか効かないのだから不便なものだ。

 


 

 予想以上に容易く一人目を倒してしまったことに自分でも驚いた。

 顎を蹴り上げた右膝は痛みを残しているが、残りの一人も倒さなくてはいけない。

 

 乾の頭の中にあるのはただ華に会いたいという気持ちだけだ。


 少しばかり引きずるような形で相手に向かって歩いていく。

 眼鏡の方は女性のそばから離れようとしていなかったようで、慌てて戦闘の態勢を取るが、その姿は乾と同じように戦い慣れしていない不格好なものだった。

 

 なるほど、ゴリラが相手を打ちのめし、眼鏡が女性を守るという役割なのか。

 


 「山口、残りどのくらいだ?」

 「あと少しだ。30秒もあれば事足りる」

 

 少し視線を山口の方に向けると、先程の倍以上の大きさの陣が描かれていた。

 一体こいつは何をするつもりなのだろうか?乾にはさっぱりだ。


 

 だがその山口の言葉を聞き、女性は言う。その声は先程ゴリラに向けたものとは異なり落ち着いた様子であった。


 「いえ、それは完成しない。上原、こちらから見て陣の7時の方向、太陽を消して」

 「承知」



 乾には何を言ったのか理解できない。

 七時の方向の太陽?一体何だ?何かを暗示しているのか。


 「乾、阻止しろ!!!!!」後ろにいる山口が叫ぶ。

 一体何を阻止しろと?と疑問を持ち相手を睨む。



 眼鏡はただこちらに手のひらを向けるだけで何もしていない用に見えた。

 「いいから早くしろ!!」

 追い打ちのように山口は叫ぶ。

 

 何が何だかはわからないが、眼鏡に向かって走り出した。

 この距離なら魔術を使うより、体を動かすほうが速く、ダメージが大きい。

 

 右足を踏み出すたびにズキンと膝が痛む。それを堪えて地面を蹴った。


 

 「間に合わない」眼鏡の男が抑揚の無い声で言明する。

 だがその胸に向かってドロップキックを繰り出す。勢いを殺さずに飛んだ乾の体は、勢いそのままに眼鏡の胸に直撃した。

 二人でもつれ合うように態勢を崩しコンクリートの地面に体を叩きつけられる。



 「山口間に合ったかッ!!」乾は大声で確認する。

 速く立ち上がり、眼鏡の上に乗りかかり、一発その無防備な顔を殴る。

 拳に生暖かい人の体温、そして頬の硬い骨の感覚が痛みとなって伝わる。決して気持ちの良いものではなかった。

 眼鏡は弾け飛び、コンクリートの上を滑るように転がる。


 山口の返事はない。なぜだ。

 目の前で殴られた眼鏡は、その表情を歪めた。


 「君は遅かった」その言葉が聞こえた瞬間、乾は全てを理解した。

 何が遅かったのか。なぜ山口が返事をしないのか。そして女性が眼鏡に言ったことが。


 全てを見通す魔眼。それは魔法陣の欠点すら見通してしまう。

 その魔法陣の構築で出てしまう重大な欠陥を突かれてしまったのだ。

 

 「これでお前らの負けだ」ヘラヘラと笑う男にムカついて、その顔に拳を殴り込む。

 「だからどうした!?ここでお前を倒してしまえばこの女ひとり。こっちの勝ちだ」


 意識を刈り取ろうと、いやほんの少し殺意があった。その拳でもう一度殴ろうとする。

 だが大きく振りかぶった時点で乾の拳はなにか大きな硬いものに包まれて動かなくなった。


 反射的に振り返る。その直後に頬に衝撃が走り、体はコンクリートに叩きつけられた。

 目を開く。そこには先程倒したはずのゴリラがいた。

 

 視線を動かす。山口は地面に倒れ込んでおり、ゴリラが寝ていた場所には女性が立っていた。

 そうか。寝ていたゴリラの魔術を女性が解き、その後山口を倒してから来たのか。


 だから返事がなかった。


 「さっきはやってくれたじゃねぇか」

 ゴリラは怒りを露わにしたまま肩を慣らすかのように動かし近づいてくる。その姿はまるで猛獣だと思った。

 

 乾はその恐怖で立ち上がることもできずに、地面を這いずるように逃げようとした。足は空回り、無様に地面を這いずる。

 後ろでゴリラが大笑いしているのも気にせず、必死に逃げる。だがすぐに体を捕まれ、もう一度その巨大な拳を顔面で受ける。

 バキッという音が頭蓋骨の中で響いた。一体どこの骨が折れたのかはわからないが、鼻の奥から熱い液体が溢れ出した。

 

 ゴリラは容赦なく乾を殴った。

 教祖である女性の前で恥をかかされたこと、膝蹴りを食らったこと、そして一番に敵対したこと。

 様々な理由によりゴリラの暴力が炸裂する。

 顔面だけでない。脇腹、顎と急所だけでなく、ボディにも右ストレートが入る。

 

 意識が無くならないのは何かの魔術のせいか?

 無限に続くような痛みの中、乾は目を閉じた。

 何度体の中で骨が折れる音が鳴り響いたかわからない。

 ゴリラは止まること無く殴り続ける。その表情は恍惚としたものに変わっていくのが見て取れた。


 喜んでいるのだ、こいつは。

 拳を伝って感じる骨の折れる感触を、肉体をえぐる感触を。そしてその度に苦痛を浮かべる俺の表情を。

 

 ふつふつとした怒りが湧いてくる。

 なんとか抵抗しようと力を淹れ、相手の顔面をめがけ殴ろうとするが、拳はゴリラの手のひらに包み込まれた。


 さらにゴリラの表情が歪む。

 「そうか。この拳を砕いて欲しいのか」

 「あ、ああ.......」相手のすることを理解して辞めてくれと頼もうとするが、恐怖に支配されて言葉が出てこない。


 「そうかそうか!」

 ゴリラはわざとらしく徐々に拳を握る力を強めていく。初めは中指、次に人差し指と骨が砕かれていく。脳を直接ハンマーで殴られているのかのような激痛が走った。

 

 「あああああああああああ!!」

 乾の叫びを喜ぶようにゴリラは下品な笑い声を挙げた。


 粉々に骨が砕かれていく。

 骨が肉を内側から突き刺し、肉は皮膚から弾け飛ぶように地面に落ちていく。

 ゴリラはその血の感触を楽しむかのように握り続け、ついでに手首まで折ると満足げに乾を地面に叩きつけた。

 

 体はワンバンドしコンクリートに着地した。

 乾にはもうどこが怪我をして無く、痛みがないのか判別できないようになっていた。

 まるで熱湯に浸けられているような熱が体を包んでる。


 倒れたまま動く事はできない。仰向けになった体にゴリラの足がめり込む。

 

 「これが神様に逆らった天罰ってもんだ」ゴリラは自分の力に酔うように話し出す。「何もできないくせに逆らうからこうなるんだ。粋がって俺をあんな目に遭わしていなかったら、拳一発か、戦意をなくすぐらいにほどほどに殴ってやったのに。あんなことをするからこうやって身体中の骨を折られ、痛みで涙を流さなくちゃいけなくなるんだ。まあその御蔭で俺はこうやって楽しい思いができたんだがな」

 

 さらに体を踏む足に力を入れようとしたとき、女性が止めた。

 「溝渕、それ以上やれば死んじゃう」

 「しかし、殺すおつもりでしょう?ならいいじゃないですか」ゴリラは足をのけながら言い返した。


 「でもこれで気持ちが変わるかもしれない」女性はゴリラから目線を話すと、座り込み虚ろな目をしている乾に話しかける。「これで敵対しないほうが身のためだということがわかったでしょ。もう二度とこういう目に会いたくなかったら潔く私達の組織に入りなさい」


 乾はその声は聞き取ることができたが、返事をすることができなかった。

 そのことを理解しているのか、それとも返事を必要としていないのかはわからないがまだ女性は話し続ける。


 「貴方たちの荷物は返すわ。それに適度に上原に回復させるからその怪我は多少はマシになっているかも」



 そして最後に乾の耳元に囁いた。


 「私に逆らえば貴方の大切な彼女に手を出す」


 その言葉に残っていた最後の気力を使い、握りつぶされた拳とは反対の左手を使い殴ろうとした。

 だがゴリラが乾を蹴り飛ばし宙に浮く。そして地面に叩きつけられ乾は意識を失った。



 なんて、俺は無力なんだ......。

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