第六話 拉致監禁、大脱走
バイトの帰り道。相変わらず飲んだくれている人を眺めながら歩く。
春の香りというのかな、冬にはなかった暖かく花の香のようなものが漂っていることに乾が気が付いた。
華との遊園地のときもそういえばこんな暖かさで、こんな香りがしていたっけ。ぼんやりと余韻に浸っていた。イヤホンから流れるラブソングが更にその余韻を心地よいものにした。
気がつけば周りには人の姿が見えなくなっていた。あれほど人気の多かったこの道に、飲んだくれも、疲れたスーツもいなくなっている。周りには提灯の暖かな光、微かに香るおでんの汁。まるで今まで居た人たちがまるごと消えてしまったかのようだった。
嫌な予感がした。イヤホンを耳から外し、ポケットにしまう。
乾の頭の中は坂下の話していた宗教の話が過る。もしや宗教の人間が?しかし周りを見渡してみても何処にも人影がない。これは人払いをしている場所に入り込んでしまったのでは? いくつも可能性が頭の中に浮かんでくる。だがどれも良い結末には至らないため、乾はすぐに来た道を戻ることに決めた。走り出す。
しかし走っても走っても人の姿はなかった。息を整えるため、立ち止まり大きく息を吸う。
坂下のいる月夜の導きに戻ったが、店も誰もない。もう一杯と坂下が淹れたのだろう紅茶はまだ温かいのか湯気が昇っている。慌てて倉庫も見てみるが、そこには掃除をされてきれいになった道具などが並んでいるだけであった。
「くそ、どうなってるんだ」乾の声はすぐに消えていく。誰も返事をすることはなく、誰にも届くこともなく。
倉庫の窓から見える景色にも人は映ることはなく、車も走っていない。見えるのは時間によって汚れてしまった街だけだ。
まるで世界から自分一人だけ置き去りにされたような気がした。一生このままなのかもしれないと思うと、堪えきれない孤独感が乾を襲う。華にも会えない。もちろん山口にも、今朝話した錦にも。きっと彼らからしたら突然行方不明になったぐらいなのだろう。時間が立てばだんだん記憶から薄れていき、最後には俺の存在は消え去るのかもしれない。何もかも。
なら死んでしまったほうがいいのでは。
ここは4階。飛び降りれば確実とは言えないが、頭から行けば頭蓋骨は砕け散り、そこから脳が血とともにコンクリートを汚すだろう。
誰も居ない世界を生きるなら。思考は誘導されていくように死へと導いていく。
窓を開け、下を見る。春の香りが体を包み、さあおいでと言わんばかりに俺の身体を誘う。
乾は風の言うままに、目をつぶり、身を投げだした。
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乾は目を覚ました。しかもコンクリートにぶつかり、脳が飛び散った風景を俯瞰するかのように夢を見ていたため、起きた今すぐになぜこんなことをしようと考えたのだろうと恐ろしくなった。服には汗が滲み、息は荒くなっている。すこぶる気分が悪い。
目を開く、が、どうやら何かで隠されているようで前が全く見えない。口にはタオルを噛まされているようで喋れない。手足はなにかに縛られているようで動けない......??
(完璧にこれは監禁されているじゃねぇか)
なんでだ、何でだ。
最後に記憶があるのはバイトから帰るまで。その間に拉致されたのか?それなら捕まる瞬間とかの記憶があるだろう。なら何かの薬やら魔術で眠らされたのか。ならなぜ俺が?理由なら、思い当たるのは一つ。坂下が言っていた教祖、ってやつに会ったってことだろう。
この日本という国で、このように監禁するという経験をする人間はまず居ないだろう。そういう仕事をしている人とかならあるかもしれないが。
どっきりなのかもしれないな、なんて乾の思考は停止していた。
音はなにも聞こえないが、風が吹いていないため室内なのだろう。寒くも暖かくもない。だが窓が締め切っているために湿度が高く、何より汗が染み付いた服が気持ち悪い。何か異臭がする。生ゴミが腐ったかのような、そんな感じの匂いだ。全く周りの状況をつかめることができなかった。
目隠しを想像する。きつく締められているため、動かしたところでずれたりすることはないだろう。
後ろの結び目を意識する。ほどかれないようにするために固結びをされているのだろうが、関係ない。
(解)
そう、心の中で呟いた。
衣擦れのような音を立てながら目隠しが落ちていく。そしてやっと見えた光景に乾は度肝を抜かれる。
部屋は明かりがついておらず、窓にはカーテンが締められているため窓から差し込んでくる月明かりが眩しかった。
月明かりによって微かに周りの部屋が浮かび上がる。
殺風景な部屋。辺りには掃除がされていないのか、汚れのような黒が様々なところにこびりついている。それが血だということに気付くのは時間がかからなかった。まあそうだろう、こんなところに監禁されて何事もなく出れるはずがない。自分の手や足の爪を剥ぎ取られていないところを見るに、まだ来るだろうと思われる拷問は未だのようだ。
何もなく、乾が座っている椅子に向かうようにして同じように人が座っていた。
すぐにそれが誰なのか分かる。長い髪の毛を女のようにポニーテールにし、鼻にはちょこんと不必要に見える小さな眼鏡が乗っていた。
話すために口のタオルも解く。きっと拷問をしようとしたのは解くのに何かしらの道具やら必要になるぐらいの知識がない一般人だろう。
そして次に意識を目の前の相手に集中させる。同じように目隠しと口のタオルを外す。相手はどうやら外れたことに驚いていたが、こちらを見たらすぐに、いつものようにニヤついた。
「山口こんなところにいたのか」
「好きでいるように見えるか?」枯れた声で山口は答えた。
その椅子の下には血溜まりができており、拷問によって枯れてしまったのだろう。可哀想に。
「もうすぐ単位がやばかったんじゃなかったか?」
「そうだっけな。けっ、俺の魔術探偵の道に汚点をつけてしまうところだったぜ」
「んでお前はなんでいるんだ?」
「おまえこそってまあ、この話はいい。とりあえず逃げようぜ。話はそれからだ」
乾は頷き、束縛するものを外し始めた。
魔術は得意ではないが、このぐらいはコツ次第でどうにでもなるものだ。
外したのは良いが、爪は残っていないため歩くたび激痛に苦悶の表情を浮かべる山口。これでは逃げられないと判断し、乾は山口を背負う。
「すまないな」山口はそう言うが、仕方がないことだろう。
カーテンを開け、外を見る。
どこかはわからないが、相当な高さがあった。ドアは締められてはいないものの、だれかと遭遇するという危険性が会ったため辞めた。
窓に足をかける。幸い飛び移れそうな高さの建物があったが、確実に怪我をするだろう。
ふと、ここに連れられてくるまでに見ていた悪夢を思い出す。このまま俺は頭をうち、脳を飛び散らせ死んでしまうのだろうか。
頭を横に降る。余計なことを考えるな。
「山口、頼む」
「おうよ」
山口の右手が乾の首筋に当たる。血で何かを書いているのだろうが、乾には何を書いているのかわからない。書き終わったのか山口の手が止まる。
「いいか、乾。この記号はケガ防止だ。骨折は防げるかもしれないが、着地するときは絶対に転がって衝撃を逃がせよ。なんせ魔術は万能ではない」
「あいよ」
この場から逃げれることが嬉しいのか、それともこの状況を楽しんでいるのか山口の舌が回り始める。
「こうなったのはもとを辿れば乾、お前のせいだから治ったら焼き肉をおごれよ。そうだな、値段が高くってなかなか行けないあそこにしようか。あそこのタン塩がどうにもうまいらしい。わかったか乾、お前のおごりだぞ、金を払うんだぞ」
「舌をかんだらいけないから黙ってろ」
山口が乾の掴む力が強くなる。これでは重心的にはどうなのだろうかとは疑問に思うが、そこは運だろうと窓を蹴り飛び降りた。
風が乾と山口を包み込む。春風と共に。誰も見ていないこの夜の空を飛ぶ。なぜか脱出と言うだけなのに、まるでこれまでと違う世界へと飛び込むような、そんな気がした。満月が地上を照らす。
道路は挟んでいなかったため、飛ぶというより落下のほうが近かったが、近づいてくる地面にタイミングを合わせ、着地をし横へと転がった。激しい衝撃が身体を走るが、転がることによって少しだけ和らいだ。魔術と転がってなかったら確実に折れているな。
転がる山口が捕まっていた腕が乾の身体から離れ、滑っていった。
「山口だいじょうぶか」
「あったりまえよ。それよりもう一回降りるぞ」
「わかっている」
そうしてあと二回、飛び降り、ようやく地上へと降り立った。
先程まで監禁されていた部屋に明かりがついた。そこから叫ぶ声が聞こえる。
「おい、早くずらかるぞ」背負われているというのに命令するように山口が言う。
「わかってるって」
衝撃が未だ残っている身体に鞭をうち、走り出した。スマホは取り上げられているようで、地図はなかったが、とにかくこの場から逃げるように走り出した。
まったく、どうなっているんだ。乾は舌打ちをし、息を弾ませながら走った。