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第十話 幻聴

 目を覚ませば、乾の目の前にはいつもの天井があった。 

 前に住んでいた人が煙草を吸っていたせいかあちらこちらにヤニの黒々とした汚れが浮かんでおり、どこか人の顔のような模様が浮かんでいる。外からは温かい日差しがカーテンの隙間から差し込む。


 乾の頭の中では眠る前の記憶がぐるぐると巡っていた。

 思い出す記憶は、まるで悪い夢だったかのように鮮明さを失い、痛みは記憶へと変わっていた。

 だが、起き上がろうとし、右手をベッドに付いたときに激痛が走った。

 

 「痛っ!!」


 反射的に右手を離したために、乾の体は一瞬中に浮かび、再びベッドに戻る。マットレスが乾を優しく受け止めるが、それでも打撲のような痛みが襲う。


 悶絶しながら自分の目を砕かれた右拳に向ける。しかしそこには何一つ怪我していない綺麗な手があった。

 握ろうとしてみるが、少し動かそうとするだけで痛みがある。どうやら外見だけは直されているようで、その中身は粉々のままのように思える。これはまるでソーセージのようだ。中は粉々だが皮膚で形が整えられているかのよう。

 

 夢じゃなかったのか。


 痛みが全ての出来事を、思い出させてくる。今思い出せばふつふつとした怒りよりも、相手に対する恐怖が体を震えた。

 拳が近づいてくる視界、肉体にめり込んでくる痛み、耳に響く下卑た笑い声。

 思い出すだけで痛みや恐怖が蘇える。目をつぶれば殴られるような感触が刻まれてくることにより、いつか殴られるのではないかと危惧してしまう。



 もう一度布団の中に潜り目を閉じる。それでも痛みが和らぐことはなく、暗闇からあの大きな拳がいつ飛び出てくるのかと恐ろしくなり、また布団から出る。何をやっていうのか自分でもわからなくなってきた。

 

 いつもでは何とも考えずに出れたベッドから出れない。自分の部屋でさえ、まるで牢獄のような冷たさを感じた。

 まるでどこにも逃げ場がなく、監視されているかのようだ。

 

 短くスマホが通知を鳴らす。その音だけで乾は心臓が飛び跳ねる。


 ただ、スマホがなっただけじゃあないか。そう乾は自分に言い聞かせその画面を見た。

 表示されていたのは、多くの華からのメッセージだった。

 週末買い物に付き合ってくれない?から始まり、既読がつかないことに心配しはじめたのか、大丈夫?や本当に大丈夫?とメッセージが並んでいた。

 

 そして何より驚いたのは、あの夜の日から3日過ぎていたことだ。

 中には錦からのメッセージもあり、意外にも自分が心配されていたことに少しばかし喜びを感じるのだが、すぐに左手で文字を打ち込んでいく。


 華には「ごめん、ちょっといろいろあって返信できなかった。買い物の件、少し無理そう」と文字を打ち込んでいく。

 

 最後の誘いを断るのには何度もためらったが、外には出れそうではなかった。また誘ってとは打ち込んだものの、胸の中に小さなトゲが刺さったかのような痛みがした。


 

 それを忘れるかのように瞼を閉じる。

 三日間寝ていたというのに食欲はなく、ただ起こったことが全て夢であればいいのにと眠りたかった。

 布団の温もりが嫌なことから全て守ってくれるような気がした。忘れさせてくれるような気がした。


 「死ぬつもりか」

 どこからか声がした。低く唸るような声は打ちのめされたゴリラににも似たものであったが、それには恐怖は感じず、どこか昔から慣れ親しんだような印象を持った。声はまだ続く。


 「生きることを放棄するということは、死ぬということと同じだ。どんなに辛くても、な」

 「死ぬも何も寝ようとしているだけじゃないか」乾は目を瞑ったまま言った。


 夢でも見ている気分であった。いや、部屋に誰かがいるはずはない。夢のはず。

 それなのにその声は話しかけてくる。この声の主は知っている気がするが、思い出せそうになかった。



 「ずっとお前はそのまま眠ろうとしているつもりなのだろう?見たくないものから目を背け、自分の殻の中に引きこもっていたい、そう以前にもしたように」

 「うるさいな。いい加減寝させてくれよ」乾はそう言いつつも、何かと離している内にだんだんと目が覚めていっていた。「以前ってお前は何と勘違いしているんだ」


 「お前は感じないのか?このずたずたにやられて、そして恋人にすら盾にされて、ふつふつと燃える怒りは無いのか?」

 「あると言えばある。でもそれ以上に怖いんだ」


 自分で言って驚く。知り合ってもいない相手にこれほど素直に話しているなんて。

 知らない相手こそ素直になれたのだろうか。

 

 「怖いだと?」

 「そう、怖い。殴られるのは痛いし、恋人が殺されるのはもっと怖い」


 最後に教祖が言ったことは、華をちらつかせて、脅しているようなものであった。

 それが一番乾には堪えた。自分だけであればいいものを、全く魔術にも精通していない華を出されてしまえばこちらに拒否権がないといっても過言ではない。

 力さえあれば、組織を壊滅して、華も助けるということができただろうに。


 「力ならあるじゃないか」

 「魔術は使えない。相手を殴る力もない」 

 「それが力がないというのか?」声は嘲笑うように言う。「力がなければお前は恋人すら守ろうと覚悟できないのか?」


 その言葉はまっすぐ乾の心を貫いた。

 華が巻き込まれないようにと言いつつ、俺は見捨てていたのか?俺が逃げる理由にしていたのか?


 「なら俺はどうすればいい」


 その声は虚空に消えて、返事はなかった。


 


 目を開き、声のしていた場所をみるが何も、誰も居ない。

 どうやら俺は頭をぶつけた際におかしくなってしまったのだろうか。それとも倒れたあとになにか幻聴がするような薬でも飲まされたのか?


 だがその声ははっきり乾の中に残っている。

 まだ怖い、怖いが謎の声に導かれるように痛む体を起こし、ベッドから出る。

 そして冷蔵庫に入っていた食材を手にとった。



 *****************



 食事を終え、久しぶりにものを入れたため重たくなった胃に満足感を覚えながら皿を洗う。その間、幻聴に言われたことを考えた。



 俺には一体何が出来るのだろうか。

 力がなければ何もできないのかとは言われたが、何も考えず相手に突っ込んでいくのは無謀そのものだ。

 だが、何が一体あるというのか。


 この痛む体は言うことは聞かないし、魔術は相手を倒すような強力なものは使えない。使えたとしても小技程度のものだ。


 これこそ使いものにならない戦力。


 

 家のチャイムが鳴った。

 驚きで慌てて皿を落としてしまうが、そんなことどうでもいいようにチャイムはなり続ける。

 床で割れてしまった皿の残骸をどうしようかと迷っている乾を急かすかのようにチャイムと同時にドアを叩くような音が響き始めた。

 まるで借金の取り立てのようではないか。

 

 玄関の魚卵レンズを除くと、そこにはゴリラが居た。全身に悪寒が走る。

 魚卵越しに目が合う。相手に見みえているのだろうか、にやりと顔を歪めた。

 

 「はよ開けろや。このドアを壊してもいいんだぞ」という怒号を聞き、慌ててドアを開ける。

 

 さっきまで幻聴によって覚悟を決めたというのに、早々に恐怖に屈服している自分が情けなかった。

 

 「教祖様がお呼びだ。さっさと行くぞ」


 拒否は許さないとでも言いたげに拳を鳴らすゴリラに頷き、電気を消しスマホだけを手にして従うように付いていった。


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