ただの回想と追憶。そして捧ぐ。
「――しっかし、先輩から誘われるなんてさ。よくよく考えると珍しいよね」
俺の隣で、夏海が何杯目かのロックをちびり、口にしながら、いまさらな事を切り出してきた。
「……そうか?」
俺はそんな問いに、誘った時のちょっとした気恥ずかしさを思いだし、そして誤魔化すように、グラスに口をつける。
金曜日、夜の居酒屋は人で溢れかえっていた。
会社帰りに後輩の夏海を誘い、込み合う中、どうにか無理やりカウンターの端に二人で収まったのがかれこれ三時間前だろうか。普通なら追い出されても仕方がない頃合いだが、そこは常連の強み。店の親父さんは何も言わず、俺たちをそのまま置いておいてくれた。
「そうですよ。だいたいね、ここのお店最初に教えたのだって私だし。それに、誘わないといっつも先に帰っちゃうじゃないですか」
「そりゃ、仕事終われば帰るだろ。別にお前の事待って仕事してる訳じゃないし、そうそう飲みにつれてかれてたまるかよ」
無論酒は嫌いじゃないが、夏海のように、毎晩毎晩飲み仲間を探すような飲んべえでもないし。それに、彼女でもない後輩を待つ理由なんて、普通あるはずもない。
「はー、先輩も今どきの若者かぁ。先輩は飲みニケーションの重要性を判ってないのよ」
そういう夏海こそが今時の、って単語にふさわしい歳だと思うのだが、言ってる事はかけ離れてる。
「おっさんくさいぞ、何が今どきの若者だ。それに、お前のは飲みニケーションっていうか、暑苦しいんだよ」
「はぁ? 誰の何が?」と不満げな顔をして、ずずいっとこちらのパーソナルスペースに寄り添ってくるまさに今の事を言ってるのだが、どうにも彼女には伝わりそうもない。
「そもそもですよ。ベタつかない飲みなんて何が楽しいのよって話。普段言えないような事もいっちゃってさ。それで明日には綺麗さっぱり忘れてるっていうのがいいんじゃない――親父さーん。氷追加ねー」
そういって、夏海はぐいっと焼酎を煽る。
カウンター越しの親父さんが、氷とともに空いたボトルを片付けては、こちらの意思を確認することもなく、手際よく新たなボトルを追加してくるものだから、もはや何本カラにしたのかもよく判らない。
まあ、その回転の良さが、何も言わずに置いてくれている理由なのかも知れない。
夏海は俺のグラスをひょいと回収すると、手慣れた手つきで焼酎のロックを作り始めた。
「だから、自分のくらい自分で作るってのに」
「だから、駄目ですって。先輩、作るの雑だし。焼酎の味が落ちるの勿体無いし」
夏海の、回数で味に違いがでると聞いたステアにも見慣れたものだ。
飲んべえらしいこだわりだと思った。
「それに、これは先輩を思ってじゃなくて、焼酎と、あとは自分の為なんですから」
「自分の為?」
「ほら、甲斐甲斐しく世話してる姿にころりとくる男って案外多いんですから。チョロいよね~」
そういって、にこやかに「はいどうぞ」と焼酎のグラスを両手で渡してきた。
それでコロリといくかは別として、まあ、確かに夏海の見た目は可愛いのだろう。美人というより、可愛いというのがしっくりくる顔立ちだ。だが、彼女に限らず、俺は仕事仲間をそういった目で見たことがないから、いまいちピンと来ないのだが。
「……良かったな、チョロくなくて」
だから、それはまったくの本心だった。
「あ、それはお構いなく。だから自分の為って言ったでしょ。一事が万事、凡事徹底ってやつなのよ。どこかで気を抜くと、いざってときでも気を抜いちゃうもんだからね。それに、先輩となんて、きっと――」
そういってから夏海は、急に真顔でこちらをじっと見つめてから、
――盛大に吹き出した。
「ぷはっははははは! わ――笑っちゃってキスもできないと思うし! あははははは!」
「おっおい! 声大きいって!」
喧騒の中でも目立つ笑い声に、店中の視線がこちらに集まった。
軽く周りに頭を下げる頃には皆興味を失って元の様に戻っていたが、内容が内容なだけに、いくら酔っ払っているとはいっても恥ずかしい事この上ない。
「……そんな恥ずかしい事言えるお前に、酒を借りなきゃ言えないことなんかあるのかよ」
だから、焼酎を煽りながら、話題をすり替えた。
「……んー、そりゃあ――。」
だけど夏海は打って変わって、なんだか微妙な返事をしながら、今度は空いた自分のグラスに新しくロックを作ると、マドラーでステアを数回。カラカラと氷を弄ぶかのように鳴らした。
そして、ゆっくりと、一口グラスを傾ける。
「それさ。先輩の話じゃないの?」
「何が。俺はちゃんと社会人として分別をだな――」
「そうじゃなくてさ……普段言えないような事もいっちゃってって話よ。言いにくいこと、あるんじゃないの?」
だから誘ってきたんでしょ、と夏海は、グラスの氷をカラカラと回しながら、つぶやくように言った。
「……いまさら、ズバリ言われるとそれはそれで困るんだが」
「先輩が切り出さないからでしょうに。もうかれこれ何時よ……いくら私でも、さすがに場のタイミングっていうか、切り出しにくい雰囲気を読むくらい出来るって事、わかって欲しかったんだけど」
見透かされていた事と、後輩に気遣われていた事が少し恥ずかしかった。
「あー……すまん。夏海と飲んでたらやっぱり、楽しくってな。まあ、そうしたくて声かけたんだから、目的も達したような気もしてたし――感謝」
それから、軽くグラスで、二人乾杯をする。
そんな、男友達とするような気安さが心地よかった。
「ん。――で? それで? こっちは誘われてから数時間、何系の話か脳内会議フル回転だったんだから。どのアジェンダが来ても報告出来るくらいには準備万端なんだからさ」
目を爛々と輝かせ、こちらを食いつくように見つめる夏海は、先程の若干しおらしげな雰囲気はどこへやら、だ。
「恋愛? 痴情のもつれ? 別れ話? 出会い系? 美人局? どのへんの話なの?」
全部、そっち系か。どんな脳内会議なのやら。
どうやら先程の答えだけでは許してくれそうもない。
まあ、いいか。そもそも、話をしたくて誘ったのは自分なのだから。
「お前の脳内はお花が咲いてそうで何よりだ。でもまあ、その中だと恋愛、が近いかな」
「え。まじですか!? ホントに恋愛ネタだったんだ……意外……」
夏海の驚きも当然だろう。
今までそんな会話をしたことないし、俺はそういった類はそんなに関心が無い方だ。でも、それは他人の話に、であって、自分の事なら……話そうと思えばそれなりに話題はあるのだ。
「でも、落ちもない話だぞ? ドラマチックでもないし」
ただ、今日これからの話は、それらとはちょっと違う。
「大丈夫大丈夫、ドラマのない恋愛なんて世の中にないんだから!」
口の割には明らかにドラマを期待した前のめり感が心配だ。
「いや、ホントに平凡な話。正直、自分でも整理がついてない話なんだ。面白い話じゃないし、超展開があるわけじゃない。それでもか?」
「くどいって。飲みが足りないんじゃないの? 日本酒行っとく? 香住鶴? 乾坤一?」
夏海が手を上げようとするのを慌ててとめる。
「親父さんが、嬉々として高いの持ってきそうだから止めてくれ……」
カウンターの向うで、寂しそうに一升瓶から手を引っ込める親父さんが見えた。
………。
「今日、メールがあったんだ。高校の昔なじみから」
店の喧騒も引き始めた頃、流れるBGMに初めて気がついた。その懐メロが、当時の空気さえ連れてくるような、そんな中で、少しづつ、話し始める。
「今どきメールってのがまたあれね」
「ま、つまりはID交換する程の仲じゃないって事だ。知り合いかな。――いや、女の子じゃない。男ね。最初はそいつの文章読んでも良く意味がわからなくて。主語が無いんだよ、そいつの文章」
「あー、そういう人いるよね。会社にも。米田さんとか」
「そうそう、あんな感じ。で。そのメールに、俺が高校の頃に付き合っていた彼女の名前があって。今更なんだろうと思った」
「へえ? 結婚の招待とか?」
「……まあ、だとしても高校の頃だから、今更なんだろうって話なんだけど。とにかく、久しぶりに彼女の名前をみたら色々思い出しちゃって。それで……今日、お前と飲みたくなったって訳だ」
「はいっ? ちょっとちょっと、それだけ? 話ショートカットしすぎじゃない? 私がその彼女に似てたから、とか言い出したらはっ倒しますよ?」
夏海がグーをしてこちらを睨む。
「まさか。全然似ても似つかない。もっとおとなしくて、優しい、線の細い子だったさ」
そうだ。彼女は、透き通るような肌をした、儚げな女の子だった。
「それはそれでなんか頭にくるけど」
「……今日の今日まで思い出すことなんて、本当になかったんだ。でも、その名前を見ると、いざ思い出すと、もうなんていうか、走馬灯というか。あの時もらったブルーの便箋、クラスで交わした言葉、見に行った映画……ああ、あれはホントつまらなかった」
そう。少しカッコつけて、フランス映画なんて見に行ったんだ。たしか遠距離恋愛の話だ。
あの時、彼女は喜んでくれたんだろうか。
「それから――高校卒業する時に、そのタイミングで別れたんだけど、その時は別れる深い理由も別にこちらにはなくって。楽しかったんだけど、付き合うって事に憧れてたみたいな所もあって、割とあっさり……始まりに理由は無いけど、終わりには理由がある、なんて言うけど、それとは全然違って、始まりにも終わりにもあまり理由みたいなものは無くてね。だから『お互いまた元気でな』ってくらい軽いノリでさよならしたんだ」
「……先輩らしいっちゃらしいですね。笑っちゃうくらい」
「そんなのってありふれた話だろう? その時には特別でも、時間も立てばお互いそれは、いくつかの出会いの一つでしか無くなっていくだろうし。別れてからも思って欲しい、なんてエゴイストっぽい事考えてもなかったし、当然向こうもそうだと思った……いや、こちらはそんなことすら今日まで思ってもいなかった訳でさ」
やや、まどろみながら、タバコに火をつける。
思えば、タバコを吸い出したのもその頃だった。あれもカッコつけで、一箱買っては、二、三本も吸えないで湿気たもんだっけ。
あの時、タバコを吸う俺を見て、彼女は何を言っただろうか。
いざ思い出してみても、思い返さなかった自分には、もう判らない。
「……だからさ、そんな俺の事を気にしてるなんて、考えてもなかった」
「彼女は、違った?」
「判らない……うぬぼれたくないし、俺はそんな大層なやつじゃない事も判ってる。でも、なんだろう。俺は思い出したんだよ。でも、彼女は……思い出したんじゃない。覚えていたんだって」
こちらを向くでもなく、茶化でもなく、夏海はグラスを傾けている。
「……それでノスタルジーって訳ね」
過ぎ去った時間を懐かしむ、か。
どちらかというと、過ぎ去ってしまった事に今気づいたという方がしっくりくる。
「そう、でもどちらかといえば……追憶だな。高校のやつからのメールは、メールの書けない彼女に代わっての伝言だった。でも俺はそんな彼女の事は完全に忘れてて。でも、それも仕方がない。恋したのが本気じゃなかったわけじゃない。でも、でも――」
「……」
「――最後に『ありがとう』って伝えて欲しいなんて言われる人間じゃ、俺は無くてさ」
「そっか。彼女……」
「……うん。5月に、亡くなったそうだ。お通夜と葬儀はもう終わったってさ。癌だったそうだよ。周りのやつは俺に連絡を取ろうとしてくれたみたいだけど、彼女が拒否したって。それで伝言だけ。何を思っていてくれたのか、答えはないし、考えても判らない――」
そういってから俺は焼酎のロック……すでに氷が溶けて水割りになってしまったグラスを一気に煽った。
「どう、なにがありがとうだったのか……ただ、それだけの話。元の彼氏面して何かをするには時間が立ちすぎてる昔馴染み。今まで忘れていた、昔の彼女。彼女が思い出させてくれた記憶。でもそれを語る相手はいない。まあそれだけの事なんだ」
これだけ口に出しても、はっきりしない、朧気な形の思い。もやもやとした思い。
なにをか分かって欲しい訳じゃない。自分でもよくわからないのだから。
ただ、誰かにこのもやもやを聞いて欲しかった。
「……それじゃないの?」
「何が?」
「だからさ。彼女はそうやって、先輩に思い出して欲しかったんじゃない? 私の事を覚えていてくれるかな。覚えていて欲しいなって思ったって事」
「都合良すぎないか、その解釈」
「うん。そうかも。でもさ、事実そうなったんだし。このタイミングがなかったら、先輩が彼女のことを思い出す機会なんて無かったんじゃない?」
「そうかもしれないけど」
「……男と女ってさ、ホント面倒よね。だってそれが男同士、女同士だったら? 昔の親友だったらどう? お互いそんな気遣いめいた事なんて無くって、そもそも別れやなんだってのも無かったかもしれない。単純に、思うままの惜別の時を迎えられたかもしれない。でも、女だから、彼氏だったからこそ、きっと……そのまま、さっき先輩が思い出した、あの時の姿のままでいたいだなんて思ってしまう。言葉に何かしらの答えを見つけようとしてしまう。私も含めて――みんな見栄っ張りの意地っ張り。言いたいこと、言えればいいのにね」
それは、いつもとは違ってどこか寂しそうな言葉だった。
夏海はそれから大きく伸びをすると、よっしゃっと何事か気合をいれて、唐突に立ち上がった。
「だからさ、だったら、やることは一つ! 先輩の地元ってどこだっけ――神奈川だったよね。四十九日終わってるし、ちょっとスマホ貸して!」
「おっ、おい!」
いったいどこでどう知ったのか、スルスルと俺のスマホのロックを外すと、アドレス帳を引っ張り出していきなりそのまま電話をかけ始めた。
「――あ、夜分遅く失礼します。はじめまして。私、せんぱ……いえ。杉浦の……はい、そうなんです! メール読みました。この度はご愁傷様で――それでご存知か伺いたいんですけど――ええ。ええ。場所の名前だけ聞けば、判りますので」
「って、お前何処にかけてんだよっ! こんな時間に!」
立ち上がろうとするが俺の頭を、とてつもない腕力で抑え込んでくる。
しかも声はにこやかに電話応対したままだ。
本当によっぱらいか、それとも酒呑童子か何かなのかこいつは?
電話口にむかって頭を下げて会話を終わらせた夏海は、そのままの勢いで会計を済ますと、今度は俺の手を引っ張った。
「おい、お前一体――ちょ、ちょっと待てって!」
たたらを踏みながら、店の外まで連れ出されると、今度は大声でタクシーを呼びつけた。
「おい、何処行くんだって!」
「だから、その思い出した記憶、思い出を、今から、彼女に話にいこっ! タクれば行けない所なんて無いんだから!」
そうして、俺は有無を言わせない彼女にタクシーの奥に押し込まれた。
もちろんそのまま、夏海も乗り込んでくる。
「――先輩はさ、今夜、私の女に期待して誘ったわけじゃないんでしょ? 判ってる。それが先輩だから。……だったら今は、いくっきゃないじゃん! お墓なら忍び込んだってきっとなんとかなるっ!」
「俺の地元だぞ!? 今から言ったら何時になるか。それに泊まる所だってあるか微妙だぞ?」
夏海はにこやかに、胸を叩いた。
「大丈夫大丈夫まかせなさいっ! 朝までたーっぷり、いい女が二人夜通しで話聞いてあげるんだから寝る暇なんてないもの。ねえねえ。それでさ。さっきの続きなんだけど」
タクシーが低音を響かせて夜の街を走る。
街頭とネオンが、夜に綺麗に流れていく。
「何だよ。まったく……」
こちらから切り出したとは言え、こうやって振り回されるまでは想定外だ。
こんな風に地元に帰ることになるなんて思いもしなかった。
ただ、彼女のこんなはしゃいだ様子も、まあわるくもないか。
うん……ここまできたらもうヤケだ。
せっかくだから、今日のこの日を楽しもう。
「だから、その彼女の名前。私、まだ聞いてないんだけど」
この日常を、今度はしっかりと覚えておこう。
明日には綺麗さっぱり忘れてる、なんて事のないように。
「ああ、彼女の名前は――」
そして、言ってなかった言葉を、今度こそ伝えよう。
酒が飲みたくなった。
ありがとう。