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習作2

作者: quiet



 3番街が唯一抱えていた社会問題=過重労働はとうとう解消された。他の区街でも過重労働が常態化していることが発覚し、『ならそもそも過重ではないのでは? 人間はこうしないと生きていけないのでは? 自然の理なのでは?』との見解がインターネットの何して生きてるんだかわからん暇人の間で流布。システムの一部として受け入れられたからだ。


 ゆえに、ネクタイを締めたまま家路を辿る今は深夜2時だし、その道中には酒気が立ち上るわけでもなく死屍累々と背広の人間たちが倒れ伏している。電車のとうに止まった今となっては、街の明かりはコンビニの誘蛾灯くらいのもので、まばらに通り過ぎるタクシーの中では乗客か運転手のどちらかが居眠りをこいている。夜空を見上げても星のひとつも見当たらないのは、都市の恩恵か、霞み目の弊害か、俺には判断がつかなかった。


 ただ歩いているだけでもぐらぐらと頭が揺れる。眩暈に身を任せてしまえば膝から力が抜けて、死屍の仲間入りを果たしそうになる。ぐに、と足裏、柔らかい感触。ぐえ、と呻く声。踏んだ。まだ生きていた。傾いた身体を、わずかに骨に纏わりついている大腿部の筋肉で支え直す。肺が締まる。空っぽの胃袋は今まさに自ら分泌する酸によって焼かれつつあり、人体の始まりの臭気とでも言うべき、生々しい匂いが鼻腔を抜けて、白い息に変わっていく。


 マンションは、大通りから有料駐車場を通り抜けて入る奥の通りにある。ゴミ捨て場のネットが破られて、生ゴミが道路にはみ出している。それを跨いで、最後にゴミを捨てたのがいつだったか、覚えもない記憶を探っていた。


 男が立っていた。

 自動販売機の光に照らされて。


 あ、と声。

 先に出したのは俺の方だった。

 続いて、振り向いた男の方も、同じように、あ、と言った。


「どうも」

「こんばんはー」


 愛想のない方が俺。


 家に帰れた日は、いつも自販機で物を買っている。

 自販機はひとつしかない。順番を待つがために男の後ろに回ろうとしたが、


「あ、どうぞお先に」


 男が一歩、横に退いた。考え中なんで、と訊いてもいないことを小さく付け足した。

 形式的に頭を下げて、自販機の前に立つ。ポケットから財布を探る。男が自分よりもだいぶ背の高い人物であると気付く。肩巾も広いが、胸板が薄く、顔の輪郭も丸細いために、ナイーブな印象が強い。


 探り当てた。尻にあった。いつここに入れたんだったか。長財布の小銭入れを開く。買うものは決まっている。必要なのは200円。


 ない。


 必要なのは1,000円札。


 ない。


 必要なのは退去と睡眠、忘却。

 舌打ちで下がるのは品性。


「小銭、ないなら貸しますよ」


 踵を返しかけたところで、男がそんなことを言った。

 よくわかったな、と思う。しかし考えてみれば、自販機の前に立って、財布を引っ繰り返した後どこかへ消えようとする人間に当てはまる推理は、それ以外にない。

 よく知らないやつに金を貸す気になるな、と思う。しかし考えてみれば、どこかでこの顔を見た覚えがある。嫌な顔はすぐに忘れる習慣があることから、仕事の関連ではない。コンビニの店員か、それとも、あ、隣の部屋の。


「どうぞー」


 男は200円を差し出した。

 ども、と頭を下げる。今度会ったとき返します、と付け足す。1ヶ月経っても顔を合わせることがなかったら、郵便受けに投函するつもりでいる。


 ひとつ目の硬貨を投入したときになる硬い音は、花粉症の錠剤を勢いよく飲み込んだときに空の胃腑で鳴る痛みに似ている。ふたつ目は、あるべきところに収まったような軽い音だけを残す。


 自動販売機が赤い光で俺に選択権を与えた。

 どこにでも行ける、と嘯いてはいるが、その場限りでこの場限りだということはよく知っている。

 右上のボタンを押下。


 こと、と軽い音を立てて箱が落ちてきた。

 赤い光が消えて、選択権は消えた。

 屈み込んで、口から中身を取り出す。紙の、小さな箱。茶色いデザイン。カフェイン。粉末。


 一歩退く。

 その場で箱を空ける。小さなプラ筒が入っている。封を切る。鼻に突っ込む。


 吸う。


 ぴっ、とひとつ。

 脳の血管が切れたような感触。


 プラ筒を振ると、かさ、と小さな音がしたので、もう一度鼻に突っ込んで吸う。上を向いて、鼻に手を当てて、ゆっくりすべてを飲み下す。ビルに切り取られた扇状の月を見つけた。あんまりにも小さくて、神様の落書きみたいだった。


 顔を戻すと、男が俺を見ていた。

 昔に動物園で見た、何かの目に似ている。羊の目が恐ろしかったことは覚えているから、それ以外の動物の。


「それ、効きますか?」

「あー……」


 空になったプラ筒を箱の中に戻しながら、


「どうかな。身体に悪い感じはするけど」

「ああ、じゃあ効いてるんですね」


 正確に言うなら、効いてなけりゃ馬鹿らしい、だろうと思う。しかし俺は別に効いてようが効いてまいがどっちでもいい。努力のポーズが必要とされているだけだ。


 箱をゴミ箱に捨てる。この地区のゴミ分別は大らかで、大抵のものは燃やす。


 男は自販機と俺の、中間地点あたりに身体を向けて、腕組みをしている。

 何となく、そのまま部屋に帰るのが躊躇われて、一瞬だけ足を止めた。


「迷ってるんですか」

「そうなんですよ」


 迷うほど置いてないだろ、と思って、一緒に自販機を見る。

 水、茶、スポドリ、炭酸、紅茶、コーヒー、ココア、果物ジュース、エナドリ、カフェ粉。


「何と何で」

「コーヒーか、」


 男は言って、


「これで」


 ライオン薬、と書かれた箱を指さした。


 ライオン薬。


 初めて見た。


「飲んだことは」

「ないんですよね」


 箱状、ということはカフェ粉と同じで、粉末だろうと推せる。

 名前からして滋養強壮薬かなんかだろうと思う。


「迷ってるんですよ」


 男はもう一回言った。

 見るからに優柔不断そうな顔だしな、と思う。その割には冒険心がある。


 俺は無責任に言った。


「買っちゃえば」

「そう思います?」

「思う」


 男は財布を広げて、自販機の明かりで硬貨を探し始めた。ライオン薬の値段は250円。高え。カフェ粉より高いとなると、まず間違いなくエナジー補給系だ。


 男は財布漁りに苦戦している。

 視線を外して自販機の奥に佇む我らが住処を見ると、小さく、赤い光が揺れていた。死滅したはずの蛍族の亡霊である。台所の水切りを巣にして、この大都会3番街にも生き残っていたらしい。下から数えて、1、2、3、4階。ファミリータイプ。俺が何を言うまでもなく、近日中に周囲の人族によって狩り取られてしまうだろう。


 ちゃりん、かこん。

 いつの間にやら男は硬貨を投入していた。


 真っ赤な未来を前にして、男はしばしの間指先を彷徨わせ、結局は、当初の予定通り、ライオン薬を押下した。


 ことり。


 ガオー、と今にも叫ばんばかりの写実的ライオンパッケージを男はしげしげと眺め、まるで初めて箱を見たかのような手つきでそれを開封した。プラ筒が入っている。


「なにも書いてない」

「怪しいな」

「ええっ」

「冗談です」


 含有成分記載なし。

 かなりの怪しさだが、ここの自販機のメーカーは名前の知れた大会社だ。まさか毒物が混入しているはずもない。


 真っ白な粉末を光に透かして、男は眉間に皺を寄せている。


「実は僕、粉末系初めてなんだよね」

「へえ」


 珍しくもないな、と思う。


「そんなに難しいことはないですけど。吸うだけだし」

「噎せないかな?」

「粉系はヤバイのが多いから、かえってそのへん気遣われてると思うけど」


 実際、カフェ粉もカフェイン分はほとんど入っていない。強烈すぎてすぐ致死量に達するから。自販機売りの多くは鼻から摂取した際の刺激を和らげるなんたらかんたらほにゃなななみたいな成分の粉でできていると聞いたことがある。


 男はごくり、と唾を飲む。


「よし、じゃあ初チャレンジ」

「がんばってください」

「粉ぼっふぁあやっちゃっても何も言わないでいてほしい」


 友達じゃあるまいし。


 男はプラ筒の封を切る。

 それから震える手つきでそれを、


「ふぉう?」

「そう」


 鼻に突っ込み。


 思いっきり吸った。


「おごっ」


 そして噎せた。


「おふっ、おっほ」


 小さく粉末が舞う。自販機に照らされて、取るに足らない羽虫のように。


「もったいない」

「あ、いや。ほとんどは飲めたよ。けふっ」


 涙目になった男は、苦しそうに口元を拭う。

 ずず、と鼻をすする音がした。


「効きます?」

「いや……、目は覚めたけど」

「でしょうね」


 それだけ豪快に咳き込めば誰でも。


 男は、箱の中にプラ筒を収め直し、俺と同じように、備え付けのゴミ箱に捨てた。

 俺はその間、数歩前を歩きながら、マンションの鍵を取り出している。


「おっふ、おほっ」


 まだ咳き込む声が聞こえる。


「んぐっ、げほっ」


 流石に咳き込みすぎじゃないか。

 さっさと部屋に戻って、水道水でも飲んだ方がいい。


「んふっ、おごっ」

「ちょっと、大丈夫っすか」


 心配になって、足を止めて、振り向く。



「ガオー」



 そしたら、ライオンがいた。



 ……ええと、そうだな。


「ガオ」


 そこには、ライオンがいた。


「ガオガオ」


 ええと、ライオンはだな。


 でかい。


「ギャオー」


 そしてええと、でかい。


 声もでかい。体内に洞窟でも持ってるみたいに、反響している。


「ガオ」


 でかい。

 立ち上がったらまず間違いなく自販機を飛び越す身長だし、襲い掛かればまず間違いなく自販機を破壊できる大きさだ。


 ライオンがいた。

 自販機の前にライオンがいて。

 俺を見ていた。


 目がばっちり合っている。


 しばしの無言。

 のち。



「ぎゃおおおん」



 ライオンは一声、吠えた。


 夜の空気が震える。建物も震える。俺の頬も震える。しかし明かりはひとつとして増えず。


 ライオンは、背を向けて、走り去って行った。


 ゴミ捨て場を蹴り飛ばして、駐車場の放置車両を跳び越えて、そいつはどこかへ去って行った。


 しばらく、立ち尽くしていた。

 そのうち、冷たい風がウイルスを運んできた匂いを嗅いで、我に返った。


 自販機の前に戻る。

 ライオン薬。

 売り切れ。


 売り切れ。



 それから、何日経っても、隣の部屋の男と顔を合わせることはなかった。

 郵便受けに入れた200円がどうなったのかも、俺は知らない。今は隣の部屋に誰が住んでいるのか、それも知らない。


 あの男は、サバンナに行ったのだろうか。

 それとも、動物園にでも行ったのだろうか。


 それを知るすべもなく。

 季節の変わり目に、自動販売機のラインナップは入れ替わる。


 あのとき、最後に見たライオンは、人間の目をしていて。

 250円の商品は、もうない。

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