ばあちゃんの甘夏
幼い頃から、柑橘類は苦手だった。
みかんも、オレンジも、グレープフルーツも。生で食べるのは勿論、ジュースでも飴でもケーキでも、僕は口にしようとしなかった。食べると舌の縁や喉の奥がチクチクイガイガして、その感覚が嫌いだったんだ。
だから、ときどきお母さんが買って来たり、ばあちゃんのところから贈られてきたりすると、僕は決まって逃げていた。どうしても食べなきゃいけないときは、弟や妹にあげていた。弟も妹も、柑橘は好きだったから。
ばあちゃんの家の庭には、何本かの木があった。木と言っても、そんなに背の高い木ではない、小学生の僕でも容易に手の届く程度の木だった。そしてその木には、毎年たくさんの実がなっていた。
みかんだ。
お正月は父さんも母さんも忙しくて、時期をずらして春の中頃にばあちゃんのところに年始の挨拶に行くのだけれど、そうするとばあちゃんはいつも僕たちの帰る間際に急いで庭まで行って、その木から腕に抱えられるだけもいで、車の窓から僕らに押し込んできた。「帰ってから食べなさい」そう言って笑うばあちゃんはとても嬉しそうだったけれど、正直言って僕は全然嬉しくなかった。ばあちゃんのくれるこのみかんは、お母さんがスーパーで買ってくるみかんよりもずっと食べにくいんだ。外の皮も中の皮も厚くて、剥きにくい。ただでさえ食べたくないのに、それを邪魔されるようですぐに投げ出してしまう。さすがにばあちゃんの前ではそこまでのことはしなかったけれど、僕が受け取るのを渋るといつもばあちゃんはちょっと悲しそうな顔になっていた。でも、嫌いなものは嫌いなんだ。
テーブルの真ん中、籠に山と積まれたばあちゃんのみかん。手指や口の周りを黄色く染めながら大喜びで食べるのは弟と妹だけで、僕は一度も食べなかった。
結局、ばあちゃんが死ぬまで、一度も。
ばあちゃんは、ひとりで死んだ。じいちゃんは僕が生まれる前に死んでたから、ばあちゃんは独り暮らしだった。でも近所づきあいが多かったから、その日も茶飲み話に来た近所のおばあさんが、布団に横になったまま冷たくなっているばあちゃんを見つけてくれた。
96歳。大往生だった。
僕はまだ小学校を卒業する前で、人が死ぬって言うのがどういうことなのか、まだはっきりとわかってはいなかった。ただ、もう会えないんだな、って思ったくらいだ。もう、ばあちゃんにみかんを持たせられることは、ないんだな。
不思議と、嬉しくはなかった。
葬式は、静かだった。父さんも母さんも泣いていた。そのふたりの姿を見て、弟と妹も泣いていた。僕は、泣けなかった。仏壇に飾られた写真の中のばあちゃんは凄く笑っていて、そんな顔を前にして身を折って泣いている皆が、何だか間が抜けて見えた。
お坊さんの念仏が始まって、凄く退屈で仕方がなかったから、一番後ろに座っていた僕はこっそり部屋を抜け出して縁側に出た。
静かで、誰もいない。着せられた喪服の窮屈な襟元を緩めて、僕は何となくそのまま、庭に下りた。閉められた襖の向こうからお坊さんのわけのわからない言葉が小さく聞こえてくる。結構天気が良くて、なおのこと葬式の湿っぽい空気が不釣り合いでおかしかった。
庭には、ひまわりとか、いろんな花も植えられていた。見れば、ミニトマトの苗もある。ばあちゃんの趣味は家庭菜園だったんだ。
そして、あのみかんの木がある。
その枝の一本一本に、大きな黄色い実を宿らせている。
日の光を照り返して、宝石みたいに輝いていた。
綺麗だな、と素直に思う。
何となく近づいて行って、一番手前にあったひとつを、もぐ。
これを喜んで食べる弟や妹を見て、ばあちゃんは凄く嬉しそうに眺めていた。そして、食べることを嫌がる僕を見て、寂しそうな顔をしていた。
僕に向けられたばあちゃんの顔は、いつも寂しそうだった。
「…………っ」
ふっと何かがこみあげてきて、気が付けば僕は手に持ったみかんの皮を剥き始めていた。
全然みかんを食べて来なかった僕だから、皮を剥くのも下手くそだ。不器用な手つきで強引に剥き出されたみかんは、やっぱり不格好になっていた。
内側の皮も厚い。だから僕は爪を立てて、力づくで引きちぎる。果汁が噴き出るけど構わない。あふれ出る汁を勢いよくすすり、かぶりつく。
じゃくじゃくと噛む。口の中に広がるのは、やっぱり僕の苦手な柑橘類の味――でも。
ちょっとだけ、違った。
甘かった。
思っていたよりもずっと、甘かった。
果肉も内皮も区別なく呑み込んで、僕は次の実を枝からちぎり落とす。そして、さっきよりもさらに荒々しく皮を剥いて、食らいつく。
涙が止まらなかった。
ばあちゃんの寂しそうな顔が、頭から離れなかった。
ばあちゃんは言っていた。これはただのみかんじゃなくって、甘夏っていう、もっと甘いみかんなんだって。でもみかんはみかんなんでしょって、僕は一度も口にしようとはしなかった。
僕は一度も、ばあちゃんを喜ばせてあげられなかった。
ばあちゃんの嬉しそうな顔を、見れなかった。
そしてもう二度と、見ることはできない。
ばあちゃんは死んじゃった。
甘夏は本当に甘かったのに。
こんなみかんなら、僕はいくらだって食べてみせるのに。弟や妹に負けないくらい、お腹いっぱい食べられるのに。
それを見て喜んでくれるばあちゃんは、もういない。
ばあちゃんはもう死んじゃったんだ。
甘夏はこんなにも甘かったのに。
僕の食わず嫌いのせいで。
ばあちゃんに寂しい顔をさせたまま、お別れになっちゃった。
どれくらい食べたのかわからない。いつの間にか、僕は食い散らかした甘夏の真ん中に座り込んでわんわん声を上げて泣いていた。それを聞きつけて、僕がいないことに気付いた父さんたちが慌てて外に出てくる。どうしたの、と訊かれても、僕は答えられない。
ばあちゃん、ごめん。
甘夏は、本当に美味しかったよ。
時空モノガタリに投稿したものの原稿です。