四季
できるだけ早く、都会から脱出しよう。
満員電車で吐息が首筋に触れる距離や、迫り来る大群を避けながら歩かなければならないスクランブル交差点から。
都会の人間を見ていると、音楽は耳に無理やり押し込んで聴くものじゃないことを知っているのだろうかと心配になるし、僕もうかうかしていると頭の先まで染まりそうで不安にある。
世の中の大半は思慮が浅く、人間に対して至極興味津々で、粘り気がある。そんなどうしようもない人間どもと関わらないで生きていくにはどうすればよいのか。
僕が腹を割って話せる人間は3人しかいない。それぞれ社交的でもないし明朗な性格でもなく、前向きでもない。陰気臭い部分を皆、一律に秘めている。
思い返せば、僕が本当に仲良くなった友人で社交的で人気者なタイプは誰一人いなかった。一時的に仲良くなっても長くは続かなかった。
そういった奴らは相手が自分に何をしてくれるか、を常に求めているように見受けられる。お金や笑いに飢えているようで、ひどく下品にみえた。
昔は僕も多くの友人を相手にしていたが時が経つにつれ、様々な関係が濾過され、そして3人だけになった。Hという女性とT、Kという男性である。
そんな3人の人物像をつれづれと記していこうと思う。
僕は小学校5年生の時にNという町に引っ越してきた。その小学校にはHという女の子がいた。当初の印象は活発で、少し乱暴な性格。背もすらりと高かったので、とても逆らえる気がしなかった。
だけど、直接暴力を振るわれた事もなく、そういった声も聞いたことはなかったのだが…。
この地域で生活を始めて間もなく、Mという友人ができた。おとなしく理知的な男の子だ。
小さい時の僕といえば、決して人気者ではなかったが、臆せず発言する方だったと思う。体格もさることながら、堂々としていた。だから性格としてはMとは対照的だったのではないか。
Mとの小学生時代の思い出で鮮明に憶えているのは、遠足で遊園地に行った時のこと。そこはお化け屋敷があり、僕とMが悩みぬいた末、二人で入った。
しかしというか、やっぱりというか情けないながら、両方ともが入口付近で立ち往生してしまった。前を見ると、不必要に暗く、あの手この手で僕らを脅かせてやろう(お化け屋敷だからか。)とする捻くれた空気が充満していた。
ぴったりと身を寄せ一向に動かない僕らを見て痺れを切らしたのか、後方から「次の方が来られますので、先へ進んでください。」とのアナウンスが。
歩いても怖いし、止まってても恐いなんて。そんな理不尽な思いに駆られたが、お化けよりも怒った人間の方が幾分マシとの判断を下し
僕らは居座り続けることにした。そこから数分後、後ろからガラガラと何かを引きずったような音がした。
振り向くと入り口の引き戸が開けられ、クラスの女子たちがお出でになられたのだった。
そこで僕らは、まるで戦争に生き残った兵士のような熱い抱擁を交わした訳ではないが、僕とMはただただ大きく安堵した。4人全員が女神にみえた。確かに後光が差していた。
一方、彼女らはもれなく眉間に深く皺を寄せている。怪訝な顔つきで僕らにガンを飛ばしてきた。その様子は女神でもなんでもなく、普段のクラスの女子であった。
だが僕らはその何の変哲もない女子たちの背後で背中を丸めながら、物音を立てないようについて前へ進んだ。なんと情けない光景だろうか。
白装束の女や浮き出る生首などなどがそうそうたるメンバーが出没したが、意気揚々と出口まで突き進んだ。
お化けたちは大の大人が扮装しており、小学生女子に手を出せるような不道徳なお化けではなかった。
そしてこの時、最も怖かったのは女子のひとりが発する叫び声だった、とHは卒業文集で述懐している。
他にもMと卒業旅行の下見に金閣寺へ行ったり、同じ塾へ通ったり等、公私問わず、日頃から共に行動をしていた。
そして卒業後、Mとは同じ地元の公立中学に進み、Hは遠くにある女子校へと入学したらしい。彼女は誰にも公言せず、ひっそりと静かに視界からフェードアウトしていった。
僕も懇意にしていた訳でもなく、さして気に留めなかった。おそらく彼女がいなくなったことの認識さえ、おぼろげだったと思う。
中学へ通うも、僕は相変わらずMとべったりだった。2人で剣道部へ入部した。僕とMを含めて新入部員は7人いた。
入部当初は竹刀を握ることもなく、防具を装着することもせず、毎日毎日、学校の周りを走らされた。僕のファッティな体格では、まともに皆と走ることもできず、過酷だった。
同じ部員だった子からからかわれ、Kという奴からは冷めた目で見られた。そうして段々と道場に顔を出さなくなった。
はじめは注意を受けていたが、それもなくなり、いつの間にやら退部をしていた。7万円で購入した防具一式はクローゼットの奥深くで、いつまでも艶々と輝いていた。
Mも僕に付き添って辞め、2人してコンピュータ部に転部した。僕の中学校では、誰しもが部活動に入部しなくてはならなかったので、僕らは好き勝手に帰宅が許されている(黙認されている)唯一の所を選んだ。
コンピュータ部に変わったタイミングでからかわれることはピタリとなくなり、Kからの見下した表情に出くわすこともなくなった。それらが大きな要因だろうか、この頃、僕のクラスでの地位はぐんぐん昇り始めた。
誰からも歯止めをかけられず、とても傍若無人に振舞っていた。2年目になっても変わらず、暴力さえ振るいはしなかったが、行動はエスカレートをしていった。
今にして思えば、コンピュータ部の肥満体であり、学校というヒエラルキーの中では最底辺に位置していそうなものだが。
コンピュータ部にはわりと顔を出し、Mとあるインターネットゲームのサイトで遊んでいた。そのゲームは自分の分身であるアバターの着せ替えができ、他にもチャットやテーブルゲームといった多様なゲームが揃えられていた。
僕はMと五目並べで遊んでいたと思う。大抵はMに負けていたけれど。あとはグロテスクでくだらない動画を見ていた。夜中でも自宅でMとチャットをしていた。
夏が過ぎた頃、遠足で京都へ行った。帰りの新幹線でKはと同席し、初めてフェアに話をできたと感じた。Kは僕と同じ土産屋さんで購入したであろう木刀を右手で握りしめていた。
Kはルックスが良く、運動神経抜群だったので、その道理から女子たちの人気は凄まじかった。だけど、シートで会話を重ねる内に、Kはとても人見知りでシャイな人間であることを知った。あまり自分の事を曝け出そうとしないが、その距離感が心地よかった。
会話が途切れると、Kは物憂げに窓の外を眺め始めるため、僕は精一杯楽しませようとしていた。つまり、まだまだ関係性はアンフェアだったのだろう。
遠足後からKと友達になった訳ではなかった。こういったイベントにより、両者ともに瞬間的に気分が高揚していただけであった。
Kは相変わらず剣道に打ち込み、僕はやはりMとインターネットゲームばかりしていた。
無為で空虚な時間が過ぎていき、めまぐるしい早さで季節は冬になった。11月の頭からMは学校を休むようになった。とはいえクラスが異なる為、学校で顔を会わせる機会はなく
またMとは部室や家ではいつものように遊びに来るため、あまり心配はしなかった。念のためクラスの状況を観察したが、阻害されている様子でもなかった。彼に直接、問いただす事もしなかった。
そして春を迎え、僕は最上級生になった。クラスも一新され、とうとうKとは同じクラスになった。Mは学校には来ないが、僕が帰ると、いつものように遊びまわった。
Kは剣道部の最後の大会を終え、暇を持て余しているようだった。きっかけは曖昧だが、そのタイミングで僕らは頻繁に遊ぶようになった。河原で決闘をした後に、両者とも空を見上げるようなドラマティックなきっかけでなかったことは確かだ。
だが2人で遊ぶことはなく、いつもMや他の奴らが加わっていた。ある夜、毎度のごとく僕とKとMがN市を自転車で走り回っていた。目的もなく、ぶらぶらとペダルを漕いでいた。
Kはカメラ付きの携帯電話を購入し、沢山の写真を撮っていた。Mの写真も撮ろうとした直後、Mは「いい加減にしろ!」と声を荒らげ、Kの携帯電話を弾き飛ばした。
彼が声を張り上げる光景を僕は今まで目にしたことがなかった。Kの携帯電話は道路にバウンドし、僕とKが動揺している間にMはひとりでスピードを上げて、その場から去ろうとしていた。
僕はKとMのどちらに行こうか迷ったが、既にMの自転車の反射板は小さくなり、追いつけない距離となっていた。そして、僕とKは初めて2人だけで帰った。
それからというもの、僕はKと遊ぶようになり、Mとは疎遠になった。僕は薄情だろうか、と自問する時間もなく、毎日が急ぎ足で過ぎていった。
新年を迎え、クラスの雰囲気は受験ムードに包まれたが、僕とKは相変わらず、自由気ままに行動をしていた。
着替えを覗く為に買ってきた双眼鏡を没収されたり、消火器で音楽室の廊下を粉まみれにしたり、教室の窓ガラスを割ったりなどなど、非道なコンビだったと思う。
一応、高校受験は考えており、市内にある普通科では最底辺である高校を俺とKは受験する予定をしていた。さすがに僕らでも受かるだろうと楽観視しており、受験当日まで鉛筆を持つことはなかった。というのは過言である。
そうして合格発表日、僕とKと共通の友人で掲示板を見に行った。Kはも共通の友人も合格していた。そりゃ倍率考えると当たり前か、と思いながら手元にある受験番号と照らしあわせた。
だが、僕の番号だけがすっぽり抜け落ちている。僕は番号を見つけるため、色んな場所を探した。旅先の店、新聞の隅、こんなとこにあるはずもないのに。
それから、どのように帰ったのかは鮮明ではないが、帰り道で母親に不合格だった報告をした。特に落胆はしていないようだった。まるで想定していたように。
数日後、僕は卒業旅行という名称でKを含む数名で大阪の難波に訪れた。露店で服を買った。シンプルな青のジーンズとダブルチャックの黒いパーカだったと思う。
春休みが明けて、僕はA市にある私立N高校に入学した。滑り止めで受けていたところであり、全国でも屈指の悪ガキ矯正施設と呼ばれている高校である。
入学直後の印象はとりたててない。想像とは違い、刃物を指で回している奴やリーゼントの兄さんもおらず、わりに穏やかなクラスだったと思う。日本語がままならない奴もいなかった。
また、小学校時代に通っていた塾の知り合いと、その知り合いの友人であろうTがいて、いくばくの安心感を覚えた。
だが彼らとプライベートで遊ぶことはなく、高校生になった直後は殆ど毎日、学校帰りにKと近所の公園で落ち合い遊んでいた。Kは髪を伸ばし、剣道部時代の坊主姿から一転、ナウい外見へと様変わりしていた。
Kはテニス部に入り、高校と部活動の楽しさをよく僕に語っていた。僕はN先輩に引きずられるように、もはや脅迫みたいな形でラグビー部に入部させられた。
帰宅時間も遅くなり、そのために段々とKと遊ぶこともなくなっていった。Mとは一切の連絡をとらなくなった。風のうわさでは、Mは地元から離れた専門学校に入学したらしい。
ラグビー部の練習は毎日とてもハードだったが、僕は先輩らに好かれており、結構楽しんでいたと思う。特にクラスがひどくつまらなかったので、一層ラグビー部という組織が憩いの場となった。
男ばかりだったが、変に気を遣うわけでもなく、部室で漫画を読んだり煙草を少し吸ったりもした。というか吸わされたが、そういったことを差し引いても居心地がよかった。
夏が終わり、3年生の先輩が引退となった。僕の首根っこを掴んで部活に入部させたN先輩が次のキャプテンになった。
N先輩はラガーマンとしては小柄だったが、臆することなくタックルをかますタイプで性格とも一致していた。相手が誰であろうと、神風のごとく遠慮なく突撃する。
そんな姿に憧れ、僕も躍起になってタックルを重ねた。そして練習の最中、左側の鎖骨が呆気なく折れたのだった。
小学生の頃、僕はスキーで左脚を骨折していたからか、あまり痛みを感じなかった。少し練習を休めるのかな、とすら考えていた。
一ヶ月は安静に、との医師から指示を受けたが、数週間後にN先輩から「顧問に治ったから練習に参加させてください、と申し出でろ。」との命を下された。
僕はなくなくそのことを告げ、予定より何週間も早く練習へと参加した。鎖骨は綺麗に接合されず、今でも少し浮き出ている。
正直、部活動を除いた高校生活の印象はあまりない。クラスではUというひょろりとして無表情の男と、たまにある休日は遊んでいた。
Kとは異なり、生粋のインドア派で中学時代の僕のように家でゲームを延々としていた。その程度の思い出しかない。
季節は巡り、最上級学年となった。そうこうしている内に部活動の最後の大会も終わり、僕は燃え尽き症候群に近い感覚に陥った。
クラスのムードは中学の時とは違い、誰しも受験勉強に燃えている様子は見受けられない。僕も、そのひとりとして最後の高校生活をのんびりと過ごすつもりでいたが。
ホームルームも終え、通学バスへ乗り込んだ。まだお昼頃であり、日は高い。バスの窓からグラウンドに目をやると、後輩たちがだらしなくボールを回している姿が目に映った。
僕らの学年の部員は今までの先輩らとは異なり、後輩に理不尽な要求や指導と称した制裁も加えなかった。部活動の仲間として誠実に応対したつもりだ。
なので僕ら上級生がいなくなり、羽を伸ばしているというよりは、目前に迫る大会もないので、暇で仕方がないという様子だ。
僕らの一つ下の部員は勝負事への関心が強いため、大会前のモチベーションは高いが、何か目標がないとだらけてしまう。起伏が激しい所が難点だった。
まあ別に、引退した人間が余計な口出しをする必要はない。バスが駅に到着し、皆が降り始めた。僕も運転手の方にお礼を言い駅へと向かった、その刹那ーーー。
ブレザーの胸ポケットに入れてある携帯電話のバイブが鳴った。画面を見るとKからのメールである。内容は久しぶりに今日の夜、遊びに行くとのこと。
僕は了解の旨を返信をした。夜、自室でぼんやりとしていると、母親からKが来たとの声が聞こえた。
部屋に上げて話をしていると、Kが不意に今後の進路について切り出した。そして一言、今から受験勉強をして大阪にある大学を目指すとKは宣言した。
その時の僕は胸の内で無理難題を、と思った。なのにお前はどうするのかと聞かれて、つい僕も同じ大学を目指す予定だったと口走ってしまった。
翌日から、Kは毎日僕の家へ来て夜中の2時まで勉強をし、そこから自転車で帰っていく生活を始めた。時折、息抜きと称して机の上で卓球をした。
日によっては大半の時間が卓球に費やされることもあったが、それでも今までの僕らを考えれば、信じられないくらい勉強をしていた。
12月1日、僕たちは塾に通い始めた。ハイテクなシステムの塾であり、パソコンに向かい、ウェブ上で講師に習うというスタイルであった。
それは録画の為、いつ何時に受講する事もできたので、休まず毎日塾へと足を運んだ。受講時間以外も自習室で夜中まで勉強をしていた。
年始年末も休まず、僕らは参考書を片手に机へと向かった。晩御飯の時以外はKと会話もしなかった。
月日は流れて、1度目の大学受験当日となった。一般前期Aと呼ばれるものだ。
僕は法学部、Kは経営学部を受験した。しかし、結果は両方共不合格。特に僕は合格点から30点ほども乖離していた。
あと、残されている試験は一般前期B、後期の2回だ。ただ、後期試験はひとつ上のランクの大学を目指していた人々が受けるので、ここで受かる確率は天文学的数字だった。
なので、実質的に次回がラストチャンスである。そのテストまで残り2週間程しかなく、僕は世界史の教科書と英単語帳を何周も読み返すことにした。
いよいよ一般前期Bの試験日になった。テストの手応えはあまりなかったと思う。帰りはKと帰宅したが、答え合わせはしなかった。
それから数日後、僕はあまり寝付けなかった。結果が返ってくるであろう日は一睡もできなかった。バイクのブレーキ音に過敏に反応した。
ある休日の朝方、僕はポストを開けると少し厚みのあるハガキが有った。それはもちろん前回の試験結果のものと同じだった為、一目見て結果通知だと理解した。
加えて、何か仰々しい大きい目の茶色い小包も入っていた。小包に書かれた文字には、僕が目指していた大学が記載されていた。
結論から言えば、僕は合格していた。その日は喜び以上にようやく安心して休める、という気持ちが大きく、今までの分を取り返すように長々と眠っていた。
翌日、僕は塾長にお礼の電話と担任の先生にも連絡をした。3年次の担任は自らが生徒の進路を示してくれる人ではなかった。
つまり、僕自身が動き出さなければならない、といった焦燥に駆られ、それが大学受験を合格まで導くこととなり、心より感謝をしていた。
結果が送付された日、その次の日もKからは連絡が来なかった。彼は僕が落ちているものだと考えたのかもしれない、と思い
電話をかけてみた。2、3コールしてから、Kが電話にでた。いつもとかわらず、照れ笑いのような口調だった。しかし、彼の試験結果は不合格だったらしい。
まだ後期があるので、それに向けて準備を整えると言い残し、電話を切った。僕は彼を励ますことも慰めることもしなかった。
その日から大学入学までの記憶は大部分が白紙である。何をしていたのか判然としない。ただ、Kは愛知県にある大学へ入学する運びとなった。
書き忘れていたが、僕はラグビー部に入学することにより、みるみるうちに痩せていき、標準以下の体重となった。
Kに感化されて洒落っぽい髪型やファッションの意識も芽生え、入学当初はそれなりにモテた。だが、今までそういった体験を経ずに今日まで至ったので
好意を向けられるのが恥ずかしくて仕方がなく、そっけない態度を繰り返していた。すると、せっかく意を寄せてくれた女の子達は波が引くように離れていった。
入学して1ヶ月後、僕は一人暮らしを始めた。大学と実家の中間くらいのところに引っ越した。必要な生活用品は用意されていたので、必要最低限の荷物で家を出て行った。
まったくホームシックにならず、1年目の大学生活は知り合った友人達とサークルを作りをして、楽しい日々を送っていた。連休にはKが帰ってきて、朝方まで語り合った。
また、僕が住み始めたマンションの近くにはTが暮らしていた。高校3年間同じクラスで過ごしたが、プライベートで遊ぶことはあまりなかったT。彼も高校卒業後、この地へやってきた。
Tは肌が朝黒く、背はあまり高くない。黒縁の眼鏡をかけている。彼は頭はよくないが、多種多様な雑学を沢山持ち合わせているので、僕は相談をよく持ちかけた。
半分半分の割合で的確なアドバイスと意図がわからない答えを貰えた。僕が住んでいる所は地元ではなく、大学にも近くなかったので、Tと遊んでいる事が多くなった。
加えて、高校卒業後に自動車会社の工場員となったUも休日には混ざり、3人で頻繁に遊び呆けた。とはいえ、海水浴や山登りといった外に出ることは少なく、現代っ子らしくクーラーの効いた僕の部屋で各自が好きなことをしていた。毎回、一応の予定は建ててみるのだが、皆それぞれ物事に非協力的であり、この段取りが成功することは一度としてなく、結果として上記のスタイルで落ち着くのだ。
2年目も同じように、春から夏、そして秋になろうとも呑気で平穏な生活をし、当たり前のように成人式を迎えた。成人式の後は小学校の同窓会に出席をした。
8年もの時が流れたのに、大抵の人達は顔を見れば名前まで浮かび上がった。しかし唯一人、顔を見ても僕のメモリには出てこない女の子がいた。
声を聴いてから、なんとかようやく思い出した。そして非常に当惑した。昔みたいな勝ち気な性格は影を潜め、柔和な人格に育っていたからだ。その女の子がHである。
Hは小学校卒業後、どこかの誰かから耳にしたとおり、県内有数のお嬢様学校へ入学した。その女子校で厳しく躾けられたのか、身振りひとつ
昔のHの気配は感じられず、まるで他人がHの皮を被っているかのようだった。
身長は小学校の時は高かった気がするが、今の彼女はうんと僕よりも低く華奢だった。
また、偶然にHの大学は僕と同じ所で、彼女は薬学部に入学していた。
同窓会を終えてから、僕はHとメールのやり取りをし始めた。その理由は好意からきてるのか、それとも彼女を大きく変化してしまった原因を追求したいのかは僕自身も今ひとつ曖昧だった。
それから、一度だけ僕は彼女とデートをした。デートといっても映画館に行った後に簡単な食事を済ませただけだ。上映中は話すことができないし、食事中もぎこちなく、大した話はできなかった。
遊んだ後も互いに簡潔なメールを送り合っていたが、次回のデートはあいにく断られた。そしてメール自体もピタリと止んでしまった。
僕もデート自体はあまり楽しいものではなかったので、仕方がないと納得し、あっさりと身を引いた。大学で彼女を見かけることもあったが、程なく雑踏の中に埋もれていった。
3年目になっても、僕はよくTと一緒にいた。確か夏頃にTは東日本大震災のボランティアへと向かった。それも就職活動の強みにするために。Tがそんな偽善らしい行動を起こすなんて珍しかった。
また、この時期にTと同じネットカフェでアルバイトを始めた。一ヶ月ほどでどちらも適当な理由を付けて辞めてしまったけれども。Tは家から遠く通うのに困難だという大義名分を掲げて辞めていった。
面接時にわかってた事じゃないかと思ったが、彼の言い分では、なんでも僕が交通費は出してもらえるからと焚きつけたらしい。あんまり覚えてないや。僕はTが辞めたので、なんとなく自身も追随した。
やがて本格的に就職活動のシーズンになり、周りは慌ただしく動き始めた。僕もその雰囲気に飲み込まれ、安っぽいリクルートスーツを身にまとい、せかせかと活動に回った。
対するTは、ある会社を一度受けて不採用になった以後、焦燥することもなく、変わらない生活をしていた。僕は4年目になる前に、宅建という資格が武器となったのか、すぐにリフォーム関係の会社から内定を貰えた。比較的、早い時期だったと思う。
また活動していく内に苦労もなく、不動産や証券会社など複数の業界から内定を貰えた。色んな業界へ踏み入れたが、僕は将来つきたい仕事というものはなく、適当な企業を受け続けた。
結局、4年目の冬に内定を貰ったIT企業へ入社を決めた。もうこれ以上は時間的な猶予がないと思ったからだ。久方ぶりにKと連絡を取った。彼は公認会計士の試験を受けるために大学院へ進学するらしい。
Kが安易に民間企業に就職するとは到底思えなかったので合点がいった。Tは4年目最後の正月が過ぎても、就職活動へ本腰を入れる様子は見られなかった。
100社不採用通知を貰って自殺する就活生がいる中で、彼の堂々たる落ち着きようは目を見張るものがあった。
僕は大学を卒業した。休みの間、Tの行く末を見守っていたら、なぜか農家になっていた。まさに青天の霹靂であった。
飄々としており、そんな素振りも見せなかったが、彼は紛れも無く日本の食を支える第一人者としての羅針盤を手にしていたのだ。ともあれ、僕もTも晴れて就職(就農)することになった。
僕の仕事は電子カルテの導入業務であり、平日のほとんどは導入予定の病院付近にあるビジネスホテルへ滞在していた。依然として大学時代と同じマンションには住んでいたが、帰るのは休日のみとなった。
そのため、社会人になり、Tと遊ぶ日数は激減したのだが、T自身はそのことについての関心は薄そうだった。それにより、せいせいしたわけでもなく(と信じている)、悲しげでもなかった。
この会社は風通しもよく、和気藹々としていた。給料だって今の御時世にしては羽振りがよく、苦労もしなかった。ビジネスホテルでの暮らしもすぐに慣れた。むしろ掃除もしなくて良いので、家よりも快適に感じる時すらあった。
あまりに軽やかに物事が進みすぎて、そういった張り合いのない毎日に嫌気がさし、僕は1年半で退職をした。バカみたいに簡単に辞めてしまった。そして、日中の大抵は公園で過ごすようになった。
意外にも苦でもなく、ベンチに座って本を読み、煙草をふかし、空を眺める時間が僕にとっては優雅な時間に思えた。ある晩も適当な駅に下車をし、ふらふらと帰路まで歩いてたどり着こうと考えた。だいたい家までは5時間程度だった。
時刻は0時で、このまま休まず進めば、朝方には家へ帰れるだろうと楽観的な予測を立てた。しかし、2時間半ほど経った頃、ぽつぽつと小雨が降り始めた。目に付いた公園へ待避したが、雨を凌げそうな建物はあらず、苦心していた。手元の携帯電話の電源も切れかかり、もはやこれまでか…と心が折れそうになった瞬間、Tからメッセージが届いた。
内容は鮮明に覚えていないが、大した内容ではなかった。ただ、この時の僕にとっては、とてもありがたかった。僕がいる公園はTの住所の近くにあり、SOSのサインを出したら、近くのコンビニにきてくれることになった。ほどなくTは愛車で到着し、遠慮なく僕は乗り込んだ。
コンビニで購入したキュウリを渡したら、いらないと拒否された。
知らぬ間に雨足は激しさを増していた。その日を境に、僕は再就職活動に専念を始め、じきに金融業界の企業から内定を貰った。そして二輪免許を取ってバイクを購入し、残りの無職期間を悠々自適に過ごしていた。その日もいつものようにハンドルを握り、神社や森林などを走り回っていた。
その夕暮れ、同窓会のお知らせがきた。成人式以来2度目の小学校の同窓会である。地元の友人と相談し、出席することに決めた。当日は先に友人と合流し、開始時刻まで適当に時間を潰した。それでも余裕があったので、結局30分も前には僕らは会場である居酒屋に到着した。
続々と懐かしい顔ぶれが部屋に入ってきて、深入りしない程度の近況報告をし合った。大多数のみんなは僕より立派な社会人になっていた。いや、そもそも現状に自信のある奴しか出席しないのだろう。Mの顔は案の定、見当たらなかった。
座敷が埋まり始めた頃、Hが来た。3年前よりも、垢抜けた雰囲気になっていた。僕の右隣のテーブルに付いた。隣といっても一番奥を選んだため、とても話をできる状況ではなかった。
できる限り色んな人たちと話をするように努めたが、Hとはほとんど喋ることができず、そうして時間は一刻一刻と過ぎ、1次会は終了となった。2次会は広いカラオケルームで行われ、大半はそのまま参加した。
始まって早々に僕は”にんじゃりばんばん”を歌わされた後、僕と友人、そして女の子は外にでて近くのスーパーでたわいもない会話をしていた。
その中でぽろりと、その女の子にHと遊んだが、ほとんど振られたような形で終わった話もした。夜中の3時を回り、そろそろお開きになるだろうか、と腰を上げカラオケルームに戻っていった。
辺りを伺うと結構な人数が既に帰っていたが、Hはまだ部屋にいて男2人と談笑をしている。
少々の安堵と一抹の寂しさを感じた。そして室内で適当に語らっていると、一緒にいた女の子とHがなんやらの話をしている光景が目に映る。直後、女の子は僕を呼んで、Hに僕の振られ話を始めた。
するとHが一言、「また誘って欲しい。」と告げた。
早朝、2次会は解散となった。その場所から離れている女の子たちは、車で帰って行った。Hも車で帰宅した。僕は男複数人と、ナイスアシストをした女の子と帰路についた。
そして、いよいよ新たな仕事に就くこととなった。
新しい職場の勤務地は今から少し離れたところになった。日本でもそれなりの都市であり、僕はあまり気乗りがしなかった。都会にはろくな奴が集まってないと思っているから。あんな不自由な場所で何年も生活できる人間は、思考も不自由だろうな、と。
なんとか一週目を持ちこたえて、僕は週末にマンションへと戻ることにした。現在はホテル暮らしで部屋もまだ決まっていないけれど、前の部屋の整理だけは始め、すぐにでも引っ越しの手配をできる状況にしておこうと考えた。
さらにHにも連絡してみた。というか、本音はこちらがメインだったんだけど。
あたかも引っ越しの準備で地元に戻るからついでに会わないか、といったような格好悪い内容を送った。それでもHは食事に来てくれることになった。当日の夜、予定の時間が迫るにつれ、雨は一層強く降り始めた。
駅のプラットフォームで気を紛らわせる為に友人と話をしていると、彼女の姿が視界に入った。僕はすぐさま電話を切り、彼女の方へと向かった。そして、2人で目に付いたお店へと走った。傘なんて全く頼りにならない銃弾のような雨が降り注ぐ中、僕らは走った。
思えば、僕の生活が大きく変えられた日は、いつも雨だった。
2時間ほど、そのお店で話しただろうか。とりとめのない話ばかりを延々と続けた。
まだ閉店時間ではなかったが、お店は僕らだけになり、そろそろ出ようかと云った。
そして会計を済ましドアを開けた。雨は柔らかくなっていた。駅まではあまり話をしなかった。僕は自分のことで精一杯だったから。またプラットフォームへ戻り、Hは傘を閉じた。僕はそこに踏み込まず、少し離れて小さく声をかけた。Hはこちらへ振り向き、そして数秒の沈黙があり、付き合わないかと言った。もはや説得に近いような話しぶりだったかもしれない。ともあれ、Hは了承してくれた。僕はUが車で迎えにきてくれる予定だったので、ここで一旦分かれるつもりだった。
なのでHは手を振り、改札へと抜けていった。しかし電話があり、Uにある駅まで電車で来て欲しいといわれた。なので僕も改札へ入り、階段を昇った。そうして、思った以上の早さでHと再会する。ホームにて、地元の人たちにはこのことを明かさず水面下で行動しようと話し合った。
電車がきて、Hは自宅の最寄りの駅で降りていった。僕も指定された駅で降りて、Uとマンションへ戻った。その後にTも訪れて、3人でカラオケへ行き夜を明かした。
あれから3ヶ月近くが経ち、今に至る。
付き合ってから判明したことだが、Hは「頑張れ」といった曖昧な言葉を口にしない。頑張ろうが、頑張るまいが、やる気があろうが、なかろうが、やれば同じといった素敵な考え方だ。
数式のような明瞭なものしか興味がない。いかにも彼女らしいな、と思った。
僕は今もなんとか都会に埋もれて生活を送っているし、Hは国家資格に向けてひたむきに取り組んでいる。Tも日々、農業に従事しながら暮らしている。Kの近況は正確に把握していないが、難関試験を突破する為に闘っているらしい。密に連絡を取らなくとも、大学受験時代のような彼の一途な表情がありありと浮かぶのだ。
僕の現段階での目標はこの文章の頭に記載したとおり、都会から脱出すること。30歳になる前に結婚をし、早々に田舎での生活を確立する。できれば海に面した所がいい。
今の時代は通販の利便性も飛躍的に向上し、またインターネットも快適にアクセスできる為、都会でなければならない理由なんて何一つない。生活にあたっての基盤作りには、結構な根気はいると考えているが、だからこそ若ければ若い方が良い。
何より体力面での勝負になると思うから。家は一軒家で、さほど広くないもの。ただ、庭は広ければ広いほど嬉しい。部屋は家族共用のスペースはいらないので、できる限り分割したい。それぞれの部屋が設けられている事は必須条件。
あと僕はキッチンも要らないんじゃないかと思っているが、理解者は極めて少ないだろうし、これは引き下がることになるだろう。
子供の願望は全くない。決して嫌いじゃないけども。犬は一匹。今はペキニーズを飼いたいと思っている。飼うならば室内犬とする予定だ。それもちろん犬だって家族だからであり、芸だって一切覚えさせる気はない。トイレのしつけくらいで抑えるつもりだ。
車は2台、1台は5人乗りの自動車なら別になんでもいい。業務用みたいなものだから。もう1台は趣味としてツーシータでコンバーチブル(ツーシータはほとんど屋根も開放できるらしいけど)の小型車が欲しい。こちらはキッチンと違い、引き下がるつもりはない。
後、もう一つはHに煙草を再開したことを遠回しに伝えること。
この23年間を振り返ってみると、僕は色んな人間と広く付き合う事ができない性質のようだ。相手によって器用に自分を塗り替えることもできないし、自分の性格を誰しもに赤裸々に出すこともできないので、必然的に極少数の人間と付き合うことになる。今の友人たちで僕は十分に満たされているし、これ以上に余計な関係を築きたいとも思わない。
そうして四季は巡る中、僕は一向に前進していないのに、周囲や風景が気づかない内に指の間から零れていった。そして今、手元に残った事々物々は昨日よりも洗練されたものであると、僕はずっと盲信している。