初めての人生
「誰もが初めての人生を生きている」
父親がそう言ったのは、珍しく家族で出かけた動物園でのことだった。
買ったばかりのソフトクリームを転んで台無しにした同い歳くらいの少年を、J はその時少し笑った。それを見て言ったのだ。今、治安維持活動の名目で扉を蹴破って突入した瞬間にそんなことを思い出した。
部屋の暗闇に飛び込んだ瞬間、自分を包む音がすうっと消えた。仲間の足音も刀で切ったように突然途切れた。それから照明が点いた。罠だとJは思った。だが状況をつかめぬうちに目に飛び込んできたのは、愛らしかった時間をずっと昔に通りすぎてしまった熊だった。
静けさの中、熊は彼を見ながら立ち上がった。白く殺風景な部屋の中央あたり、真っ黒な二つの目で彼を見ていた。熊は檻に入っておらず、多分撃ってしまう以外どうしようもなかった。Jは自動小銃の照準は、目標を目にした次の瞬間からその外しようのない巨体に合わされていた。
自分に続いて入ってくるはずの仲間は来ない。バラックのような外見と内部構造があまりにアンバランスで天井も高過ぎる。静寂そして熊。何か、と言うよりそもそも根本的なところから不自然だった。自分こそが場違いな侵入者に思えた。
後ろを振り返る余裕は無かった。声を上げて仲間を呼ぶのも熊を下手に刺激しそうでためらわれた。目だけを動かして見える範囲には、他の敵も出入口も見当たらない。
ジャングルジムくらいある茶色い毛むくじゃらが自分に敵意を抱いているのはよく分かった。軍の経験からくるものとは違う原始的な防衛本能。だから彼は撃った。動くものは撃て。それが命令。
頭を狙ったので熊が苦しんだ時間は殆どなかった。発射音が白い壁を何重にも跳ね返って消える前に熊は全く動かなくなった。銃の音に反応して何かが起こるのではないかと動かず耳を澄ませたが何も起こりはしなかった。白い部屋は再びどこか作為的な静けさに戻り、残ったのは銃口から漂う煙とその匂いだけ。
ショットガンを持った反政府主義者やロケットランチャーを担いだテロリストと近いようで遠い生物。こんなものがいるなんて情報は全くなかった。部屋の間取りが聞いた話と全く違うなんていうのはよくある話としても、敵が違う種というのはあんまりだと思った。
情報部め。誰もが初めての人生を生きていると言っても命を懸けた仕事だぞこれは。しかし……こりゃあのとき見たグリズリーよりでかいじゃないか。
悪態をつく過程でJはまた動物園のことを思い出した。父はあのときはっきりと強く怒ったわけではなかった。確かにフェアじゃなかったなと落ち込んでいる息子に父は「ほら、熊だ」と檻の前へと背中を押した。笑った者だって初めての人生を生きていたから。Jの父は自分の子供に対してそういう公平性のある人間だった。成長するにつれ、父のそういう所が堅苦しく思われ、いつか決定的な、言ってほしくない何かを言われるんじゃないかと距離をとるようになり、その背後にある優しさに触れることも少なくなった。まだ銃を構えたまま、思いは父自身、子供時代を過ごした故郷にまで及んだ。
嫌いになったわけじゃなかった。
だが自分は今、故郷の国から遠い場所にいて命を落とすかもしれない任務についていて、熊を殺した。どうしてこうなったんだっけな、その答えは全て自分の中にあることはわかっていた。ただまとまっていないだけで。そうして熊を見てまた思った。フェアじゃなかった、と。
Jはようやく振り返って後ろを確認した。蹴り開けた扉は見当たらないがそこには確かに入ってきたはずの出入口がある。でもそれは前衛的なポスターにも見えた。光も反射しないほど真っ黒なのだ。ポスターでないとするならば、その向こうに見えるはずの乾燥した大地、風で打ち付けられる砂で煤けた建物、何より異国であることを感じさせるスパイシーな大気は何処かへ消えていた。Jは壁に背をつけて暗闇の向こうへ問いかけた。
「誰か居るか!」
返答は沈黙。いるとすれば敵。同じ問いを無線に向けて発してみても応答なし。
彼はしばし考え、そして進むことに決めた。静かな真っ暗闇に進むのは怖い。だがここには逃げ場がなかった。動く熊はもう居ないが、自分のせいで動かなくなった熊といつまでも一緒にいるのも嫌だった。
彼は手榴弾のピンを抜いて暗闇に投げ込んだ。その爆発もやはり後に何も残しはしなかった。




