蜂蜜の棺桶
また明日。そう言って友達と別れ、いつも通り家のドアを開けただけだった。
妙に暗くて料理の匂いもしなかった。何かがおかしいと少年Bは思った。靴越しに感じる感触も自分の家のものではないように思われた。電気をつけようと扉から手を離すと夕方の光が差し込む隙間が急に細まって閉まると同時に明かりが付いた。そこは見たこともない真っ白な部屋だった。床や壁だけでなく机、ベッド、冷蔵庫全てが統一された白だった。振り返ってもそこにドアはなかった。叩こうが念入りに継ぎ目を探そうがそれはただのっぺりした壁だった。そして出口はなかった。
Bはもちろん混乱した。大声で叫び全体重をかけた飛び蹴りを壁に食らわせた。だが声変わり前の保護対象たるべきの声も、五十キロにも遠く及ばない身体での突進も部屋に何の変化ももたらさなかった。いくら耳を澄ましても耳鳴りのするほどの静けさだけがあった。
出口を探す過程でBは一匹のカナブンを見つけた。病院のような滑る床の上でそのエメラルド色に光る生き物は前に進もうと必死に六本の足を掻いていた。指で掴みとシミひとつないベッドのシーツの上に置くと、ようやく爪の引っかかる場所を見つけたカナブンはBから避難するようにとにかくがむしゃらに進んでいった。しばらく進むともうBのことは忘れたのか動かなくなったが、すぐにまた触覚をせわしなく動かしながらシーツの皺に沿って進み始めた。
その他に部屋にあったものといえば、立方体に近い真四角な部屋の隅に出っ張った直方体の個室の中に白い便器と白いトイレットペーパー。冷蔵庫の中の食料と机の中の筆記用具くらいなものだった。時間が経つに連れて天井に一つだけある照明は徐々にその光量を落としていった。その部屋での初めての夜、何の光もなくなって真っ黒になった部屋でBは泣きながら眠りについた。
夢から覚めて自分が白い部屋にいることを思い出したBはどうしようもなく寂しくなった。それまで見ていたハラハラする、でも楽しかった夢をゆっくりと明るさを増していく照明を眺めながら思い出そうとしたが、それはすでに思い出せない遠い世界になっていた。
元気がない時に食べないともっと元気がなくなってしまう、Bは母親から教わった言葉を思い出し、怒られるかも知れないと昨日は手を付けなかった冷蔵庫の中の食料を食べることにした。食欲があるわけではなかったので、真ん中に切れ目のあるサツマイモのような形をしたパンを半分ちぎって、それとチーズを少し齧った。カナブンを探すと彼、または彼女は天井の照明近くでじっとしていた。こんな部屋では何も食べるものがなかろうと冷蔵庫の袖の棚に並んでいる瓶の中に見つけた蜂蜜をその蓋いっぱいに注いで机の上に置いた。
昨日と同じように叫んだり壁に体当たりすることに飽きると、ベッドに仰向けになってカナブンを見た。クワガタだのカブトムシに比べて希少性という意味でいつもならそれほど興味を引くことのないその生物は、朝からほとんど動かず、全く何を考えているのか分からない奴ではあったが、それでも色のない部屋の中で唯一の仲間だった。
何の進展も無く二日目の夜が訪れ、前日と同じようにして彼は眠りについた。
翌朝目が覚めると部屋には二つの変化があった。一つ目はカナブンが蜂蜜の瓶の中で溺れ死んでいたこと。舐めやすい蓋の方に当然行くだろうなどという考えはBの勝手な思い込みに過ぎなかった。2つ目は壁に黒い穴が開いていたこと。入ってきた壁と対面している白い壁にカッターで切り取ったように長方形の穴が開いていてこの部屋から漏れる光ではその先に何があるのかは殆ど見えなかった。




