一口分のコーヒー
淡々と続く文章にしました。
ジャケットの内ポケットから携帯電話の振動音が胸に響く。俺は携帯電話をディスプレイには本社の表示。
「はい。笹川です。はい。はい。わかりました。明日、朝一で直接先方へ向かいます。その旨先方に伝言してください。」
地方での商談を終え、明日明後日とこの地方の神社仏閣を巡る予定だったが諦める意外の選択肢は用意されていない。
突然入った出張を理由に両親からの見合いをキャンセルしたことを思い出す。自宅に戻らず、ホテルにでも泊まろうかと考える。
憂鬱な気分になりながらも、これから向かう宿にキャンセルの連絡を入れ、キャンセル料の支払いについてフロントの女性に聞くと、暫くお待ちくださいと返答があり、電話の保留音が流れる。改めて腕時計に目を落とす。既に17時近い時刻になっているので夕食の仕込みは始まっているだろうし、100%の額での支払いになるだろうと、時計の秒針を眺めて待っていると保留が開け、再び先ほどの女性が出る。今、フロントに飛び込み客が有り、満室で断っている途中だったが先方に事情を話した所、先方から部屋と料理で承諾があったので今回は特別にキャンセル料は不要だと返答があった。電話越しに助かりましたと女性の声が微かに聞こえる。
用意してもらっていた料理等が無駄にならなかったことに安堵し、謝意を伝える。またのご予約を心よりお待ちしておりますと返答がある。必ずと心の中で約束をして通話を終了した。
タクシーを捕まえて、駅へ向かう。少し気持ちが軽くなったので母親に仕事の都合で急遽自宅に戻ることになったとメールを打つ。母親の機嫌を損なわない様に、夕食は不要と送信する。
駅に到着する。30分後に東京直通の新幹線が発車する。始発駅ということもあり、それほど混雑していないだろうと、自由席の券を購入する。ホームに入ると程なくして新幹線の車体が滑り込んできた。2人席の窓側に座って読みかけの推理小説を読んでいると、出張帰りのサラリーマンや週末にかけて東京で観光に行くと思しき人達でどんどん座席が埋まっていく。もう少し駅に着くのが遅くなっていたら、座席に座れなかったなと思いながら発車を待つ。
「すみません。席空いていますか。」
本から顔をあげると、女の子が一人立っていた。無言で頷く。
「ありがとうございます。」女の子は、よく通る声で言うと、トートバックを大きくした様な形の黒い鞄を座席の足下に置き、座席にストンと座る。手早く座席を調整すると、斜め掛けしていた別の緑色の帆布製の鞄から文庫本をそっと取り出すと目を落とした。
学生だろうか。ただ、今時の学生にしては化粧っけがない。香水の香りもなく安堵する。東京まで2時間近い時間を香水のキツい香りに我慢して過ごしたくはない。
女の子は膝頭を揃え、リラックスしながらも姿勢よく座っている。最近は女を全面に押し出し、顔面に笑顔を張りつけた香水臭い女性と接することが多く、辟易していた。彼女達も好きで厚化粧を施し、過剰なまでに香水を体に振りかけているのではないかもしれないが、俺はごく普通の女の子を見るとつい安心してしまう。年をとった影響かもしれないし、両親の言うきちんとした家庭という言葉に感化されているのかもしれない。
新幹線が出発してしばらく経つと近くで子供がぐずり始め、その内に泣く声が車内に響いた。本から顔を上げると通路を挟んで反対側の座席に泣く赤ん坊を抱いた母親とその隣に3、4歳位の男の子が座っている。鳴き声は大きくなる一方で皆一様に眉間に皺を寄せている。若い母親は何とか宥めようとしているが、上手くいかずに赤ん坊は泣きじゃくり、3、4歳の男の子は「さくらうるさーい」とかん高い声で何度もくりかえす。仕方がないと思いつつも耳障りな声に不快感が増していく。
「かわいいですね」
突然、隣に座る女の子が母親に話しかける。俺はついつい本から目をあげた。
「ありがとうございます。」
母親は一瞬びっくりした顔をしたが、すぐに顔に笑みを浮かべて返答する。幼い子がいると話しかけられることが多いのかもしれない。赤ん坊もびっくりしたのか一瞬泣き止んだがまたすぐにぐずり始める。
「私がだっこすると余計に泣いてしまうかもしれないけど、抱っこさせてもらえませんか?」
母親は女の子を少し見つめた後、お願いしますと言って立ち上がり、同じく立ち上がった女の子の腕に赤ん坊を引き渡した。赤ん坊はびっくりした顔をして女の子の顔をじっと見つめている。
赤ん坊の名前や生後月数等を聞いた後、女の子は座席に慎重に腰掛けた。
女の子は小声でしきりに赤ん坊に話しかけ、赤ん坊もその度に「あ、あー」と返事がある。
その様子に安心したのか母親は3、4歳の男の子の相手をし始めた。
穏やかなやりとりを耳にしながら推理小説を読み進めていると赤ん坊と隣の席に座る女の子のやりとりが途切れた。
赤ん坊を見ると俺に向かってよだれだらけの手を差し伸べている。女の子はその手を自分の方に向けようとしている所だった。
俺は赤ん坊に人差し指を差し伸べると小さな手が俺の手を握る。2、3回手を上下に振ると俺に興味を失ったのか赤ん坊はすぐに手を離して女の子を見つめている。
「ありがとうございます。」女の子はそう言って、穏やかに笑った。
白昼夢の様に俺が父親で女の子が奥さんで子供を挟んで笑い合う映像が脳裏に浮かび上がる。
「いえ。」俺は残像を振り払い答える。
「私も抱っこさせてもらえないかしら。」
60代位の女性が若い母親に話しかけた。母親が了承の返事をすると彼女は立ち上がり、赤ん坊を女性の腕に預けた。女性は母親の前の席に腰掛け、赤ん坊をあやし始める。
彼女と母親が短いやり取りを交わした後に、彼女は座席にストンと腰を降ろす。彼女はそっと鞄からハンカチを取り出し、注意深く胸元のよだれをぬぐう。しばらくして俺に何かを差し出してくるのを視界の隅で捉えた。俺は顔を上げる。
「あの・・・よかったらどうぞ。」彼女がウエットティッシュを差し出す。
俺の人差し指に気をつかってくれたらしい。不覚にも胸が高鳴る。
「どうも。」無愛想だったかなと思いつつ、俺はウエットティッシュを1枚抜き取る。
「どういたしまして」彼女が答える。そっとウエットティッシュを仕舞うと文庫本を取り出し、読み始める。
俺はつい横目で彼女の薬指に目を走らせる。めったにしない行動に自分でも驚きつつも、彼女の薬指を飾るものがないことに安堵する。彼女が車内販売でコーヒーを頼んだ瞬間に俺は賭けに出ることにした。
「私にも同じ物をください。」車内販売員の女性に声をかける。
「はいコーヒーですね。300円になります。お熱いのでお気をつけくださいませ。」
俺はコーヒーを受け取ると下ろしておいたテーブルに置く。
「間もなく終点東京です。最近忘れ物が多くなっております。乗客の皆様はお忘れ物がないかお荷物点検の上、下車下さいます様お願い致します。」
乗客がざわつき始め、荷物棚から荷物を下ろしたり、身の回りの点検をし始めた。
俺の前には冷めて冷えたコーヒー。紙カップの中には一口分のコーヒーが残されている。
60代の女性がいつの間にか熟睡していた赤ん坊をそっと壊れ物を扱う様に母親の腕に戻している。
彼女がその場面に目を取られた瞬間に、俺はわざと彼女の太もも目掛けて紙カップを倒す。
彼女のジーンズにコーヒーが染み込んでいく。俺は慌てた振りをして謝ると、彼女の膝の上の紙カップを取り上げてテーブルの上に置き、素早くハンカチを取り出して彼女に渡す。
「これで拭いてください。」
反射的にハンカチを受け取ってしまった彼女は、逡巡した後にハンカチをジーンズに充てる。俺は幾度目かの謝罪を口にする。
「大丈夫です。気にしないでください。」
電車がホームに滑り込む。乗客がチラチラと俺と彼女のやり取りを見ながら、立ち上がり通路に出る。
「それほど見えないですから、大丈夫ですよ。」彼女はそう言って立ち上がる。
「でも・・・」
「終点、東京。東京です。この電車は折り返し運転となります。今一度お忘れ物落とし物がないか点検の上、乗客の皆様は速やかに下車下さいます様、お願い致します。」
「とりあえず、降りましょう。」俺も自分の鞄をもって彼女の後ろに立つ。列が進み始めた所でするりと彼女が通路に出て、進み始める。
彼女に逃げられない様に俺も通路に出て彼女を追った。
彼女はそのまま立ち去るつもりの様で、俺は必死になって彼女の後を追ってホームで呼び止める。
「やっぱり、俺の気がすまないから弁償か、クリーニング代を出させてもらえないかな。」俺の言葉に彼女は黙考する。
「では構内にユニクロがあるのでそこで代わりのものを弁償して頂くということでもいいですか?」俺は頬が緩まない様に気を引き締めながら了承する。
無理矢理引き延ばした時間で彼女との細い糸を繋ぎ止められるか。それはまた次の機会に語ろう。
続きも考えてありますが、とりあえずこれで完結とします。
誤字脱字等がございましたらお知らせ頂けますと幸いです。
新幹線のアナウンスや販売員の方のセリフは適当です。その点、ご容赦下さいませ(何新幹線かは秘密ですが、ご指摘があれば修正致します。)。