八
早朝に新宿を出発したため、まだ昼前だ。
ホテルで訊くと、鉱山があった町まで電車で二十分ほどの距離だとのことで、康平と未明は取り敢えず行ってみることにした。
降りた駅はかつて鉱物の積み出しのために設置されたものだが、二十世紀末に閉山してからはすっかり廃れてきているらしく、無人駅だった。駅前の通りはシャッターの閉まった店が殆どで、人の姿もない。
ふと見下ろすと、未明が硬い顔をしている。
「どうした?」
「え……あ、いえ、なんでもないの……」
それが『なんでもない』顔か、と思いつつ、彼女に教える気がないなら仕方がないので、康平もそれ以上は突っ込まない。
「ちょっと歩けば鉱山跡に行けるみたいだぞ。行ってみるか?」
「そうね、見てみたい」
康平は頷くと、駅で買った地図を取り出し、道を確かめながら歩き出す。と言っても、実際には駅前の通りを右と左のどちらに進むか、ぐらいしかない。そもそも鉱山のために作られた駅なので、そこに到着するのは簡単なことだった。
打ち捨てられた建造物はたった数十年の間にすっかり廃墟と化している。敷地内には雑草が生い茂り、窓ガラスは全て板に張り替えられていた。
関係者以外立ち入り禁止の看板は出ているが、見張っている者もなく、康平と未明は奥へと進んでみた。
山の方へ行くと、あちらこちらが抉り取られており、土肌が剥き出しになっている。
かなり進んだ頃、それは現れた。
「あれ、坑道かな」
康平は呟くが、普通、廃坑となったら侵入できないように塞いでしまうのではないだろうか。だが、その隧道はポカリと口を開けている。当然、照明などついていないので中は真っ暗なのだが、それとは別に、何か不穏な冥さが漂っている
「入ってみるか?」
そう未明に問いかけると、彼女は少しためらった後、何かを確かめるように彼の胸元をちらりと見てから、頷いた。
「……行ってみたい。でも――あなたはここで待っていて、と言ったら、ダメ?」
「……はあ? 何言ってんの?」
あまりに突拍子もない未明の言葉に、康平は呆れた眼差しを返す。
「やっぱり、そういう返事よね……。わかったわ、行こう」
そう言って、康平の袖を握る。
妙なことを言うわりに暗いところが怖いのか、と思ったが、そうではないようだ。怯えている、というよりも、緊張しているように見える。
この少女が理解不能なことは今更なので、康平は軽く肩を竦めると、バックパックの中からマグライトを取り出した。その頑丈さから武器代わりにもなる優れものである。カチカチと何度か点灯させてから、隧道の中に足を踏み入れた。
中は意外なほどに広く、天井までの高さは三メートルほどありそうだ。中は何の補強もされておらず、どうやら坑道ではなく自然のもののようであった。
緩やかなカーブを進むうちに入り口からの光は徐々に届かなくなる。やがて、手元の灯りのみが頼りになった。
その暗さの所為か空気が密度を増したような気がして、康平は、一瞬、眩暈のようなものを覚える。と同時に未明の手に力が入り、微かに袖が引かれた。
「どうした?」
「信じられないかもしれないけれど……」
「え?」
「ここ、少し次元がずれてるの」
「はあ?」
間が抜けた反応をする康平の隣で、未明が身体を強張らせている。
「イヤな感じがするわ」
「あの金髪野郎が来るのか?」
「そうじゃない……もっと、イヤな感じ」
未明の目は、隧道の奥へと注がれている。
「どうする? 先に進むか?」
「ええ。行かないと」
その眼差しは、強い決意を秘めている。
自分には持ち得ないその強さからふと目を逸らし、康平は先に立って歩き始めた。
奥に進むほど、空気は重く、暗くなっていく。それは、『光源がない』というだけでは説明できない何かを孕んでいた。これ以上進んではいけないと、康平の本能が警告を発する。一人きりなら、康平はすぐにでも踵を返していただろう。だが、隣を歩く未明は、一歩も退く気配がなかった。
どれほど進んだ頃か、やがて前方が仄かに光を帯びていることに気付く。
「何だ、あれ……」
光と言っても、安堵を抱かせるものではない。むしろ、どこか不安を掻き立てられる。だが、未明の足は止まらなかった。
辿り着いたのは、行き止まりである――少なくとも、康平にはそう見えた。だが、目の前にあるのはただの岩壁の筈なのに、妙に居心地が悪い。それに、光源など何もないというのに、何故か未明の顔立ちまでハッキリと見て取れるほどの明るさがあった。尋常でないことは、特殊な感覚を持っていない康平にも嫌でも理解できた。
――一人だったら、さっさと出て行くぞ、こんなところ。
内心でボヤきながら隣を見下ろすと、彼が見たのと同じ壁を、未明は食い入るように見つめていた。
――不可思議な領域が日常である彼女には、自分には見えない何かが見えているのだろうか。
そんな康平の視線に気付いたように、視線は前に据えたまま、未明が口を開く。
「あなたも感じてはいるのね? でも、見えてはいない」
「お前には、何が見えているんだ?」
「……ヒトが見るべきではないものよ」
「俺にも見られるようにできるか?」
康平の言葉に、未明は首を振る。
「今なら、まだ『あなたの』現実のままでいられるわ。でも、『アレ』を見てしまったら、全てが変わってしまうかもしれない」
――それでも、見たいの?
言外に、未明が問い掛けてくる。
いったい、彼女には何が見えているというのか。
少なくとも、世界をバラ色にしてくれるものではないようだ。
『こちら側』に留まるか、『あちら側』に足を踏み入れるかの選択を委ねられ、康平は逡巡する。
未明が見せようとしているものは、間違いなく、康平を今の現実から引き剥がすものだろう。そして、彼女は見せるべきではないと考えている。だが、その『現実』とやらは、果たしてしがみついているだけの価値があるものなのだろうか。
この少女にとって、この世界にいる『あちら側』の者は、敵だけである。どうせ彼女は、いつかは去っていく者だ。ここにいる間だけでも、助けてやると言ってしまった限りは、同じものを見て、同じ感覚を共有してやるべきなのだろう。
「いいよ、見せてくれよ」
「本当に?」
「ああ。くどい」
そう言われても、まだ未明は迷っているようだった。しかし、キュッと唇を引き結ぶと、覚悟を決めたように康平を見上げる。
「少し屈んでくれる?」
言われるがままに康平が腰を落とすと、スイ、と彼女が手を伸ばした。
「目を閉じて」
指示に従った康平の眼瞼に、細く柔らかな指先が触れる。未明がいつものように、いわゆる『呪文』なのだろうと思われる詞を謳うように口ずさんだ。と、次第にその指先が温かくなっていく。
「……いいよ。目を開けて」
そう言われるが、目の奥がチカチカして開けようとすると眩暈がする。何度か強く瞬きをして、ようやくうっすらと開くことができるようになった。
が。
「――ッ!!」
康平は、ぼやける視界に飛び込んできたものに叫び声をあげずにいるのが精一杯だった。
岩の壁だと思っていたところには亀裂が入り、その奥で何かが蠢いている。それは、毛皮を持つ『何か』だ。だが、何モノだとしても、その大きさは計り知れない。亀裂一杯に、褐色とも黒色ともつかない、どこかぬめついた暗色の毛皮の壁がゆるゆるとのたうっているのだ。そして、亀裂からは、なんともおぞましい気配が、濃い霧のように滲み出してきている。
「アレは、何だ? お前は、アレが何か知っているのか……? お前の世界には、あんなものがいるのか?」
康平は、自分の声が上ずるのを抑えることはできなかった。亀裂を押し破って、得体の知れないあの化け物が今にも這い出てきそうな気がする。
「アレは――『地に棲まうもの』ガンド。でも、大丈夫。あそことこことは次元が違うから――!」
言いかけ、唐突に、未明が康平を引きずり倒す。
不意を突かれて危うく彼女を下敷きにするところを、辛うじて抱き止め、横に転がった。
「何――」
するんだよ、そう続けようとして、康平は言葉を失う。なんとなれば、今二人がいたその場所を、一抱えもある火球が飛び過ぎて行ったからだ。火球は隧道の壁を抉り取って消え失せる。
未明を腕の中に包んで地面に転がったままの康平を、二発目の火球が襲った。
咄嗟に未明を小脇に抱えると、横に跳ぶ。
だが、三発目。それは康平が跳んだ先を狙うように向けられていた。
――当たる!
康平は全身で未明を覆い隠そうとしたが、その意に反し、彼女は康平の脇から片手を突き出してしまう。
「バカ!」
思わず怒鳴ったが、未明の微かな呟き声が耳に届く。
迫っていた火球は、未明の手のひらの先――二人まであと十センチ、というところで一瞬にして消え失せた。音も立てず、煙一つ残さずに。
「な……んだ……」
安堵の息が康平の口から漏れてしまう。多分、この手のことに関しては、この少女はほぼ無敵なのだ。きっと、彼が庇う必要など、全くないに違いない。
腕を解き、未明を解放する。彼女は身体を起こすと、暗がりへと――火球が飛んできた方向へと目を凝らした。
元々一章のものを切ったので、ちょっと中途半端かもです。