五
アレイス・カーレンの襲撃から一週間が経った日。
朝起きてきた未明が康平を手招きした。
「何だ?」
「いいから座って、座って」
リビングのソファに康平を座らせると、部屋の四隅に行き、床に指先で何かを書いた。康平が伸び上がってその場所を見ても、何もない。
四つの角に全て同じことをし終えると、未明は康平の目の前に戻ってくる。
「黙って見ててね」
そう笑いかけると、未明は両手を組んで目を閉じる。その唇が二言三言、何かを呟いているのが見て取れたが、声までは聞き取れなかった。
それは、ほんのわずかな時間で。
「――?」
未明の指先に炎が宿り、ふっと宙に浮く。それはクルクルと舞い、やがて二つ、そして四つに分かれた。
「どう?」
その火の玉を康平の目の前に一列に並ばせると、未明が首を傾げる。康平は思わず火の玉の上下左右に手をかざし、糸がないかと探ってしまった。当然、何もない。手品だとすれば、天才的な腕前だ。
「どうって言われても……」
話で聞き、信じたつもりになっていたが、実際に目の当たりにするとやはり驚きは半端ない。これで、心底から信じないわけにはいかなくなった――異世界や魔法の話を。
「力は完全に戻ったわ。これで、追っ手とも戦える」
そう言うと、未明は手をきゅっと握る。と、同時に、四つの炎も掻き消えた。
「どういう仕組みなんだか」
「仕組みって言っても……私の世界とこことは、根本的な法則が違うから……」
「法則?」
「そう。この世界の『物理』というのも調べてみたけど、さっぱり解らないわ。同じように、『魔術』を説明しても解らないと思うし、説明のしようがないの」
そう言う未明に、康平は肩を竦めてみせる。
「物理なんて、あんなもの俺にも説明できねぇよ」
「え?でも、学んだんでしょ?」
「俺は学校ってとこに行ってないからな」
「あれ、でも、この国は――日本は『義務教育』っていうのがあって、殆どの子どもは『高校』というところに通って勉強するって……」
「俺はそのくらいの年の時には、日本にいなかったんだよ」
「『教育』はこの国だけのことなの?」
調べたことと事実が一致せず眉を寄せる未明に、康平は片手を振る。
「人生色々ある奴もいるんだよ」
それ以上の説明は拒んで、その台詞で康平は話を打ち切る。そんな彼を未明はジッと見つめたが、諦めたように溜息をついた。
「……まぁ、いいわ。これを持っていて」
「……何だ?」
未明に差し出されたものを受け取って、裏表をためつすがめつする。それは鎖を通したコインのように見えるが、康平がこれまでに目にしたどの国のものとも違っていた。金属の光沢とは別に、仄かな光を帯びている。
「護符よ。一度だけ、あなたに向けられた魔力の大半を無効化するわ。完全に防御することはできないけれど、護りになる筈よ」
「あれ、でも、魔法でこの世界の人間を害することはできない、とか何とか言っていなかったか?」
「そうだけど……念の為よ」
どことなく切れが悪い未明の言い方に康平は引っかかりを覚えたが、何ぶんにも未知の領域の話だ。きっと、彼らには彼らなりの法則があるのだろう、と納得する。いずれにせよ、一生のお付き合いというわけではないのだ。深く突っ込む必要はない。
受け取った護符とやらを首にかけ、康平は立ち上がる。
「飯にしようぜ。腹減ったよ」
そう言いながら、キッチンに行き、朝食の準備に取り掛かった。
彼の背中を見送った未明は、ふと疑問を覚える。
――康平はずいぶんすんなりと自分のことを受け入れているが、この世界の人間はそういうものなのだろうか。
魔術というものに慣れ親しんでいるならともかく、この世界では眉唾な領域として認識されている筈だ。未明は、これほど抵抗なく受け止められるとは思っていなかった。
普通は、現実がひっくり返されるような、とんでもないことではないかと思うのだが。
――ある意味、『どうでもいい』の……?
康平からは、あまり『芯』というものを感じられない。柔軟といえば聞こえがいいのだが、全てに関して『投げやり』な気がする。
一方で、アレイスから助けてくれた時は、怖いほどの気を放っていた。
その二面性は、時折彼から漂ってくる『翳』と関係があるのだろうか。
未明は、図らずも一時頼ることになった相手に関して、いまひとつ人となりを見極めかねていた。