十二
新宿の街並みを、康平と未明は門屋の事務所に向かって歩いていた。
「結局、その紐って何なんだ?」
康平は、未明が手にする包みを見やった。布で何重にも包まれたそれの中身は、例の『魔道書』を封じた剣である。康平にはよくわからない方法で未明が剣の中にアレを入れた後、彼女は『仕上げ』とばかりに、門屋からもらった組紐で縛り上げたのだ。
「ふふ。『お守り』なのよ」
含みを持った未明の笑顔は、門屋と彼女の間に何かがあるような邪推を康平に抱かせる。それは、なんとも、面白くない。しかし、あんな冴えないおっさんにやきもちを妬いていると思われるのもイヤなので、康平は軽く受け流すふりをするしかなかった。
「まあ、いいけどよ」
そう呟いた康平の耳に、クスクスと忍び笑いが届いてくる。
――ちぇ。
内心で舌打ちし、彼は話題を変える。
「でもよ、ホントにそれをアイツに預けちまっていいのか?」
「うん。だって、なんでか、世界で一番安全な気がしない? 彼が亡くなる時には、私たちがまた受け取ればいいんだし」
そう言って、未明はニッコリ笑う。
年齢から考えれば、三人の中で門屋が一番早くこの世からおさらばする筈だが、何故か康平にはそう思えない。
――この世の全てが死に絶えても、あのおっさんは生き残りそうだよな。
そう、全てがなくなった世界でも、変わらずヘラヘラ笑いながら同じ場所に座っているような気がする。
恐ろしいような、ユニークなような絵面を思い浮かべながら歩いていると、じきに目的地に到着した。
部屋に入る前に、康平はチラリと未明を見下ろす。
――きっと、何か言われるよなぁ。
そう、今の未明を見て、何も言わないわけがない。だが、いずれバレるのであれば、それが今でも同じことだろう。
覚悟を決めて、康平は事務所のドアを開けた。
いつものように声を掛け、いつものように廊下を進む。
そして、いつものように、能天気な声が響いた。
「やあ、いらっしゃい、康平君、未明ちゃん。元気だった?」
糸のように細いメガネの奥の目が康平に向けられ、次いで未明に向けられる。彼女を見つけた門屋の目は、普段の五倍ほどに見開かれた。
「おや? おやおや?」
「こんにちは」
そういう挨拶している場合じゃないだろう、と康平は突っ込みたくなるが、敢えて黙っておいた。その間にも、門屋の視線が未明と康平を往復する。
「これは、これは……」
学者が珍しいものを見る眼差しで未明を眺め、そして、にんまりする。
「残念、康平君。あと四、五年、てとこかな」
「ちょっと、待て! 突っ込むのはそこかよ!?」
『そのこと』には触れずにおいてくれる方がありがたいというのに、あまりにあまりな門屋の反応に、康平は思わず声を上げてしまう。
「んー、なんか、急に大きくなったよねぇ」
非常に瑣末なことのように、門屋は気軽に頷いた。
だが、普通は『たいしたこと』の筈だ。
何故ならば。
今の未明は、十歳ではない。さりとて、あの、成人女性の姿でもない。その中間の十四、五歳というところだった。非常に中途半端な年齢で、明らかに以前とは違うのに、全くの別人として紹介することもできないのだ。
未明自身は門屋への説明について、最初から特に何も思っていないようだった。単にこの世界における現実認識能力の欠如によるものなのだろうと、康平は考えていたのだが。いずれにしても、どうしようもないことなので、取り敢えずは、門屋の反応を見てから対応しようと思っていたというのに……。
あまりに、あっさり流され過ぎる。一人で思い悩んでいた自分が、バカみたいに思えてきて、なんだか、全てがどうでもよくなってくる。
脱力した康平のジャケットの裾を、未明が引いた。そして、無言で手にしたものを示す。
現実世界に呼び戻された康平は、肩の力が抜けた気持ちで彼女に頷いた。
未明が差し出したものを受け取り、門屋のデスクの上に置く。
「これを保管しておいてくれよ。あんたがくたばる時にはまた返してもらうぜ」
「何?」
「あんたが言っていた、海に沈んだ剣だよ」
「へえ……、よく見つけたねぇ」
感心したように門屋が言い、にんまりと笑う。どこか胡散臭いような気がするのは、康平の邪推だろうか。
門屋は、中身も検めずに、それをいそいそとデスクの引き出しの中に仕舞おうとする。
「中、見ねぇの?」
いつもの彼らしくない行動に、康平が思わず声を掛けた。そんな珍しいものであれば、ダメと言っても見るのが門屋だ。だが、彼は、満面の笑みを返す。
「後で、じっくりと見させてもらうよ。じっくりとね」
まるで、二人が去ったら舐めしゃぶりそうな言い方だった。康平は、ちょっとイヤな顔をする。いずれ返してもらう予定のモノに、あまり変なことはして欲しくなかったが。
「まあ、もうどうでもいいよ、どうでも。とにかく、大事にしてくれよ?」
「任せて」
恐らく、本当にここが一番『安全』なのだろう。理屈ではなく本能で、康平はそう理解する。もしも核爆弾が落ちたとしても、ここなら大丈夫なような気すらした。
「じゃあ、またな」
康平は門屋に手を振り、未明を促して事務所を後にする。
「じゃあね、お幸せに」
立ち去る二人の背中に、門屋がそう声を掛ける。多分、いつものニヤニヤ笑いを浮かべて。
振り返ることのなかった康平が、それを目にすることは、なかった。
*
帰り道。
康平と未明は戦っていた――本日の夕食について。
「だから、私が作るってば。やらせてよ」
「いい。食事は、一生俺が作る。あんな悪夢はゴメンだ」
「でも、やらないといつまでたっても上達しないでしょ?」
そう言って、未明は康平の腕にすがってくる。ピタリと彼女の体の前面が彼の腕に密着した。
その手から、彼はさりげなく逃れる。
この外見になってから、康平は、少々彼女の扱いに困っていた。何しろ微妙な年頃なのだ。以前の姿なら、そもそも『そういう気』が起こらなかった。当然だ。あんな子どもの姿にサカるようだったら、単なる変態だろう。大人の姿の時なら、何をしても許される――本人の同意があれば。だが、今の姿は、手を出すには躊躇する年のようだというのに、不意に、妙に大人びて見えるのだ。本人に自覚はないから、何もためらうことなく、接触してくる。
未明があの『魔道書』を身体に受け入れた時、彼女は十歳程度だったらしい。だが、その後、どれほどの時が流れたのかは、判らないという。一年かもしれないし、百年かもしれない。自分が実際にはどれほどの年なのか判らないのだと、彼女は少し寂しそうに言った。
未明が何歳なのだろうと、それ自体はある意味どうでもいいことだ。だが、彼女に対してナニができるかという点には、大いに年齢が影響する。
後、五年――いや、せめて三年。
そのぐらいは待たなければ、ならないだろう。
深々と溜息をついた康平に、未明がへそを曲げる。
「そんなに、イヤなの!?」
「そうじゃねぇよ。それじゃ、逆に、何でそんなに料理したいんだよ。作ってやるって言ってるだろ? 楽でいいじゃねぇか」
康平のその言葉に、未明の足が止まった。
「未明?」
「だって……今までは、『料理』ってものを知らなかったんだもの」
未明が、ジッと上目遣いで見つめてくる。
止めてくれよ、それ、と目を逸らしつつ、康平は先を促した。
「どういうことだよ?」
「『料理』を知らなかったの! 他にも、色々。今までは、ただ命を守ることだけが目標だったから……。食べ物の味なんて考えたことなかったし」
未明のその言葉に、康平はハッと胸を突かれる。
確かに、『命を保つ』ことと『生きる』ことは似て非なるものだ。それは、康平自身も知っている。
うつむいている未明のつむじを、康平は見下ろす。
突然胸に込み上げてくるのは、どうしようもないほどの愛おしさだ。
手を伸ばして、頭を撫でる。
だが、それだけではこの気持ちは収まらない。
両腕を伸ばして捉えた身体を、引き寄せる。
「康平?」
胸の辺りでモソモソと未明の声が響くが、構わず腕に力を込めた。
「しょうがねぇな」
「?」
腕の中で、未明が首を傾げる。
――ああ、もうどうしてくれよう。
自分の中に、誰かをこれほど強く想う気持ちが生まれようとは、思っていなかった。きっと、一生、独りで生きていくのだと思っていたのに。
「もう、何でも付き合ってやるよ。あのクソまずい料理だろうが、なんだろうが」
康平の言い草に未明が抗議の声をあげるのが聞こえたが、彼は笑って受け流した。
これが、『幸せ』というものなのだろう。
こうして未明を腕の中に入れていると、幼い頃に失った何かを、取り戻したような気持ちになる。
もう、二度と手放したくない――手放せない。
そろそろ苦しくなってきたらしい未明の手が、パタパタと彼の背中を叩いて、ようやく康平は彼女を解放した。
彼は心中で祈る。
永遠は、いらない。けれども、未明が――彼女が生きている間だけは、この日常が続いていくことを。