十一
――眠い。
『グールムアール』の魔力を使い果たし、少なからぬ生命力も消耗し、何処とも知れぬ場所を、未明はゆらゆらと漂っていた。
このまま身を任せていれば、この世界に溶けてしまえるのかもしれない。そんなふうにすら思える心地良さだった。
未明は、更に深い眠りに潜り込もうとする。
が、不意に。
――誰?
名前を呼ばれたような気がした。その声の持ち主を、自分はとても良く知っている筈なのに、思い出せない。
その声に呼ばれると、何かが胸にこみ上げてくる。その想いは、いったい何なのだろう。
――私は頑張ったんだから、もう、眠っていてもいいでしょう? どうせ私にはもう帰る場所なんてないんだから、どこで眠ったっていいじゃない。
誰ともつかない相手に、囁きかける。そうしておいて、再び眠りに落ちようとする彼女を、また、誰かが呼ぶ。
何度も何度も呼ばれ、未明は、ほんの少し、その声に気を向ける。
――あれ? なんだか、暖かい……。
それを意識した途端、身体の中心に何かが注ぎ込まれていくような心地良さを覚える。
空っぽだった彼女の中が、次第に満たされていく。
そして、繰り返される、呼び声。
それが届くたびに覚える感覚は、『愛おしい』――そう、愛おしいのだ、その声は。
――康平。
未明は、その名を思い出す。忘れようのない想いと共に。
――彼が、私の還る場所。私は、彼と生きて行く。
はっきりと自覚した未明を、グイと何かが引き寄せる。
辿り着く場所を、彼女は知っていた――そこで待っている者も。
*
未明はパチリと目を開けた。
眠いけれども、耐えられないほどではない。
間近にあるのは、自分を見てあからさまにホッと緩んだ、誰よりも大事な人の顔。頬に傷はあるけれど、彼女の身体を抱え込む力は、強い。
「康平」
名前を呼んで、微笑む。フニャリと、勝手に顔が動いた。
その直後、痛いほどに抱き締められて、ちょっと息が詰まる。心地の良い苦しさを噛み締めながら、未明は手を伸ばして彼の頭を撫でた。が、近くにある気配に首を巡らせる。
視界に入ってきたのは、ボロボロになった、アレイスの姿だった。
「え――?」
思わず康平を押し退けて、そちらへ身を乗り出した。
「どうして? 何があったの?」
「お前を庇ったんだ」
ふらつく未明を支えながら、康平がそう呟く。
彼女の声に気付いたのか、ふと、アレイスの片目が開かれた。その焦点は定まっておらず、未明の姿は認識できていないのだろうと察せられる。
「アレイス・カーレン……」
「ミアカスール……戻りましたか……」
アレイスの声は微かなもので、口元に耳を寄せないと聞き取ることが難しかった。
「なんで、なの……?」
『なんで』が何を問うものなのか、未明自身もよく判っていなかった。だが、アレイスは『何故庇ったのか』と理解したようだ。
「『グールムアール』を、壊すわけには……いきませんから……」
途切れ途切れに、それでも彼の口元には笑みが浮かぶ。
「私ね、『コレ』を手放すわ。封印するの」
未明の決意を伝えても、アレイスの微笑みは消えない。いや、むしろ、深くなったようにも見えた。
「そうですか……」
短く答えて、再び目を閉じる。
アレイスは、ずっと未明を狙い、追いかけ続け、確かに『敵』という存在ではあった。だが、それと同時に、彼女に残された、数少ない『仲間』でもあったのだ――二度と戻れない『故郷』をつながりとした。
「キ・サム・エ・フォロ・アピム」
未明の言葉と共に、彼女の両手の中に光が現われる。初めは小さく、次第に大きくなっていく。やがてそれは、彼女の両手のひらに包める程度の大きさの、何色ともつかない輝きを放つ珠となった。
「アレイス?」
その珠を手にしたまま、未明がそっと声を掛ける。
彼は辛うじてわずかに眼瞼を上げて、視線を未明の方へと向けた。
「……ああ……」
呻いたアレイスが、その珠に向けて碌に動かない手を伸ばす。彼女は頷き、珠をアレイスに差し出し、彼の鳩尾の辺りに置いた。
「ああ、ようやく……『グールムアール』……」
魔力は失われていても紛いようのないその特異な存在に、アレイスの顔はうっとりと緩む。そして、程なく、珠に触れている部分から、彼の身体が光の粒子となって解け始めた。破壊されているのか、吸収されているのかは、判らない。だが、アレイスの身体は静かに消滅していく。
その様を見守る未明の手が、康平を求めた。震える手で探り当てた彼は、力強く握り返してくれる。
やがて全てが終わり、アレイスの身体は痕跡一つ残らず、消え失せた。
彼の身体が横たわっていた場所を見つめたまま、未明がポツリと呟く。
「キンベルも、なんだよね……?」
康平は、問い返すことなく、ただ頷いた。それで、未明は全てを知る。
「そっか……。私、一人になっちゃったなぁ」
苦笑と共に、そう呟く。だが、その彼女の身体を、康平が強く抱き締めた。
「違う。俺がいるだろう? お前は、これから独りじゃなくなるんだ」
耳元で言い含めるように囁きながら全身で包み込まれて、未明の身体の震えが次第に治まっていく。
「うん……うん。そうだね」
自分の両手を、精一杯彼に伸ばす。
「私は、私を生きるんだ――康平と一緒に」
夜空に輝くのは、真円の、満月。
それは、未明にとって常に悲しみと寂しさを伴うものだった――これまでは。
けれども、今日からは、ただ美しいと思えるものになる。
康平と二人で、感動と共に見上げていけるのだ。