十
地面を蹴った康平は、一気にキンベルとの距離を詰める。
「愚か者が!」
真っ直ぐに走り込む康平に向けて、怒声とともに、キンベルが剣を薙ぐ。康平はそれを身を屈めてかわし、そのまま掬い取るようにして砂を掴むと、迷いなく巨漢の顔面に向けて投げつけた。
「ぐぉッ!?」
咄嗟に腕を上げて目潰しを阻止したキンベルに、隙ができる。康平はそれを逃さず、ナイフを繰り出した。二〇センチの身長差は大きく、康平が標的にしたのは胴だった。腎臓を狙った切っ先は、しかし、かろうじて身を引いたキンベルの脇腹を削ぐに留まる。
「ふんッ!!」
返した剣を振り上げ、キンベルが康平めがけて両手の力で切り下ろす。渾身の力が込められたそれをナイフのバックで受け、康平はキンベルと間近で睨み合う。ウェイトの差も三〇キロ以上ある状態での力比べは、不利だった。覆い被さるようにして力をかけてくる巨体に、康平はジリジリと押され始めた。
と、不意に。
今にも膝を突きそうだった康平が、フッと力を抜く。
「!」
唐突に抵抗がなくなり、キンベルが前のめりになる。その拍子に彼の大剣が康平の腕を削いでいったが、気に留めなかった。近付いた喉元めがけて、ナイフを滑らせる。
康平の手に伝わる、肉を裂く感触。だが、それは浅い。
「チッ!」
康平が、思わず小さな舌打ちを漏らす。キンベルが押さえている首からはどす黒いものが流れ出しているが、その出方は静脈だ。彼が狙ったのは、頚動脈だったのだが。
康平は、一度後方に跳んで大剣の間合いから離れ、瞬時に判断する。
やはり、上方は狙いにくい。首から下に絞った方がよさそうだった。
と、なれば――。
彼の目の前で、ゆらりと大きな体が立ち上がる。その首筋を伝うものには、全く頓着していないようだった。康平が剣の間合いにないことを見て取ったキンベルが、異世界の言葉を口にする。
――炎ではない。
そう思った瞬間、康平は勘が命じるままに、横に跳んでいた。直後、たった今まで彼がいた場所を稲光が竅つ。それは走る康平を続けざまに狙う。雷光が閃く度に、地が抉られた。
――やっぱり、離れると不利だな。
魔法は銃よりも厄介だ。銃であればある程度弾道が読めるが、魔法はさっぱりわからない。
逃げ回るだけでは埒が明かないと、康平は決意する。
自分に向かって走り出した康平を目にし、キンベルが再び呪文を唱える。
その言葉は、先ほどのものとは違った。だが、また、炎でもない。不可視の何かは、確かに放たれていた。
――何だ?
そう思った瞬間、康平は走り続けたまま、ふっと上体をずらす。わずかな差で、彼の頬がスパリと切れた。
――風か。
第二刃はない。その前に、康平はキンベルの懐に入り込んでいた。
ギン、ギィン、と、康平が繰り出すナイフとそれを防ぐキンベルの大剣の音が、闇を切り裂く。
三合、五合、七合……ナイフと大剣の攻防は、いつまでも続くかのように思えた。
が。
不意を突き、康平は膝を蹴り上げた。
捉えたのは、金的である。
「グッ!」
息を呑んだキンベルの腕が、止まる。
直後――。
康平は、キンベルの鳩尾から、ほぼ真上に向けてナイフを捻じ込んでいた。鋭い刃が柔らかな皮膚を破り、弾力のあるものに突き刺さっていく。
「グ……アァッ!!」
苦悶の絶叫が、響き渡る。
差し込んだナイフを、康平は、左右に振る。それは、確実にキンベルの心臓を切り裂いた。
ナイフを抜き去れば、出血を止めるものはなくなり、間もなく死に至るだろう。
キンベルの顔が、無念と苦痛で歪む。
「ぐ……ぅ……。この地で、終わりか……。だが、俺は!!」
最期の、怒号。
それと共に、キンベルの全身が巨大な松明と化した。
「――!」
康平の身体も炎に包まれる――と思った瞬間、彼の胸元から眩い光が放たれ、キンベルの炎から護るように全身を包み込んだ。その現象は、以前にも経験した事があった。
――未明のアレか……。
その輝きに護られたまま、康平はナイフを引き抜きざまに後ずさる。
「俺は……俺は!!」
炎そのものと化し、発声器官が無事だとは思えないというのに、キンベルからは呻くような声が発せられた。彼の魔力と命と執念を糧に一気に燃え上がった炎は、巨大な火弾へと形を変える。その威力が途方もないものであることは、魔術に関して無知な康平でもいやというほどに理解できた。
「我が、神よ……」
呻くようなその声と共に、キンベルの身体は崩れ落ち、小さくなっていく。
そして。
呆然と見つめる康平の前で、主のいなくなったそれは、真っ直ぐに放たれた。
その先にいるのは――。
「しまった!!」
康平は炎を追いかけ未明の元へ走るが、到底間に合わない。
「未明!!」
叫んだところで、彼女を無敵にしていたものは、今、そこにはない。
――あいつはここに残ると……俺と共に生きると決めたのに、結局は、また失うのか?
未明までの距離は短い。だが、それは永遠に続くかのようだった。
――あと、もう少しだろう!?
彼の脚は止まらない。だが、行き着く先にあるものは、もはや絶望だけだ。
――間に、合わない!
炎が、未明を襲う。
康平が絶望に打ちのめされそうになった、その時。
唐突に炎が停止する。いや、まるでグラブに収まったボールのように、回転しながらその進行が阻止されているのだ。康平は思わず脚を止め、息を呑んでその攻防を見守る。
長い時は必要とされなかった。
火弾が一際大きく輝いたかと思うと、限界まで膨らんだ風船が破裂するかのように弾けとんだ。と同時に、その陰から何かが吹き飛ばされ、欄干に叩きつけられて、止まった。
そのゴスッという音に、一連の光景に眼を奪われていた康平が我に返る。未明の元に駆け寄り、その身にかすり傷一つ付いていないことに、心底から安堵した。一度強く抱き締めてから抱え上げ、欄干の前に崩れ落ちているものに歩み寄った。
それが身にまとう黒衣はあちらこちらが焼け焦げ、豪奢だった金髪も殆どが黒く縮れている。全身に火傷を負ったその身体が長くはもたないということが、これまでに何度も死を見送ってきた康平には、よく判った。
未明を抱いたまま、康平は膝を突く。
「アレイス」
呼びかけに、彼はうっすらと右目を開ける。片目は、失われていた。
「ミアカスールは……『グールムアール』は、無事ですか……?」
「傷一つない」
「そうですか……はやく、彼女を呼び戻しなさい……そのまま、数日眠り込むことに、なりますよ。……いつまでも、肉体を放置しておくものではありません」
「けどな、名前を呼んで聞こえるわけでもないだろう」
さっさと取り戻したいのは山々なのだが、康平からできる事もなく、憮然としてアレイスに返す。だが、瀕死の男は、微かに笑みを浮かべて、一つ残った目で康平の左手を見た。そこにあるのは、未明と彼を結ぶ、見えない鎖だ。
「貴方は、彼女と繋がっているでしょう? 『コム・ウ・ミアカスール』と……彼女を想って……」
それだけ言うと、彼は目を閉じる。まだ、微かな呼吸と脈拍は感じ取れた。
「未明……『コム・ウ・ミアカスール――未明』」
唱えながら、ただひたすら、未明のことだけを想った。康平は、自分の身体から左手を通って何かが流れ出ていくのを感じる。
この腕の中に、確かに温かな身体は存在している。だが、それだけでは『未明』ではない。
笑って、怒って、拗ねて、泣く。
それが、康平の求める未明なのだから。
「未明――速く、ここに還って来い」
――自分の、この腕の中へ――。
康平は未明の身体に顔を埋め、願った。