九
古戦場跡から臨む海は、大荒れだった。
空には、雨も風もない。ただ、海だけが波立っている。特に際立っているのは、関門橋の真下辺り――すなわち、『亀裂』がある場所である。
「間違いなく、『亀裂』の所為ね。でも、こんなに外に影響が出ているなんて……嫌な予感がする」
海を見据えていた未明が、振り返った。
「康平、私、行って来る。多分、キンベルが来ると思うわ。それに、アレイスも」
「大丈夫、俺がきっちり相手してやるさ」
「お願いね」
信頼の笑みを残して出発しようとした未明だが、ふと思い出したように目を開いた。
「そういえば、私のあげた護符は持っているよね?」
「ああ、あるぜ」
「それ、ちゃんと自分で使ってね。私の身体に使おうなんて考えたって、無駄なんだからね」
康平は、図星を指されて動きが止まる。
「やっぱりね。あの護符は装着者の精神エネルギーを増幅して効果を発揮するものだから、抜け殻になった私の身体では使えないの。だから、ちゃんと康平自身で使ってよ?」
そう言って睨まれた康平は、肩を竦めて返した。最後にもう一度念を押して、未明は海の底へと飛ぶ。
康平は倒れ伏す前に『抜け殻』を捉えて抱き上げると、少し離れた場所に建てられた知盛と義経の像の間に寄りかからせた。二つの像の間であれば、多少のガードになってくれるだろう。持ってきておいた例の剣を彼女の胸の上に置き、その上から自分のジャケットをかける。最後に、頬に口付けた。
そうしておいて、腰の後ろに挿しておいたコンバットナイフを抜き去りつつ振り返る。少しでも未明の力を温存するため、彼女が康平の左手に刻んだ文様の力を使うつもりはなかった。
「さあ、始めようか? 不意打ちは無駄だと、もう思い知っただろう?」
康平が視線を向けているのは、街灯と街灯の間の、暗がり。その暗さは不自然なほどの闇を作っている。ジッと睨み据える彼の眼差しに先に、のっそりと、漆黒の巨体が現われる。
「……ミアカスールは我が神の元か」
低い声が、荒れ狂う波の音を縫って響く。
「ああ。あんたの尊敬する化けモンを封じに行ったよ。未明とあんたの追いかけっこも、ここでお終いにさせてもらうぜ。あんたがこれからおとなしく生きてってくれるなら、『さようなら』だ。これからも色々ちょっかいを出すつもりなら……今ここで殺す」
何の気負いもなく、康平は最後の言葉を口にする。彼にとって、それは能力的にも、心理的にも容易なことだ。キンベルに選択肢を与えたのは、単に未明であればそう望むだろうと思ったからで、彼自身としては、さっさと片を着けてしまいたかった。
康平の目の前で、キンベルが返事の代わりに大剣を抜き放つ。
「やっぱり、そうだよな」
呟いた彼の唇は、不敵な笑みの形を刻む。
そうして、一気に地面を蹴った。
*
目指した場所に辿り着いた未明は、決意と共に、それを見据えた。
『亀裂』は初めて見た時とは比較にならないほどに拡がっており、あろうことか、数本の触手がそこから伸ばされているではないか。まるで、『亀裂』という産道を通って、この世界に産まれ出ようとしているかのようだった。
――そんなこと、させない。
決意を秘めて、未明は、両腕を前に向けて真っ直ぐに伸ばす。声を出せない分、より集中を要する。その上、精神体では彼女自身が『グールムアール』そのものとも言える状態になる為、放出する魔力も桁外れになるのだ。故に、これまで、未明は精神体で『グールムアール』の魔力を解放させたことはなかった。その力が暴走しないように、コントロールに細心の注意を払わねばならない。
――キ・サム・エ・スト・シャム。
慎重に、確実に、未明は呪文を唱える。それに答えた『グールムアール』が力を放出し始めると、彼女の全身が光を帯び、次第に強まっていく。
――アラーラ・ナム・ト・オル・フォル。
そう、世界はあるべき姿に戻るべきなのだ――彼女自身も含めて。『グールムアール』を封印し、未明は未明を取り戻す。
――ディ・ウァル・ズ・ユヌ・バール。
世界は変わらない。決して変えさせない。そして、次へ繋いでみせる。
呪文に決意を上書きし、未明は身体中に漲る力に方向性を持たせ、一気に解き放った。
未明から放たれる魔力は、質量を持って『亀裂』に向かい、そこからもがき出ようとしているオスラムの触手を押し戻す。欲望を妨げられた怪異は、キイともギイともつかない、聞く者の神経を掻き毟るような雄叫びで海水を震わせた。
両者の力は拮抗か、あるいは、未明の方がわずかに勝っているかのように見えた。だが、決定的な差ではない。それは即ち、未明の敗北を意味する。何故ならば、『グールムアール』は有限だが、オスラムはほぼ無限の力を持っているからだ。未明の力は、いずれ尽きる。
――もう少し……もう少しなのに!!
力はオスラムを押し戻すのに費やされ、『亀裂』の修復にまでまわらない。
アレを『亀裂』に押し込むことができれば、未明の勝ちだ。
だが――。
押していた未明の力と退き気味だったオスラムの力が、完全に拮抗し始める。まるでそこに見えない壁でも作られたかのように、ピタリと動かなくなった。
――やっぱり、無理、なの……?
アンサムで――未明の生まれた世界で『旧き神々』たちを封じたときは、何人もの魔道師たちが命を賭した。
ほんのわずかな間でもいい。アレを押し留めておいてくれるものがいれば――。
一瞬の焦りが、未明の集中を揺るがせた。
――!
それを契機に、未明はジリジリと押され始める。立て直そうと試みても、一度崩れ始めた体勢を覆すのは困難だった。
――くぅッ!
未明は奥歯を噛み締める。決して、諦めはしない。けれども、力の絶対量の差は、次第に歴然としてくる。
ギ、キィィィ!!
勢いづいたオスラムの触手が『亀裂』からはみ出し、ビチビチとのた打ち回る。
――ああ、誰か、……こうへい、康平!
思わず、その名を呼んだ。
それに何も返らないことは――返せないことは、彼女自身がよく解っている。けれども、口にせずにはいられなかった。
そう、康平の声は、返らない。
代わりに響いたのは、別の声。
――仕方がないな。ほら、ちょっと手伝ってあげるから、穴を閉じちゃってよ。
その声と共に、ギリギリと押し寄せていた抵抗が、フッと消える。
あまりに大きく、未明は、初めそれに気付かなかった。
いつの間にかすぐ隣に現れていた、半透明の巨体。上半身は人の身体に近いようだったが、腕は左右に六本あった。下半身は、蛇。その尾の先が何処にあるのか、見て取ることはできない。
――ほら、早く。僕だっていつまでもこうしてはいられないんだから。
せっつくように、ソレが言う。未明が見上げ、見下ろしてくるソレの顔は、何もなかった。目も、口も、鼻も。
――どうするの? いいの?
こんな切羽詰った状況だというのに、相変らず、軽い。
――ううん。ありがとう。
視線を前に戻すと、ソレが押し込んだオスラムが、『亀裂』の向こうでもがいていた。
未明は再び、渾身の力を振り絞る。もう、残る力は少なかったが、魔力が足りないというのなら、自分の命すら使うだろう。
彼女の力を受けて、『亀裂』は次第に修復されていく。
キ、ギキギィィ……。
狭くなった『亀裂』から、声が漏れ聞こえてくる。それはもう未明を脅かすものではなく、微かな断末魔にも似たものだった。
――あと、少し……。
『亀裂』がただの『隙間』となる。
――僕は、もう行くから。じゃあね。
未明には、それに応える余裕はない。ソレの気配が消え失せても、ただ、力の最後の一滴まで注ぎ込み続ける。
――もう、終わる……あと、ちょっと……。
『隙間』が完全に閉じるのを薄れゆく視界に捉えたのを最後に、未明の意識はろうそくの炎のように掻き消された。