三
一方、康平とはぐれてしまった未明は。
慌てて彼の後を追おうとしたが、グイと腕を引かれて振り返った。
見上げた視界に入った者の名前を、呟く。
「アレイス・カーレン……」
自分の腕を掴んでいるのは、身体をすっぽりと包む黒尽くめの長衣に金髪碧瞳の優男。明らかに周囲から浮いている格好だが、誰一人気に留める者はいない。
男はニッコリと優しげに微笑むと、有無を言わさず未明を引きずって歩き出す。
「ちょっと、放しなさいよ!」
言っても無駄だと解っていても、そう叫んだ。だが、周囲の注意を引く筈のその声に反応する者はおらず、未明はズルズルと連れて行かれてしまう。人の波は、無意識に二人をよけているようだった。
――これは……隠行の術……?
未明の目には、二人を包む術の形式がぼんやりと映る。この術がかけられているものは、意図してそれを見ようと思った者以外は『視界に入っていても見えていない』状態になる。
この世界の者は、よほど他人に無関心らしい。
自分たちにチラリとも視線を向けない人々に、未明は苦笑する。康平が自分を捜してくれていればいいのだが、と路地に引っ張り込まれながら彼女は一縷の望みをかける。
男は、足を踏ん張る未明をものともせず、どんどん路地の奥へと進んでいく。そこは入り組んでおり、一度入り込んでしまえば、康平に見つけてもらうのは不可能なように思えた。
未明は適当な頃合で、男に気付かれないように一つ、二つと紙袋を落としていく。
やがて突き当たりに辿り着くと、男はようやく未明の腕を掴んでいた手を放した。
「痛いわね」
これ見よがしに掴まれていたところをさすり、顔を顰めた。
「それは申し訳ありません。見失っていた貴女に逢えて、つい、舞い上がってしまいました」
「私は、遭いたくなかったけどね」
そっぽを向いて、未明はそう答える。だが、そんな彼女の胸倉を、男が掴んで壁に押し付ける。
「私は、逢いたくて逢いたくて、気が狂いそうでした。残念ながら、今のお姿では役立たずですが」
「お生憎さま。まだ、当分はこの姿よ」
つま先が浮くほどに吊り上げられ、喉が詰まりそうになるが、未明は不敵な笑顔を作りながらそう答える。
「その憎まれ口も、愛おしいですね……。貴女が私のものになる時が待ち遠しくてなりません」
そう囁きながら、彼は唇を寄せる。
冷たいそれが重ねられた時も、未明は瞬き一つせずに男を見据えていた。
唇を離した男が、うっとりと微笑む。
「ぞくぞくしますね、その眼差し。満月の夜に、その目で見られながら貴女を奪いたいものです」
嗜虐的にそう囁く男に対して、未明は冷笑を浮かべて嘲った。
「……コレは絶対に、あんたに渡さない。ええ、誰にも、絶対に。あんたにはこうやって触られているだけでも、虫唾が走るわ」
その言葉に、男の顔から柔和な表情が掻き消える。
次の瞬間、未明の背中は地面に叩きつけられていた。
「……っ!」
衝撃に、一瞬、未明の息が詰まる。
薄汚い路地に仰向けにされた彼女に男が馬乗りになった。
「今のうちに、貴女の力を封じておきますね。貴女は界渡りの術を用いた直後で、まだ回復していないでしょう? まだ、赤子のような力しか感じませんね。いつもならば、回復するまでは決して姿を見せてくださらないのに……今回はどうなさったんですか? まあ、私にとってはこの上ない幸運ですが」
そう、未明としても、あと数日は康平の住処に隠れているつもりだったのだ。あそこであれば、初日に康平が寝ている間に施した結界で護られていたから。
油断した自分が、腹立たしい。普通であればついて来られないような界渡りだった筈なのに、この男はどんな手を使ったのか。
唇を噛み締める未明をどう受け取ったのか、男がほくそ笑む。
「貴女も、出逢ったのが『崇拝者』の彼ではなく私で、良かったと思いませんか? 今ここにいるのが彼だったら、すでに貴女の命は奪われ、封印が解かれていたことでしょう。ああ、そうそう、彼もここに来ているんですよ。何しろ、ずいぶん遠くの次元まで跳んでくださいましたから。貴女が開いた道を使うとしても、流石に、独りでは辿り着けなさそうだったので、彼と手を組んだのですよ。まあ、この世界に着くと同時にお別れしましたけれどもね。貴女が開いてくださった道を使った上に、二人で渡った所為か、私たちはそれほど消耗せずに済みました」
そう言いながら、彼は未明の両手首を一つにすると、片手で頭の上に押さえ込む。大人と子ども、男と女の力の違いは明らかで、どんなにもがこうとも、びくともしない。
ぶかぶかな康平のTシャツの襟が破かれ、まだ全く膨らみのない胸元が露わにされた。
男は自らの小指の先を噛み破ると、そこから滴り落ちる血で未明の肌に文様を刻み始める。
――術が完成してしまう!
術をかけられても解くことは可能であろうが、男の術が自らの身体に浸透していくことそのものがおぞましい。
未明が身を震わせた時。
唐突に、男が飛びのいた。彼の身体があった空間を何かが飛び過ぎ、ガツッとかなり激しい音を立てて突き当たりの壁にぶち当たる。
未明と男は、ほぼ同時に、その物体が飛んできた方へと首をめぐらせた。
「康平……」
二人の視線を受けた康平は、手の中のコンクリート塊を弄んでいる。
「そこの外人さん。あんたのお国じゃどうか知らねぇが、この国じゃそんな子どもにイタズラしたら、ブタ箱に入れられんだよ?」
そう言いながら、彼は二人の方へ足を進める。その口調は軽いが、目は剣呑な光を含んで油断なく金髪の男に向けられていた。全身から、今にも男の首をねじ切りそうな空気を放っている。
「くっ……! せっかくの好機を……」
呟いた男の周りで、空気がざわりと蠢いた。長い金髪一本一本が意志を持ったかのようにうねる。
異様な空気に、康平の足が止まった。何だか判らないが、何かが起きようとしていることを察する。
密度を増す空気の中で、上体を起こした未明が鋭い声をあげた。
「! アレイス・カーレン! この世界に属さない力でこの世界の命を害することは、理を乱すわ! 『求道者』のあんたがそれを是とするの!?」
未明の糾弾に男は忌々しげに顔を歪めたが、異質な気配は速やかに収束していく。
「確かに、私が理を乱すことはできません。残念ですが、今は諦める他ないようですね……」
そう呟くと、一歩退き、指先を複雑に動かした。
「また、近いうちにお逢いしましょう」
そう、未明に笑いかけ――彼は、消えた。
「!? おい!?」
康平がきょろきょろと上下左右を見回すが、金髪の男の姿はまるで最初から存在していなかったかのように消え失せていた。
今の現象を映した筈の自分の目が信じられず、康平は未練がましく唯一の逃げ場である空を見上げるが、ビルの壁には足がかりになりそうなものはなく、よじ登ることは到底不可能だろう
「訳が解らねぇ……」
ボソリとぼやき、康平はまだ地面に座り込んだままの未明に手を差し出す。立ち上がった彼女に、バサリとジャケットを被せた。
「まったく、何なんだ? ロリコンかよ?」
康平の言葉が、あの男――アレイス・カーレンがしようとしていたことを指しているのだと察し、未明はこっそり苦笑する。確かにあの状況は、傍目には大の男が子どもを陵辱しようとしているようにしか見えなかっただろう。
「彼は――『悪い奴ら』の一人よ」
「そうか」
康平の返事はそれだけだった。
「説明は、要らないの?」
「必要ねぇよ。依頼された期間はお前を守る。それだけだ」
裏を返せば、その期間を過ぎれば後は関係がないということだ。詳しいことなど、聞く必要はない。
康平の依頼人は『ワケあり』の人間が殆どだ。彼らの事情をいちいち知る必要はない。さすがに消えうせる人間など初めて見たが、だからと言って、これまでのスタイルを崩す気はなかった。
康平にとって、『依頼人』とのつながりは『依頼』だけで充分で、それが切れれば、また『何の関係もない人間』に戻るのだ。
――彼には、余計な『つながり』など必要なかった。