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暗黒神話(旧)  作者: トウリン
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39/44

 ――条件は揃ったよ。さあ、どうする?

 今は、ソレの姿は見えない。響いてくるのは、声だけだ。

 何故なのかは解っている。

 もう、ソレは訪れないからだ。

 この声は、自分自身の、声。

 彼女は夢の中をたゆたいながら、さらにその奥へと潜っていく。

 目が醒めたら、決断しなければならない。

 『ミアカスール』に――『希望をもたらすもの』に、『逃げる』という選択肢は許されていない。何かをするにしても、しないにしても、どんな時でも、彼女は選ばなければならないのだ。

 この世界にとって最善の道は、判っている。

 けれども、それは、彼女の望む道ではない。

 合致することのない義務と希望に、その身は引き裂かれそうになる。

 この世界に足を踏み入れなければ、彼に会うことがなければ、良かったのだろうか。

 いや、そうは思わない。

 誰かと過ごす喜びを知ることができたのは、この上ない幸福だった。

 ――苦しい、苦しいよ、康平……。

 魔力を回復する眠りの中、彼女の眦から、涙が一つ、零れ落ちた。


   *


 未明が見つけてきた剣は、鞘こそ古びていたものの、刀身は錆一つなく、青とも銀とも黒ともつかない、不可思議な光沢を放っていた。本当に、千年近くも海の中に沈んでいたのだろうか。もし沈んでいたのだとしたら、いったい、どんな金属でできているというのか。

 これがホンモノだろうが、ニセモノだろうが、康平にとってはどちらでもよかった。未明が『魔道書』とやらを手放し、彼と共に生きていく道を選んでくれるのであれば。

 だが、本当に、彼女はそれを選ぶのだろうか――今まで未明の全てだったものを、果たして捨てられるのか。

 ――康平。

 ふと呼ばれたような気がして、康平は手の中の剣に落としていた目を未明に向けた。

 彼の目の前で、丸い頬を、涙が一つ伝っていく。

「……未明?」

 目を覚ましたのかと思って名前を呼んでみたが、返事はない。康平は立ち上がり、親指の腹で未明の頬を拭ってやった。そのまま、頬に手のひらを押し付ける。

 剣を手に入れてから、三日が過ぎた。

 それはすなわち、今宵は満月だということだ。そして、日が沈んでだいぶ経つ。

 未明と出会ってから、満月は何度か迎えてきたが、何故か今夜は不安が込み上げてくる。

 本来、彼女は常に満月とともに世界を移動してきたのだ。同じようにこの世界から去ってしまう可能性は、常にある。今までそのことについて考えたことはなかった。未明はこの世界に留まるものだと確信していたからだ。だが、そう思えていた根拠は、いったいなんだったのか。

 こうやって気になるようになってしまったのは、アレイスの置き台詞の所為だろうか。それとも、康平自身の気持ちの変化によるものなのだろうか。

 今まで生きてきた中で、康平が誰かに対して興味を持ち、何か質問することなど、なかった。そこそこ楽しくやっていた軍事会社にいた期間も、仲間に対して何かを尋ねたいと思ったことはなかったのだ。

 だが、今。

 未明に訊きたいことは、いくつもある。

 時が止まっているとはどういうことなのか、とか。

 この世界に留まることを望んでいるのか、とか。

 本当はどうしたいのか、とか。

 ――自分が傍にいてもいいのか、とか。

 それらのどれ一つ、訊けはしない。どれか一つでも、彼の望まぬ答えが返ってくることが怖かった。

 康平自身、未明を手放したくない、傍に置いておきたいと思う気持ちが何処から来るものなのか、よく判らない。けれども、今、彼女を失えば、自分はもう駄目になってしまう気がする。

 それは、庇護欲なのか、愛情なのか、あるいは単なる独占欲なのか。

 多分、この少女を失わないためなら、自分はどんなことでもするだろう。そう、どんなことでも。康平は、そんなふうに考えてしまう己に、歯軋りをする。だが、それは抑えようのない衝動だった。

 康平は、柔らかな未明の頬を、そっと撫でる。

「――ッは!」

 不意に、彼女が大きく喘いだ。

「未明?」

 目が覚めるのかと声をかけた康平の目の前で、それは起こる。

 未明が軽く背を反らし、その四肢に力が入るのがわかった。

 触れている頬が異様に熱い。

「ぅあぅ!」

 再び未明が呻き、その身体つきが、顔立ちが、みるみる変化していく。瞬きのうちにそれは終息し、後には少女から女性へと変化した彼女が残されていた。

「未明」

 もう一度、名前を呼ぶ。

 やがて睫毛が震え、ゆっくりと目蓋が上げられた。

 柔らかく瞬きした後、未明の眼差しが康平へと向けられる。

「……康平」

 いつもの甘さはそのままに、少し低くなった声が、彼の鼓膜をくすぐる。

 未明は身体を起こし、自分の身体をしげしげと見下ろした後、「ああ……」と声を漏らした。

「そっか、今晩は満月なんだ」

 そして、目を海の方へと向ける。

「始まっちゃった。行かないと」

 何が、とは康平も訊かなかった。ただ、ベッドから下りて身支度を整えようとした未明の腕を捕らえただけだ。

「康平?」

 不思議そうに、未明が康平を見つめる。ただ信頼だけがあるその無垢な眼差しは、彼の何を見てのことなのだろう。そう思うと、知らずのうちに、彼女の腕を掴んでいる手に力が入った。

「康平、手を放して?」

 だが、彼は、手を放す代わりに口を開いた。

「お前は、これからどうするんだ?」

「え?」

「どうしたいんだよ?」

「どうって、『亀裂』を塞いでこないと……」

「その後だよ」

 康平は、グイと未明の腕を引いた。バランスを崩した彼女を、ベッドの上に押し付ける。

「ちょ……っと、待って、放してってば」

 咄嗟にもがいた彼女の両手を掴んで、押さえ込んだ。そして、間近で彼女の目を覗き込む。

「なあ、アレが例の剣なんだよな? 手に入ったんだろ? だったら、お前の中の『魔道書』とやらを、追い出すんだよな?」

 念を押す康平の前で、未明の視線がふっと揺らぐ。それは、言葉よりも遥かに雄弁な答えだった。

「未明。剣があっても、お前はその力を手放さないのか」

「……」

「何故なんだ?」

 口を閉ざす未明に、康平は奥歯を噛み締めるようにして、問う。だが、未明は顔を横に背けたまま、彼と視線を合わせようともしなかった。業を煮やして、康平は未明の両手を片手で一まとめにすると、空いている手で彼女の顎を捕らえる。

「答えろよ、何でだ?」

 重ねた問いに、未明が白くなるほど唇を噛み締める。今にも血を流しそうなそれに、康平は親指で触れた。

「なあ、教えろよ」

 彼女の唇が、堪えきれなくなったように、震える。

「だって……だって、あの剣で大丈夫だっていう、確信が持てないんだもの。多分、剣は本物だと思う。でも、いったい、いつまでもつの? 何百年? 何千年? これは、私が負った責任なの。やっぱり、私が最後まで面倒見なくちゃいけないんだよ。私だったら、守っていられる。でも、剣に移してしまったら……」

「それこそ、『いつまで』だよ」

 康平は呻いて、殆ど抱き締めるように、未明の身体に覆い被さる。

「お前は、もう充分に独りで戦ってきただろ? もう、いいじゃないか。お前は、俺と一緒にいたいって言っただろ? あの時、もう独りはイヤだと言ったじゃないか。お前の中にそれがある限り、お前はずっと子どもの姿のままで彷徨うんだ。独りで」

 康平のその言葉に、未明がヒュッと息を呑むのが、ピタリと押し付けた身体に伝わってくる。

「な、んで……」

「お前が年を取らないことを知っているかって? アレイスに聞いたんだよ。あいつが、教えてくれた」

 未明の身体は、固く強張っていた。康平はその背に手を差し入れ、今度こそ抱き締める――そっと、壊さぬように。

「なあ、もう、お前はお前を生きろよ。俺と、生きてくれよ」

 耳元でそう囁くと、彼女の身体がフルリと震えた。

「でも……これは、私がやらなくちゃいけないこと、なんだよ……」

 頑なに繰り返す未明に、康平はギリと歯軋りする。

「お前の言う『魔道師』サマとやらは、肉親の情という鎖は切らせたかもしれないけどな、代わりに『世界』ってモンをお前に背負わせたんだ――お前一人に」

「――イタッ」

 未明の小さな悲鳴に、康平はハッとする。無意識のうちに強まっていた両腕の力を抜いた。そして身体を離すと、強い光を帯びた眼差しで未明を見下ろした。

「なあ。魔力を帯びていない者なら、その『魔道書』とやらを受け入れられるんだよな?」

「え?」

「今のお前となら、ヤれるぞ」

 彼の言葉に、未明の目が、大きく見開かれた。次いで、康平の下から逃れようと身をよじらせる。だが、康平は巧みにその全身を押さえ込んだ。身じろぎ一つままならなくなり、彼女が焦りを含んだ声をあげる。

「待って、康平! ダメだよ、それは、ダメ! もしも合わなかったらどうするの!? 死んじゃうんだよ!?」

 未明の必死の訴えは、康平の血を吐くような声で封じられた。

「それでもいい! お前が俺から離れていくというなら、同じことだ! お前のその力を剣に移して、その剣が壊れて世界がダメになったとしても、俺はお前が傍にいてくれる方がいいんだ!」

 クタリと、未明の全身から力が抜ける。そして、呆然とした眼差しを康平に向けた。

「何で……? 何で、そんなふうに思うの?」

「知らねぇよ! ただ、そう思うんだ。俺も、もう、独りじゃいられないんだよ……」

 康平自身も訳が解らなくなり、抵抗のなくなった未明の身体を抱き締める。何をしようというのではない。ただ、すがるように抱き締めた。この温もりを失うのなら、いっそのこと、今この場で息の根を止めてくれとさえ、思う。

 柔らかなその髪に頬を埋めた康平は、彼女の両目から溢れ出した涙には気付かない。だが、未明の両手が上がり、自分の背中に回されたことは、わかった。

「バカだなぁ、康平は。何も解らないのに、死んでもいいなんて思うの? 何で、世界と私を天秤にかけて、世界の方が負けちゃうの?」

 呆れたような彼女の囁きが、耳元で聞こえる。そこからは、張り詰めた弦のような痛々しさが、消え失せていた。

「ダメだね。やっぱり、『責任』で自分を抑え込もうとしても、できないや。……私も、本当は康平と一緒にいたいの。離れたくないの。『独りがイヤ』なんじゃなくて、『康平と一緒』が、いいの」

 康平の背に回された未明の手に、力がこもる。それは、溺れる者が板切れにつかまろうとするかのような力だった。

「私、決めたよ。この世界で、康平と生きる。『グールムアール』は、封印するの。『世界』は、私独りで背負うものじゃないんだよね。私は、私ができる範囲のことをやってきた。後は、次の人に任せるわ」

「そうか」

 未明の宣言に、康平は短い一言だけを返す。それで充分だった。

 彼女は康平を抱き締めていた手を放すと、彼の肩に両手を当てて身体を引き剥がそうとする。その声には、断固とした意志が込められていた。

「放してよ、康平。取り敢えずは、今、しなくちゃいけないことを済ましてこないと。これで、私の『仕事』は終わりよ」

 未明の眼差しに、力が戻る。その目こそが、彼女だった。魔力云々ではない、心の強さが、未明を未明たらしめているのだ。

 康平は苦笑しながら身体を起こすと、そのまま未明の腕を引いて立ち上がらせた。

「よし、行くか。さっさと片をつけるぜ」

「うん」

 迷いを吹っ切った未明の笑顔は、明るく、自信に満ちたものだった。

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