七
――無理してんなぁ。
それが、本日の未明の第一印象である。
頬杖を突いた康平の前で朝食を摂る未明は、いつもの三倍は喋っている。まるで、沈黙を恐れているかのようだ。
昨日の海底探索では、良くも悪くも成果なしだったと未明から聞かされている。他に何か気に掛かる事があるのだろうが――。
「おい」
「それでね、そこの世界ではね……」
「未明」
「女の人が男の人を……え?」
これまで巡ってきた世界のことを滔々と語っていた未明が、ようやくキョトンと康平を見た。
「いいから、さっさと食っちまえって」
「あ……うん」
康平に言われた未明は突然に口を閉じ、今度は黙々と食べ始める。
やはり、変だった。
内心で溜息をつきつつ、康平は提案する。
「今日はさ、ちょっと海底トンネルを歩いてみようぜ」
「え? でも……」
「別に、今回は急ぐことじゃないんだから、いいだろ? 一日中、幽体離脱しているわけでもないんだし。少しぐらいは気晴らししたほうが、効率上がるんじゃねぇの?」
康平の『急ぐことじゃない』という台詞に、一瞬未明の視線が揺らいだのが見て取れたが、結局彼女は少し迷った後に頷いた。
「そうだね。うん、行ってみようか」
そう答えて、ニコリと笑う。三割くらいは作ったものだが、それでも『笑顔』だった。先ほどまでの、口だけで何か喋っている状態よりかは、遥かにマシだ。
「じゃあ、食い終わったら行くからな」
そう言い置いて、康平は自分のコーヒーを注ぎに行った。
*
朝食を終えた二人は、早速、関門人道トンネルに向かった。その入り口は、壇ノ浦古戦場のすぐ向かいにある。
駐車場で車を降りると、人道トンネルの入り口がある建物に向かった。取り敢えず、地下五〇メートル程まではエレベーターで降りるらしい。一五階弱の建物の高さ程度だろうか。対岸までは八〇〇メートル程だが、渡りきる必要はないので、県境で折り返してくることにした。
数十秒かけてエレベーターが止まり、ホールに出る。そこから、細い通路が続いていた。
「凄いねぇ、ここ、海の底なんだぁ。やっぱり、科学って凄い……」
通路の天井には海の底を表現した絵が描かれており、ところどころには、何故か星空もあった。
「ふふ、面白いねぇ」
自然と零れた台詞なのだろう。そう言った未明の笑顔は、柔らかい。康平には何が面白いのか判らなかったが、取り敢えず無駄にはならずに済んでよかったと、胸を撫で下ろした。
未明に合わせたゆっくりした足取りで十分程歩いた頃だろうか。通路に書かれた県境の印が見えてくる。
「ここが境目なんだね。何だか、不思議」
通路に引かれた線の上に立ち、未明が呟く。ふと、彼女は西の方へ目を遣った。手を伸ばして、その壁に触れる。
「どうした?」
「あ、うん……。あっちに、『亀裂』があったから……」
「気になるのか? でも、小さいヤツだったんだろ?」
「うん。そうなんだけど――」
答えながら未明が康平を見上げようとした時だった。
ゴ、ゴゴゴ……。
地震とは異なる、何かがのたうったかのような地響きだった。どこか、近くて遠いところで、何か巨大なものが胎動したような、奇妙な感覚。
ふらついた未明に咄嗟に手を伸ばし、支えると、康平は周囲を見回した。だが、通路を往来している他の人たちに、変わった様子はない。
「気付いてないのか……?」
呟いた康平に、未明がブルリと身体を震わせる。
「どうした?」
「次元が、ズレた」
「え?」
「私、ちょっと見てくる。身体をお願い。古戦場跡で待ってて」
「おい!?」
康平が制止する暇もなく、未明は端的にそれだけ言う。一瞬後には、その身体は力を失っていた。
「まったく、もうちょい説明しろっての」
ボヤきつつも、康平は未明の身体を抱き上げる。そして、来た時の倍の速さで出口を目指した。
*
身体を飛び出した未明は、真っ直ぐに昨日見つけた『亀裂』を目指す。その場所は、いやになるほどよくわかった。昨日来ているから、というだけでなく、存在感が違うのだ。
嫌な予感に苛まれつつ、未明は真っ直ぐに飛ぶ。
そこには、一瞬で辿り着いた。
昨日は本当に隙間程度であったものが、今日ははっきりと中が覗ける程度になっている。確かに、まだまだ小さいものだ。次元も違う。これが外に影響するということはないだろう。しかし、一日でこれほど変化したということは、一週間後にはどうなっているか、推して知るべしというものだ。
次の満月までは、あと三日。
今のうちにこの『亀裂』を塞いでしまえば、三日後には魔力も回復して次の世界へ跳べるだろう。だが、その三日の間にまた『亀裂』が拡がったら、どうする?
それに、満月が近づくほど『グールムアール』の影響も増すだろうから、『亀裂』の拡大も速まるのではないのだろうか?
――どうしよう、どうしよう……どうしよう?
未明の頭の中ではその言葉だけがグルグルと回転し、うまく働かない。
考え付く手段は、三つ。
一つ目は、今のうちに『亀裂』を塞ぎ、満月になったら界を渡るもの。
二つ目は、今のままでこの世界に留まり、こうやって『亀裂』が拡がる度に塞いでまわるもの。
三つ目は、教えられた剣を探し出し、それに『グールムアール』を封じるもの。
選べる手は多くない。けれども、一つでも増やさなければ。
未明はそこから離れ、海面に出る。波立つ海を睥睨し、目を閉じた。
意識を幾千、幾万にも分けて、その海域に生息する生き物全てに飛ばした。
群れを成す大小の魚類、海底を這う甲殻類、微生物、そして優雅に游ぐ海獣たち。
関門海峡に息づく生物の全ての感覚器を使って、海の中を捜索する。
凄まじい勢いで魔力が消耗されていくのが解ったが、頓着しなかった。いっそ魔力を使い切ってしまえば、『亀裂』への影響も和らぐだろう。
岩と岩の間、何かの残骸の陰、柔らかな砂の中。
ありとあらゆる場所を、ありとあらゆる感覚で探っていく。
クラリと、酩酊するような、全てが消え失せていくような感覚が未明を襲うが、構わずに続けた。今の未明の位置を中心に、同心円状に範囲を広めていく。
――あ……。
何かが、未明の感覚を刺激した。
どの生物から送られたものだろうか。彼女は、グッと絞り込んでいく。
それは、一匹の海老だった。海底の砂の上を歩いていた海老が、何かの上を通ったのだ。
探索させてみると、やはり、何かが感じられる。門屋からもらった組紐のように、未明の知る魔術とは異なるが、何かの力を持っているものだ。
未明は散らしていた意識をその場所に集中させ、一帯の甲殻類を呼び寄せる。それらに砂を掘らせておいて、一頭のスナメリをそこに向かわせた。
海老や蟹が一心に掘り返す中から現われてきたものは、確かに鞘に収められた剣である。だが、比較的小振りなもので、康平が持っているナイフを一回り大きくした程度だ。
剣をくわえたスナメリが、康平の待つ海岸を目指す。
海獣を操る未明の視界が、一瞬、暗くなった。途端にスナメリは剣を落とし、反転してどこかへ行ってしまいそうになる。慌てて未明は気を取り直し、再びスナメリを捕まえた。
――もう少し。……康平に、渡さなくちゃ。
殆ど祈るような心持ちだった。
徐々に浅瀬になっていく。
あと少し、だった。
*
未明に言われて壇ノ浦古戦場に向かった康平は、広場から海を眺めていた。
何が来てもすぐに対応できるように、未明は右腕だけで抱き、左手は空けてある。
ふと、こちらに向けて游いでくる何かに気が付いた。魚にしては大きい。イルカにしては色が薄くて、形も丸い。どうも海獣のようだったが、康平はその生き物の名前を知らなかった。それは一頭だけで、明らかに浜を目指して泳いでいる。
「なんだ、ありゃ」
思わず呟いた康平の腕の中で。
唐突に、パチリと未明の目が開いた。
「未明?」
「康平、あれを受け取って」
呼びかけた康平に答えたふうではなく、一方的にそう言うと、またコトンと落ちる。
「あれって、何だよ……?」
よく解らないまでも、取り敢えず海岸の方におりてみることにした。そうしている間にも謎の生物は近づいてきており、もうじき浜に到着しそうだった。
急いで左右を見回し、階段を見つけて、下る。一人なら飛び降りてしまうところだが、未明を抱いているのでそうもいかなかった。もしも落としたりしたら、大変だ。
康平が辿り着く前に、その海獣は浜に何かを吐き出すと、クルリと身を翻してあっという間に海へと戻っていってしまった。彼は少し海の中に入り、海獣が置いていったものを拾い上げる。
「これって、アレか……?」
それは、剣のようではある。だが、康平にはただの古びた剣にしか見えない。大きくはないので、軽く振って水気を切り、ウェストに挟んでジャケットで隠した。海に入った靴がガポガポと気持ち悪いが、仕方がない。
未明も目覚める気配なく、康平はひとまずホテルに戻ることにした。