五
身体を離れた未明は、そのまま海の底へと向かう。潮の流れはかなり速いようであったが、実体を持たない彼女には影響を及ぼさない。
巨大な魚群を擦り抜け、名前のわからない大きな魚をかわす。
古戦場から出発し、真っ直ぐに対岸の福岡に向かいながら海の底を目指す。
程なくして辿り着いた山口と福岡の中間辺りの海底には、様々な物が朽ち果てた姿を晒していた。
関門海峡は狭い。
山口と福岡との距離は最も狭まるところで六〇〇メートルそこそこ、離れたところでも二キロ程度で、最深部も五〇メートルほどだ。壇ノ浦古戦場を中心に、東西各々二キロも探せば充分だろう。面積としては、たいしたものではない。問題は、その潮の速さと複雑さだ。潮の干満により一日四回向きが変わる潮流が、海底に沈んだものを何処に流していくのか、未明には見当もつかない。
今、彼女の足の下には関門トンネルが走っている筈だ。ここから西には関門橋がある。まずはその場に立って、意識を拡げてみた。魚やその他の海棲生物たちの原始的な渇望を掻い潜り、何か琴線に触れるものはないかと、未明はそこかしこを探っていく。
――あれ?
ふと、未明は微かな違和感を覚える。彼女が立っている場所から南西の方向――ちょうど、関門橋の真下の辺りだろうか。未明は海底を蹴って、そちらに向かう。
橋に近づいた頃だった。
水中でも鮮明だった未明の視界が、一瞬揺らぐ。
――これって……。
見上げてみると、先ほどまでは存在していた橋の影が無くなっている。
やはり、次元がずれたのだ。
直前まで感じていた康平の気配もふっつりと途切れ、未明は何故か心細さを覚える。彼と自分を繋ぐ魔術の鎖が伝えてくる振動が、わずかなよすがだった。
独りきりには慣れている筈だったのに。
ずっと当たり前だった状況を心細いと感じるのは、自分の心が弱くなった証なのか。もしも弱くなったのだとすれば、また独りの時を過ごすうちに、以前のように何も感じない自分に戻れるのだろうか。
――自信が、なかった。
未明はキュッと唇を噛み締める。
近いうちに『ユヌバール』が見つからなければ、そして、本当にこの世界の『亀裂』が拡大する理由が自分にあるのであれば、近いうちにこの世界を離れなければいけないのに。
どこに行っても、自分は厄介の種になる――そんな考えが、未明の頭の中から離れない。
この世界が、康平の傍が、安住の場所になるのではないかと、少し、期待してしまった。
――でも……。
しばらく、未明は動けなかった。
だが、やがて頭を一振りして雑念を追い出すと、再び動き出す。
――『いずれ』ではなく、『今』のことを考えよう。今、やるべきなのは、『ユヌバール』を探すことなのだから。
そう自分自身に言い聞かせ、未明は一点を見つめる。
これから目指す先にあるのは、恐らく門屋が言っていた『宝剣』とは別のものだろう。できたら、あって欲しくないもの――しかし、確認はしておかねばならないものだ。
トン、と蹴って先を目指す。
彼女が向かうその先からは、何かが蠕く、地響きのようなものが伝わってくる。それは微かなものだが、間違えようがない。
微かに粘度を増した水中を、未明は進む。
そして、彼女は辿り着いた。
そこにあるのは、ごく小さな『亀裂』。これまでに見てきたものとは、比べものにならない、わずかなものだ。その隙間の向こうで、時々何かが動いた。
――『海に棲まうもの』……オスラム……。
ソレは、『旧き神々』の中でも、最も力のある存在だった。
八個の金色の目と鋭い牙を具えた口吻を持つ巨大な頭に、無数の触手。強いて言えば、蛸か海月に似ているのかもしれない。だが、そのカタチのおぞましさは、そんな可愛らしいものとはかけ離れている。未明にしても、『旧き神々』の中でも一番見たくない相手だった。とにかく、耐え難いほどの生理的な嫌悪感を掻き立ててくれるのだ。
――この程度の『亀裂』で良かった……ホントに。
つくづく、未明はそう思って、未明は胸を撫で下ろした。この間のシーカイのように、もろに全体像が見えていたら、速攻で逃げ帰っていたかもしれない。
――康平のところに帰ろう。
何故か、無性に彼の傍に行きたくなった。彼に、呼ばれているような気がする。あるいは、この、生物の気配のない海の底が与える錯覚かもしれないが。
殆ど駆け出すようにして、未明は次元のひずみから抜け出す。
身体にまといつくようだった水が、さらりとした心地良いものに変わる。と同時に、様々な生物が巻き起こす命の気配が溢れかえった。
未明は自分の身体を意識する。
一瞬後には、全身に温もりを感じていた。
眼瞼を、上げる。
自分に注がれている視線に、思わず微笑んだ。