四
やがて日も高くなり、周囲に人のざわめきが感じられるようになり始めた頃、未明は探索を開始した。とは言っても、潮流の速い海底を素人が潜水服を着てウロウロしてみても、何かを見つけられる筈がない。ここは彼女の本領発揮で、精神体となって潜ることにしたのだ。
「じゃあ、私の身体をお願いね」
そう言うと、未明は目を閉じて、康平には聞き取れない『呪文』を口ずさむ。
「おっと」
糸が切れた操り人形のように突然崩れ落ちた彼女の身体を、康平は間一髪で受け止めた。そのまま抱き上げ、ベンチに向かう。そのまま寝かせるには少々冷たく、康平は、自分の膝の上に載せ、ジャケットで包んだ上から抱き込んだ。傍から見れば、寝てしまった妹を抱いている兄――あるいは、娘を抱いている父か――と思うに違いない。
目の前に広がる海の、何処ら辺に未明はいるのだろうか。
そう思って目を凝らしてみても、見つかるわけもない。
康平は小さく息を吐いて、視線を腕の中に落とした。無防備な彼女の顔に、何となく、腕に力がこもる。
そして、視線も上げずに、あからさまな溜息を吐いた。
「ここでやる気なのか?」
それは、ゆるりとした足取りで近づいてくる者へ向けた言葉だった。
金髪碧眼、何処となく中性的な整った容貌。その細身の身体は黒いマントで包まれている。何か不思議な術でも使っているのか、普通であれば好奇の眼差しが集中するはずの格好だというのに、周囲を散策する人たちのうちの誰一人、その金髪の男をチラリと見ることもなかった。
そして、また。
その男が近付くに連れ、周囲の人々のざわめきも、壁を一枚隔てているかのような、どこか遠いものになっていく。
「あんたたちってさぁ、少しはこの世界に馴染もうって気が無いの? アイツもだけど、そのカッコ、浮き過ぎだろ」
顔を上げ、隙のない眼差しで真っ直ぐにその男――アレイス・カーレンを射抜く。この男は、未明を本来の名前であるミアカスールと呼び、彼女を生まれ故郷の世界から追いかけ続け、付け狙ってきた者のうちの一人だった。アレイスの目的は、未明の中に潜む『魔道書』とやらを奪うことである。そして、彼女を狙っている者のもう一人は、キンベル・ゲダス――未明を殺そうと目論んでいる者だが、この場に気配はない。しかし、いずれ彼も姿を現すことだろう。
優しげな微笑を浮かべているが、この世界でアレイスが康平に見せた手口は卑怯の一言に尽き、今も何を企んでいるか判ったものではない。怪しい動きがわずかでも見られれば即座に息の根を止める心積もりで、康平はアレイスの一挙手一投足を油断なく睨み据える。どうせこの世界の人間ではないのだから、死体になったとしても、たいした事件にはなるまい。
だが、無言で威嚇する康平に対し、アレイスは気安い調子で肩を竦めて見せた。
「そんなに警戒しないでください。何もしませんよ。まだ満月までしばらく日がありますし、今、貴方と戦ってミアカスールを手に入れたとしても、特に利点がないですから。魔力が枯渇している時ならともかく、今の彼女には手が出ません。貴方とやり合って私が無傷で済む可能性はとても低いですしね、むしろ損失の方が大きくなってしまいます」
そう言いながら、彼は二人から三歩ほど離れたところで足を止めた。その動きをジッと目で追いながら、康平は問う。
「じゃあ、何の用だよ?」
「ミアカスールの様子を見に来たのですよ。まったく、彼女の結界のせいで、貴方の住処には手を触れることもできませんし。これでも、あの後どうなったかと、心配していたんですから……おや、何ですか、その顔は?」
『その顔』とは、胡散臭いものを見る眼差しを放つ顔である。
言葉よりも雄弁に心の内を物語る『その顔』に、アレイスは苦笑した。
「確かに、私はミアカスールを追っていますが、元々は彼女の側の人間だったのですよ? 心配するのは当たり前ではないですか。何しろ、『グールムアール』を持ったまま彼女の身に何かあれば、かの魔道書は失われてしまうんですからね」
当然ではないですか、とアレイスは真顔で同意を求めてくる。
結局、そこなのかと、康平は呆れると共に、ある意味感心する。ここまで徹底していれば、解り易くていい。何より、殺す時に躊躇わずに済むから、康平としても気楽だ。
「それなら、こいつの無事は確認しただろ? さっさと失せろよ」
そう言って、犬を追い払うように片手を振る。だが、アレイスは立ち去るどころか、一歩足を進めてきた。
「何だよ?」
アレイスは康平の腕の中の未明をしげしげと見つめている。
「へぇ……。随分と、貴方のことを信頼しているようですね、ミアカスールは」
「あ?」
「いえ、まさか、身体をこんな無防備に置いたままにするなんて……。いつも、要塞のような結界をこしらえていたものですよ。気配のけの字も漏らしてくれないので、探すのに苦労して。でも、この世界に来てからというもの、すぐに居場所が知れますね。貴方の住処でも、手は出せないものの、そこにいるのはわかっていますから」
アレイスの言葉に、康平はイヤなことに気付いた。彼がここにいるということは……。
「あのキンベルとかいうおっさんも、俺たちがここにいることを知ってるって事か?」
あの男が来たところで負ける気はしないが、些かうっとうしい。
問われたアレイスは、肩を竦めて返した。
「まあ、そうでしょうね。そのうち姿を現すと思いますよ? 特に魔力が乏しい世界ですから……普段はミアカスールが覆い隠していますが、何かわずかでも魔力を使うようなことをすれば、『グールムアール』は灯台の光のように目立ちますね。ましてや、精神体になるなんて……。今は、彼女、あそこにいるでしょう?」
そう言いながらアレイスは、何かに焦がれるうっとりとした眼差しで海の方を指差す。康平の目には、海以外何も映っていないが、アレイスには未明の放つ何かが見えているのだろうか。
しばらく海面を見つめていたアレイスだが、やがてゆるりと未明に視線を戻した。
「ミアカスールは、いったい、いつまでここに留まるつもりなんでしょうねぇ」
未明を抱える康平の腕に、無意識のうちに力がこもった。
「こいつは、もうこの世界からは動かないぜ」
「ほう……彼女が、そう言いましたか?」
「ああ」
アレイスの目が何かを探るように細められる。その視線は未明に向けられ、康平に動き、また未明に戻った。
「それは、また……」
含みのあるアレイスの声が、康平の気に障る。
「何だよ?」
「いえ、結局置いていかれることになるのに、酔狂な、と……」
「置いていかれる? 俺が?」
「ミアカスールが、ですよ」
「? 俺は、こいつを置いてどこにも行かないぞ?」
「……貴方は、彼女から聞かされていないのですか?」
遠回しなアレイスの言い方に、康平は苛立ちを覚える。未明について、色々な意味で彼らの方が詳しいということは解っているが、それを見せ付けられるのも腹立たしかった。
そんな康平の気持ちが伝わったのか、アレイスが一歩下がって苦笑した。
「そんな目で睨まないでくださいよ。彼女が『そのこと』を貴方に伝えていない、ということは、やはり、いずれここを去るつもりなのでしょうかね」
「どういうことだ?」
「ミアカスールの時は、ほぼ止まっているのですよ」
「はあ?」
心底から訳が解らず、康平は眉を顰めた。アレイスは、そんな彼からまた一歩、後ずさる。そして、姿を消す――最後に一言を残して。
「……後は、彼女自身から聞いてください」
意味深なその台詞は、いったい、何をしたくて置いていったものなのか。
もやもやした気分が気に入らないが、今はその言葉について考えるよりも他にすることができてしまった。
「ったく、何だってんだよ……キ・サム」
ボヤキながらその『呪文』を口にした康平の左手に、しっくりと馴染むMk23が出現する。流れるような動きで、脇から背後に向けた。それとほぼ同時に、振り下ろされた刃が、彼の首筋に触れたところでピタリと止まる。
「気付いていたのか」
康平の背後から響いてきたのは、アレイスのものとは全く異なる、低く重い声。二メートルを越える身長に、岩のような身体。
男は、もう一人の追っ手、キンベル・ゲダスであった。
「そんなに殺気を漲らせていたら、一キロ先からでも気付くさ。まったく、あんたたちは……ホントに暇な奴らだな」
まあ、未明を追いかけるためだけに異世界くんだりまで来ているのだから、実際、他にすることはないのだろうが。
軽口を交わしている間も、両者の武器はピクリとも動かない。
康平の銃は真っ直ぐにキンベルの額を狙い、キンベルの大剣の刃は康平の首にヒタと当てられている。どちらも、ほんのわずかな動きで、相手に致命的な傷を負わせることができるだろう。
「どうせなら、いつもみたいに魔法でやりゃ良かったんじゃねぇの?」
「……二度しくじっていることを繰り返すのは、愚か者だろう。それに、貴様にはそのミアカスールの護りがある」
忌々しげに吐き捨てたキンベルが、ゆっくりと剣を引いていく。完全にそれが遠ざかるのを待って、康平は振り返った。そして、巨漢に視線を据えたまま、未明を右腕に抱いて慎重に立ち上がる。
ベンチを間において距離をとった康平は――引き金を絞った。
鳩尾から眉間を狙って、続けて、三発。
「グッ!」
咄嗟にかわした弾は致命傷にはならなかったが、掠めた勢いでキンベルの頭を護る兜の側面を抉っていった。
「残念。この距離なら、確実にいけると思ったんだけどな」
「貴様!?」
「はあ? 撃たないと思った? そんなわけないじゃん」
散々不意打ちを食らわせてきたヤツが何を言う、と康平はキンベルに冷ややかな眼差しを向ける。未明の意識がない今は、むしろいい機会だった。何しろ、彼女は、自分の命を狙い続けているこの男ですら庇うのだから。
「くっ」
悔しげに顔を歪めたキンベルに、康平は再び照準を合わせる。今度は、胴に。そして、無造作に撃った。
残念ながら急所は外したようだが、脇腹を抉り取られ、キンベルはガクリと膝を突いた。憎々しげに眼差しを光らせ、顔を上げる。
康平は、五発目を構えた。
「……覚えていろ!!」
月並みな捨て台詞を放って巨体が消え失せる。それと同時に、周囲のざわめきが戻ってきた。
「ったく、どいつも逃げ足が速えよな」
手の中の銃を消し、康平は未明の身体を抱えなおす。
不意に、アレイスが去り際に放っていった言葉が思い出された。
――こいつの時が、止まっている……?
それは、自分たちの関係において、いったいどんな意味を持つことになるというのだろう。
腕の中で息づく小さな身体、小さな頭の中には、いったい何が詰まっているというのだろう……?
康平の中には、未明と過ごしていく未来しか描かれていない。だが、彼女にとっては、そうではないのだろうか。
――未明も、自分と同じ道を望んでいると信じていたのに。
アレイスの置いていった言葉で、それが揺らぎ始めてしまった。
もしも未明が彼女の意志でこの世界を離れると言うのならば、その時、自分はどうするだろう。素直にこの手を放せるのか、それとも……?
と、迷い始めた康平の腕の中で、彼女が身じろぎをする。
未明の目蓋がゆっくりと上がっていき……康平を認めて、微笑んだ。