三
未明の前にうずくまる『ソレ』は、純銀の毛皮を身にまとっていた。
全体的に見れば、狼に似ているかもしれない。だが、腹の下には数え切れないほどの脚が蠢いている。そして彼女を見下ろすのは、額に一つだけ輝く深紅の瞳。
「この間と、姿が違うのね」
未明が見上げながらそう言うと、ソレは首を傾げた。
「そうだったかな?」
「だいぶ、違うわ」
「うーん……そうかもね。まあ、いいじゃないか。そんなことより、訊きたいことがたくさんあるんじゃないのかい?」
その通りだった。
確かに未明には、ソレに尋ねたいことがある。だが、たくさんありすぎて、どれから出そうか迷っているのだ。
「……この世界に、何が起きているの?」
その問いが、一番の根幹になると未明は思った。
そして、問われたソレは一瞬目を丸くし、そしていつもの笑みを浮かべる。
「直球だね」
「あなたは答えを持っているの?」
「答えは知らない。でも、事実は知っている」
「それでもいいわ、教えて。あなたは、私よりはこの世界のことを知っていそうだもの」
彼女の言葉に、ソレは身体を丸めると前脚あるいは後脚の一本を使って、鼻の横をぼりぼりと掻いた。
「まあ、ね。僕はこの世界の数えで、ここに来てから二千年ぐらいにはなるかもだもんね」
「にせん、ねん……? そんなに生きているの?」
「そんなに驚くこと? 君だって、そのぐらい生きていることになるかもしれないでしょ? 次元を跳ぶということは、時も跳び越えているかもしれないからね。……仮に、君が故郷に帰れたとしても、そこがどんな姿になっているか、判らないよねぇ」
ソレは、単に事実を言っているだけのつもりなのだろう。だが、その言葉は、未明の心を突き刺した。
ふっと揺らいだ彼女の眼差しに、少し困ったように、ソレは耳を伏せる。
「あれ、傷付いた?」
「別に。そんなの、覚悟してきたことだもの」
そう答えて、未明は真っ直ぐにソレを見上げた。
「それより、答えは? どうなの?」
「ああ、うん、そうだね。あのねぇ。僕がこの世界に来てから、二千年くらいにはなるって、言ったよね。でも、今まで、あんなふうに『亀裂』が拡がったことは、なかった。それが、君が来てから、立て続けに起こっている」
「……そうなの? それは、私のせい、ということ?」
「『君』というより、君の中のもののせいじゃないの?」
また、バリバリとソレは耳の下辺りを掻き毟る。
「私の中の……『グールムアール』の……」
「そういう名前なの? 僕も今まで色んなところを回ってきたけど、そんなの、今まで見たことないね。……今は、まだ君の近く――この国付近の亀裂が拡がった程度だけど、いずれ外国、いや、この星以外にも拡がっていくんじゃないかな」
その言葉とともに、尾をゆるりと振る。その様子は、どこか他人事のようだった。確かに、いつでもこの世界を去ることができるソレにとっては、どうでもいいことなのかもしれない。だが、未明には放っておけない事態である。
「私は……どうすればいいの?」
微かな声で、未明は囁く。それは、迷子の仔猫のようで。
しかし、ソレの答えには、同情や憐れみの響きはなかった。
「僕は、もう教えたよ」
ソレの指摘に、未明はびくりと身体を震わせる。
「……私がこの世界を去るか、『グールムアール』を手放すか……?」
「そう、そもそもこの世界からそれを無くすか、それを封印してしまうか」
「私が……『グールムアール』を、手放す……」
問題は、二つ。
一つは時間だ。まだ、決して壊れないもの――『ユヌバール』は、見つかっていない。『グールムアール』を封じる手段が、まだないのだ。
そして、もう一つは。
――私は、本当に、これを手放すの?
ずっと、彼女は、自分の中の『グールムアール』を委ねることができるという『ユヌバール』を探し続けてきた筈だった。
だが、いざその方法が見つかったとして、本当に自分はそれを実行する――いや、できるのだろうか。
――自分の『責任』を放棄して……?
迷いの縁に立つ未明を、ソレはひげをぴくつかせながら無言で見下ろしている。
未明は逃げ道を探すかのように、口を開いた。
「でも……でも、『グールムアール』を封じるものが、まだ見つかっていないもの……」
「これから探しに行くんじゃないの?」
その紅い眼差しが、未明の真意をうかがうように眇められる。
「だって、確かなことではないでしょう?」
「あ、あれね。実は――」
ソレは何かを言いかける。が、不意に頭をもたげると、周囲を見渡して鼻の頭に皺を寄せた。そして、唐突に宣言する。
「あ、時間だ。じゃあね」
「え? ちょっと待って! 今、何を……」
慌てて未明はソレを引き止めようとするが、間に合わない。
「無理だよ。夢から覚めるのは、君じゃないか。僕にはどうにもできないよ。じゃ、またね」
ソレの言葉が合図であったかのように、急速に、未明の意識は引き上げられていく。
――そして。
*
パチリと目を開けた未明は、間近に康平の顔を見て、キョトンと瞬きをした。
「……おはよう?」
不思議そうに、彼女が朝の挨拶を口にする。
「おはよう――じゃなくて、お前、うなされてたぞ」
康平が眉を顰めると、未明が起き上がって時計をチラリと見た。ヘッドボードで光る数字はいつもの起床時間より、一時間ほど早い時刻を示していた。
「あ……ゴメンね。起こしちゃった?」
申し訳なさそうに謝る未明に、康平は呆れたように返す。彼の心の中にあるのは、眠りを妨げられた苛立ちではない。
「お前なぁ。そうじゃなくてさ」
「え、あ、そっか。うん、ありがとう。大丈夫だよ、夢見が悪かっただけ」
心配されているということに思い至ったのか、未明はニコッと笑ってそう言った。
「夢?」
「うん、そう。ただの夢だよ……夢」
彼女の様子は『ただの』には見えなかったが、康平は頷いて頭を撫でてやる。そのまま長い髪を手櫛で梳くと、腰までもある毛先で引っかかった。何とはなしにそれを解し始めた彼の手を、未明はジッと見つめている。
細く柔らかなその髪は、手荒に扱えばすぐに千切れてしまいそうだ。
――この髪は、大人の姿の時でも今でも、変わらないよな……。
何となく、康平の頭の中にそんな考えが浮かぶ。と、不意に、彼は落ち着かない気分になった。彼女の髪は極上の絹糸のようで、とても心地良い。だが、そのまま触れ続けているのも、良くないような気がしてきた。そう思い始めてしまうと、その息遣いを感じるほどに未明の顔が近くにあることも、気になってくる。微かな憂いを帯びた瞳が、いつもよりも大人びて見えた。
――今のこいつは、ガキだ……ガキ。
そう、自分に言い聞かせ。
少し未練を残しつつ、康平は解き終えた髪を手放した。
「ま、丁度いいから、今日は早く動くか。『壇ノ浦』を見に行こうぜ」
康平はそう言って身体を起こす。たいした内容ではなかった割にやや声が大きくなってしまったような気もするが、未明は気にならなかったようで、スルリとベッドから下りた。
「そうだね。時間ももったいないし。ちょっと、シャワー浴びてくるね」
「ああ」
着替えを持って、浴室へと向かう未明の後姿は、いつもと変わらない。小さな背中をピンと伸ばしていた。
「どうかしてるな」
小さくボヤいて頭を振りつつ、康平も着替えを始めた。
*
秋も深まってきたこの時期では、まだ朝日は覗いていなかった。
上限よりも太り始めている筈の月はすでに空になく、日の出にもまだ少し時を要する今が、一番暗い時かもしれない。
コンビニエンスストアで朝食を仕入れ、薄暗い中を、取り敢えずは壇ノ浦古戦場へと車を走らせる。眠いのか、それとも何か考え事をしているのか、未明は静かに車の外を眺めていた。
パーキングエリアに車を停め、そこから少し歩いて壇ノ浦古戦場に向かう。さほど時を置かずして、東の空が白み始めた。福岡の陸地の向こう側から日が射し始めるのは、少し不思議な感じがする。基本的に、本州は九州よりも東にあるが、ここではそれが入れ替わっており、西に下関、東に福岡の突端が位置しているのだ。
闇から群青に、群青から薔薇色に、薔薇色から見る見る空は白んでいく。
太陽の光が強くなるのと共に、雲の隙間から、天使のはしごが伸びていく。
その壮大で鮮やかな美しさに、大きく目を見張った未明は言葉もなく見惚れていた。
と、不意に、彼女の丸い頬を雫が転がり落ちていく。
「未明?」
名前を呼ばれ、彼女が大きく瞬きをする。それと共に、また一粒、溢れて落ちた。
すぐには、返事はなかった。
康平は、無言で待つ。
やがて、未明が口を開いた。
「私……この世界が、好き。私ね、一つの世界にこんなに長いこと留まったことなんて、なかったの。いつも、満月を待って、次元を跳んで。次の満月が来るまでは、じっと息を潜めていたの。夜明けも、何度も色々な世界で見てきたのに、ただひたすら『待つ』だけで、こんなふうに眺めたことは、なかった」
それだけ言って、静かに涙だけを流す少女を、康平は後ろからそっと包み込む。今にも消え失せそうな儚さが、今の彼女にはあった。
以前、未明は、ここに――康平の傍にいたいと、言った。だが、彼女を見ていると、時折それが揺らいで見える。あれは『約束』だったのか、あるいは、彼女の『願い』に過ぎないのか。
胸に押し付けた小さな身体は冷たく、小刻みに震えていた。自分の熱を与えるように、康平は腕に力を込める。
「お前は、ずっとこの景色を見ていくんだ。他にも、たくさん――俺と一緒に。そうだろ?」
康平も同じ空を眺めながら、未明にそう問う。彼女は、微かな溜息と共に、ようやく聞こえるかどうか、という囁き声を漏らす。
「うん……そうだね……そう、したいね」
涙を流していても、彼女は決してすがり付いてはこない。だが、それでもいいと、康平は思った。
――未明が入れられない力の分だけ、自分が彼女を抱き締める力を強めてやればいいのだから。
完全に朝が訪れるまで、二人はそうやって、佇んでいた。