六
目の前に横たわる、身体。
手の中の銃。
懇願の声。
差し伸べられる、手。
――そして……。
*
「あのさ、鍵になるのは負の感情じゃないかな――罪悪感とか、自分を責める気持ち」
朝食の席でそう切り出した未明を、康平は重苦しく痛む頭を持て余しながら見返した。
「何のことだ?」
「だから、昨日の女の子の話。ほら、お姉さんは眠ってしまったけれど、あの子は全然大丈夫だったでしょう? 飼い犬の死という、同じ悲しいことを経験したけれども、違う。で、何が違うのかって言えば、お姉さんは『自分が死なせた』と思っていた部分くらいなのよね」
彼女の『自分が死なせた』という台詞に、康平はギクリとするが、次の瞬間にはそれを押し隠した。
「そうか? けどな、そうやって眠らせることに何の意味があるんだ? 誰が得をする?」
「やっぱりキンベルだと思う。『旧き神々』はヒトの生気を搾取するんだけれども、恐怖や絶望に陥ったヒトのものを特に好んでいたの。眷族が放たれたのは、その為よ。ヒトを襲わせて、恐怖を味わわせる。……味でも違うって言うのかしらね。まあ、ほら、キンベルなら、『旧き神々』の欲することをしようとするんじゃないかな」
「ふうん」
康平は適当な相槌を返す。
ここまで来て、未明は康平の優れない顔色に目を留めた。
「康平……? どうしたの、具合悪い?」
案ずるように顔を覗き込んでくる未明を、康平は片手で追い払うようにして遠ざける。
「何でもねぇよ。寝不足なだけ。で、それならどうするんだ?」
ごまかされた未明はジッと彼を見つめる目を逸らさなかったが、諦めたようにホッと息をつく。
「できる限りで、眠っているヒトの背景を調べられないかな」
「そりゃ、難問だな。都会ならベラベラ喋ってくれるものもいるだろうが、こんな田舎町じゃ、近所の噂をただの観光客に話すとは思えん」
「そっかぁ」
康平の返事にそう呟くと、未明はまた黙々と食事を進める。
やがて食卓の上もあらかた片付いた頃、彼女が再び口を開く。
「方法が、ないわけじゃないんだけど……」
「え?」
「私の精神体だけを飛ばして、眠っている人たちの中を見てくることもできるの」
「それをやったらいいじゃないか。……危険があるのか?」
「まあ、それなりに。でも、危険と言うほどではないわ――精神体を飛ばすこと自体はね。問題は、残していく身体の方なの。完全に意識を失って、無防備になっちゃうから……結界を張っていっても、百パーセント安全とは言えないし」
本気で悩んでいる未明に、康平の中に、また理由の解らない苛立ちが沸き立ってくる。
「俺がいるだろう?」
「?」
「俺がいるだろうと言っているんだよ。お前の身体くらい、護ってやるさ」
「え、あ、ああ……」
まさに今初めて気が付いた、という風情で未明が瞬きをする。
彼女が悪いのではないことは解っている。ただ、『誰かがいる』という事態がまだ身に沁みていないだけなのだ。だが、それでも――。
イライラする。
康平自身、こんなことで腹を立てるのはおかしいと、頭の片隅で思っていたが、何故か自分の感情をコントロールできない。
ムッと黙り込んだ康平に、未明がおずおずと声を掛ける。
「あの、ゴメンね? 頼りにしてないっていうわけじゃ、ないんだよ。ただ、その……つい、独りでいる時と同じに考えちゃって……」
謝られて、彼は自分の理不尽さに歯噛みする。自分がおかしいことは判っていた――何かが変だ。
康平は己の中の違和感を自覚しながらも、口は素っ気無い言葉を吐いてしまう。
「行ってこいよ。俺はここにいるから」
彼の口調に一瞬うつむいた未明だったが、すぐに顔を上げると、ニコッと笑顔になった。
「行ってくる。私の身体をお願いね」
そう言うと、彼女は目を閉じる。何かを口の中で呟いたかと思うと、その体がくたくたと崩れ落ちた。思わず手を伸ばした康平だったが、目を閉じ、軽く唇を開いた、精巧な人形のようなその美しさに目を奪われる。テーブルに伏せた未明に自分の手で触れるのが躊躇われ、彼は声も無く見つめる。しかし、いつまでも不自然な格好でいさせれば、戻ってきた時に彼女はえらい目に遭うだろう。
溜息をついて康平は立ち上がり、未明の傍らに膝をついた。その身体の下に腕を差し入れて抱き上げると、ベッドに寝かせる。頬にかかった髪を払ってやろうとして、結局手を止めた。そのまま、ギュッと拳を握る。
そして未明から離れて自分のベッドに腰を下ろすと、ジッと彼女を見守った。
*
フワリと身体から抜け出た未明は、しばらくその場に留まって、康平が自分の身体を横たえる場面を見守った。そうして、その場を後にする。
彼は、優しい人だ。
そうでなければ、こうやって二人が一緒にいることは無かっただろう。
けれども、彼の中には何か『翳』がある。
――それは以前から感じていたことだった。
未明の考えが正しければ、この辺りを包む何かは、康平に少なからぬ影響を与えているのだろう。
彼女自身、ここに来てから生まれ故郷の世界のことを夢に観るようになった。それは、もう、永いこと無かったことである。
未明が『グールムアール』を受け入れる以前に、命を落としていった人たち。
未明の中の『グールムアール』を守ろうとして、命を落としていった人たち。
夢の中で彼らは口々に彼女を責める。
何故、もっと早く決断しなかったのか。
何故、お前の為に死ななければならなかったのか。
けれど、未明がその声に押し潰されることはない。
未明は、自分のできる範囲のことをする為に、精一杯のことをやった。
『グールムアール』を守ろうとした人たちは、彼らの意志で戦い、死んでいった。
自分も含めて、皆、そのときできることをやったのだ。後悔するのは、それを愚弄することになる。
彼女にはそれが解っていたから、じわじわと侵食しようとにじり寄ってくる何かを撥ね退けることができた。
だが、康平は――彼は、どうなのだろう。
ここに来てからの康平は、いつもの飄々とした彼とは違う。今の彼からは、何かに追い詰められているような、切羽詰ったものが感じられる。
――彼を、護らないと。
未明は心の中で決意する。
自分を護ってくれると言ってくれた彼は、間違いなく、彼女の中で『特別』な存在になりつつあった。今はどこかすれ違ってしまっているけれど、未明にとって、それは覆せない決定事項だった。
早く、ここの謎を解かなければ。
ひいては、それが康平を楽にしてやることになる筈だ。
決意を新たにした未明は、一瞬にして場所を病院へ移す。
精神体の彼女は感覚が鋭敏になっており、昨日感じられた重苦しい空気が、今は、うっかりすると押し潰されてしまいそうになるような質感を伴っていた。
――ホント、イヤな感じ。
内心で呟いて、未明は眠り病の病棟へと向かう。
そこは相変らず、患者とその付き添いで溢れかえっていた。
勝手にヒトの心を盗み見るのは気が引けたが、倫理がどうとか言っていられない。この件が解決したら、彼らも助かるのだと自分を納得させ、未明は、一人一人に触れていく。
やはり、未明の推測どおり、負の感情が彼らを眠りの奥深くに引きずり込んでいるようだ。
そこから伝わってくるのは、ありとあらゆる『後悔』や『罪悪感』。
――こうすれば良かった。
――ああしなければ良かった。
――私の所為だ。
――……。
その声は数限りない。ヒトはそれぞれ、何かをしたことで後悔し、何かをしなかったことで後悔している。きっかけは些細なことでも、何者かが干渉することで、重く深いものになってしまっているようだった。彼らは皆、己の負の思いに押し潰されて、心の奥底に閉じこもってしまっている。
数少ない小児患者のうちに、自分と同じ年頃の少女を見つけた。その容姿は、昨日出会った、仔犬を連れていた少女に似ている。
――あの子のお姉ちゃんかな。
手を伸ばして、彼女に触れてみる。
夢の中で、犬の手綱を引いた少女が転び、その手から綱が零れ落ちる。犬は弾丸のように飛び出し、走ってきた自動車に轢かれた。血に塗れた骸の前で、少女は嘆く――あたしのせいだ……あたしが殺した。彼女の中には、その思いがいっぱいに渦巻いている。
無限の螺旋に陥ったような少女に、未明の胸が痛くなる。
――いったい、誰が手を出しているの?
だが、患者たちからは何もわからない。
未明は病院を出ると、空高くに上った。
それだけ上昇したらシーカイに触れてしまいそうになりそうなものだが、距離は全く縮まらない。次元が違う為なのだろう
ぐるりと見渡すと、一番風車群に気持ちが引かれた。
――やっぱり、あそこに何かある……。
未明はさらに上昇し、ほぼ真上からそれらを眺める。
と――。
一瞬、何かがキラリと彼女を刺激した。
未明は感覚を凝らし、探る。
そこに現われたのは、風車を点とし巨大な魔方陣を描く魔力の線だった。それは、効力を発揮しつつ、察知されるかどうかギリギリのところを保つ、計算しつくされた緻密な魔力のラインだ。感覚が剥き出しになった精神体でなければ、気付かなかっただろう。だが、その繊細さはキンベルらしくない。
――だったら、今回の黒幕は、アレイスの方なの?
魔術に長けた『求道者』であるアレイス・カーレンであれば、これほどの魔方陣を書く事も可能であろう。もしも彼だとするならば、何のためにこんなことをしでかしたのか。
術それ自体がこの世界の人間を害するものではないから『理』を乱すことはないが、あまりに広範な術は、魔力に馴染んでいないこの世界にどんな影響を及ぼすか予測不能だ。
――早く解かなくちゃ。
そう心中で呟き、未明は置き去りにしてきた己の身体のことを思った。