五
目の前に横たわる、身体。
手の中の銃。
懇願の声。
――そして……。
*
翌日、一晩ぐっすり眠った筈だが、康平は何となくだるさの残る身体をもてあましていた。何か、眠っている間中、活動し続けていたような感じがする。すっきりしないのは未明も同様のようで、『おはよう』の声に張りがなく、朝食も進んでいなかった。
旅の疲れなのか、この町で起きている現象に巻き込まれたのかは判断しかねたが、二人は取り敢えず病院へ行ってみることにした。
空に浮かぶ化け物は非常に気になるところではある。しかし、まずはシーカイの影が本当にこの異常現象と関係があるのかどうかを確認した方がよいだろうということになったのだ。
小さな町だけに入院病床のある病院はなく、もう少し大きな隣町の町立病院にこの眠り病専用の病棟ができているらしい。要は、それだけ多くの人々が被害に遭っているということになる。
ホテルを出た二人の視界を、時々、フワリと妙なものがよぎる。それは、猫ほどの大きさがある蚊のような姿をしていた。未明いわく、『シーカイの眷属の影』とのことだ。
「基本的にはただの『影』だからヒトには害がない筈なんだけど……弱っているヒトなんかは、影響を受けるかもしれない」
未明は、それらを目で追いながらそう言った。
――親玉がグロければ、その子分もグロいな。
康平が率直な感想を浮かべる。その『眷属』とやらは、蚊に似てはいるのだが、口吻は太く、開閉することができるようであり、その中には鋭い歯が見えた。刺すというよりも食いちぎる役割の方が大きそうだ。脚は四本、先には鋭い鉤爪があり、一度捉えられたら二度と放してくれなさそうだ。その背には、透き通った翅がある。姿形もそうだが、そもそも、その大きさからしてえげつない。猫ほどもある昆虫など、よほど虫好きでなければ――いや、いくら虫が好きでも、嫌だろう。
あんな蚊に食われたくないと、康平は心底から思った。
病院への道はスムーズで、信号もなく、車を十分も走らせると着くことができた。
院内はごった返しで、対応に追われているのか、眠り病の病棟はどこかと訊くと二つ返事で教えてくれる。あまりの多さに、急遽二つの病棟を眠り病専用にしたらしい。病棟に入る人間もいちいち確認する余裕がないのか、完全にノーチェックだった。
康平と未明は、一部屋六床の病室を、一つ一つ覗いていく。
と、妙なことに気がついた。
「子どもがいない、ね」
未明の言葉に、康平も頷く。
明らかに、子どもの数が少ない。十歳以上は時々見かけたが、小学校低学年以下の子どもの姿は数人程度、幼児はおそらく、いない。逆に、高年齢層になればなるほど数を増していた。
この現象が単純に風力発電施設の低周波によるものだとすれば、加齢による可聴域や低周波に対する感受性の違いによるものなのかもしれない。
シーカイの影響だとすれば、それはどんな作用によるものなのだろうか。
患者たちは、点滴だけをつながれ、わずかな身じろぎも見せず、表情一つ変えることなく、昏々と眠っている。
それは、明らかに不自然な眠りだった。
「何か……イヤな感じ」
ポツリと未明が呟く。彼女が口にしなければ、康平が同じ台詞を吐いていただろう。
元々、病院というものは重苦しい雰囲気に包まれているものだろうが、この病棟は、特に圧迫感があった。天井が低いような、空気が実際に重量を持っているような、そんな違和感だ。ベッドの下や部屋の隅など、ちょっとした陰には何かがとぐろを巻いているような気もしてくる。だが、それは『印象』に過ぎず、明確なものではない。
結局、明らかな収穫はなく、二人は病棟を回り終わった。
「出るか……」
康平の促しに、未明はコクリと頷く。
病院の外に出ると、二人は思わず大きな息を吐いた。
「多分、魔術は関わってる。でも、どんな術なのか、よく解らないわ。痕跡のようなものしかないの。『眷属』の影も何らかの影響は及ぼしているとは思うのだけど……直接の害ではないよ」
そう言って、未明は黙り込む。
恐らく、彼女の中には黒幕に心当たりがあるのだろう。だが、それを口にしないのは、康平を立ち入らせない為だ――でき得ることなら、自分ひとりで何とかしようと考えているに違いない。この一ヶ月の経験で、康平にも思い当たる者が思い浮かんだが、半ば意地のようになって、その名を出すことはしなかった。
「風車の方に行ってみるか?」
話題を変えるように、康平は切り出した。
「そうだね。ここで判ることはあまりなさそうだし」
頷いた未明は先に立って、独りで歩き出す。
その背中は、少女の姿だということもあるが、細い。時々彼女の肩を掴んで強く揺さぶってやりたくなるのは何故だろうかと、康平は自問する。イライラするのか、もどかしいのか、自分の方を振り向かせたいのか――。正直言って、自分でもよく解らない。だが、もう何年も感じたことのない感情の揺らぎであることは確かだった。
彼女は、独りでどこまででも歩いていくのではないだろうか。
――実際、これまでは独りで歩いてきたのだから。
そんなことを考えた康平の足が、止まった。
遠ざかっていく未明の背中を無言で見送る。
と。
ついて来ない康平に気づいたのか、彼女が振り返った。
「ちょっと、どうしたの? 行かないの?」
離れた康平を訝しげに見る――一緒に来て当然、と思っている未明の視線を向けられ、彼の胸の中に、何か名状し難い感覚がじんわりと滲み出した。
「行くよ」
短く答え、歩き出す。
離れたと思った距離は、数歩で無くなった。
*
海岸にずらりと並ぶ風車群は、圧巻だった。
何十基あるのか、とても数え切れない巨大なそれらは、海からの強い風を受けて一つ残らず勢いよく回っている。
そして、どこまでも広がる風車全てに覆い被さるように、空にはソレがまどろんでいた。
「風車は凄いんだけど……アレはできたら見たくないなぁ」
風に揉まれるお下げを両手で押さえながら、未明がしみじみと呟く。当然、康平も同感だった。
未明が空をジッと見上げて立つ。その目は強い意志を秘めていて、一歩も引かなかった。だが、同時に、幾多の経験を積み重ねてきた彼女は、無謀と勇猛を混同することはない。
しばらく考え込んでいたが、やがて未明が呟いた。
「やっぱり、満月の夜ね。今の私の力だと、不測の事態が重なったら失敗するかもしれない」
『不測の事態』。
それが指すのは未明の事を付けねらっている者どものことだろう。
「『あいつら』、やっぱり来ると思うか?」
「多分、ね。あるいはもういるのかもしれない」
「何か感じるのか?」
「ううん。でも、あの眠り病にシーカイの関与が感じられないから……。でも、何かが魔術で手を加えているのは、確かなの。それは、感じる。だとすれば、可能性として高いのはキンベルのほうだわ。こんなふうに現れているシーカイを、彼が見過ごすとは思えない」
きっと、祭壇とか作っちゃう――。
未明は、自分の命を狙う者のことを茶化すようにそう言った。
この空に浮かぶ化け物やその仲間の『旧き神々』を崇め奉る『崇拝者』であるキンベル。彼は化け物どもを解放せんと目論んでおり、その鍵となる未明の命を延々と狙い続けているのだ。
いっそ斃してしまえば楽だろうに、未明はそれをよしとしない。多くの死を見てきた彼女は、これ以上誰かが傷付く姿を見ることを望まなかった。康平は、次にキンベルが現れた時には、自分の手で始末をつけてやろうかとも考えている。
空に浮かぶモノ以外に、風車の森に取り立てて変わったことは無く、康平と未明はしばらく散策する。
かなりの広さはあるが、取り敢えず風車が立ち並ぶ中を端から端まで歩いてみようということになった。
半ばほどまで来た時、二人の足元に仔犬がじゃれ付いてきた。首輪と引き綱がついているところを見ると、散歩途中で脱走したに違いない。
「どこの子?」
未明が屈んで抱き上げると、仔犬は狂ったように彼女の顔を舐めようとじたばたと身体を伸ばしてくる。
「ちょ、やだぁ」
口ではそう言いながらも、未明の顔にあるのは満面の笑みだ。立ち上がった彼女がキョロキョロと周囲を見回すと、二人に向かって駆け寄ってくる七、八歳程度の少女の姿が目に入った。
「あの子が飼い主かな」
「多分な」
康平が頷くよりも先に、未明は少女に向けて歩き出す。
「ラッキー、ダメだよ、勝手に行っちゃあ」
息を切らした少女は未明の前で立ち止まると、仔犬を睨み付けながら第一声でそう言った。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「あなたの子?」
「そう。ラッキーって言うの」
差し出された仔犬を受け取りながら、少女が屈託のない笑顔を浮かべた。
「お姉ちゃんたち、『観光客』?」
「そうだよ。この風車を観に来たの」
「これ、凄いでしょ?」
自慢そうに少女が胸を張るのが、微笑ましい。きっと、この町の誇りなのだろう。
「うん、凄い。でも、あなたはこんなところで一人でいていいの?」
未明が、若干心配そうに訊く。小さな町で問題が起きることもないだろうが、年端もいかない少女が独りでいるには、ちょっと寂しすぎはしないだろうか。
未明の問いに、少女は少し沈んだ表情になって、答える。
「いつもはお姉ちゃんと一緒なの。でも、お姉ちゃん、今『入院』してるの……」
「眠って起きなくなっちゃった?」
「そう。ジョンがね、あ、ジョンって言うのは、ラッキーの前にウチにいた子なんだけど、お姉ちゃんがジョンを散歩させてたら、逃げ出して車に轢かれちゃったの。お姉ちゃん、すっごく泣いて――朝になっても起きなかった。私もうんと泣いたんだけどなぁ」
「お姉ちゃんって、体弱かったの?」
「ううん! すっごいんだよ? 『りくじょうぶ』に入ってて、大会で三番になったこともあるんだから」
やはり、眠りに堕ちるかどうかは、体力とは関係が無いらしい。では、この少女とその姉を分けたものは、なんなのだろう。
少女はもう一度未明に礼を言うと、雲がかかり始めた空を不安そうに見上げて、去っていく。
彼女の姿が充分に離れた頃を見計らって、未明が康平を見上げた。
「今の話、どう思う?」
「どうって?」
「ん、今の話に、何かヒントがある気がする。……でも、なんだろうなぁ」
首を傾げる未明だったが、その鼻の頭にポツリと雫が落ちる。
二人がそれに気付いた途端、一気に雨脚が強まった。
「今日のところは、帰るぞ。ホテルで考えればいい」
叩きつけるような大粒の雨だ。
康平は抱え込むようにしてジャケットの内側に未明を入れ、歩き出す。だが、どちらも濡れネズミになるのは、時間の問題だった。