四
目的地に向かうレンタカーの中。
康平はほとほと手を焼いていた。
「なあ、そろそろ機嫌直せってば。ずっと飛行機の中にいるわけにもいかなかっただろう?」
空港を出てから一時間、未明はウインドウの枠にかけた腕に顎を乗せたきり、康平に声をかけることはおろか、顔も向けてくれない。今も、ウンともスンとも答えない。よほど、子どものように担がれたのが腹に据えかねたとみえる。
康平は諦めの溜息を漏らした。
と、不意に。
彼の溜息に反応したわけでもないだろうに、未明は両手を窓枠にかけると車外に上半身を乗り出した。
「ちょ、お前、危ないだろ! 戻れよ」
道幅は広く、平地を走っているので何かにぶつかる可能性は低いが、転げ落ちそうなほどに乗り出されると心臓に悪い。
だが、未明は身体の半分を車の外に出したまま、ジッと前方を見つめている。
――なんか、嫌な予感がしてきたな。
以前にも、こんなふうに彼女が妙な行動をするのを見たことがある。
あの時は……。
「……空が……」
未明がポツリと呟いて、それきり押し黙る。康平も未明と同じ空を見ていたが、彼の目には何も映っていなかった。以前、未明に彼の目も異質なものを見ることができるようにしてもらった筈だが、感度が違うらしい。だが、彼女の視線はほぼ一直線の道の前方に向けられており、これから行く先の空に何かがあることは間違いがないようだった。
門屋が調べてこいと言った事柄がこの世ならざるものと関係しているのは、どうやら避けがたいことのようだ。まあ、ある程度、予想の範囲内ではあったのだが。
しかし――と、康平は運転をしながら考える。
彼の『現実』はこんなにも『非現実』と隣り合わせだったのだろうか。
未明と出会うまで、当然のことながら、康平は魔法や化け物などというものと関わったことがなかった。それが、この一ヶ月間で一体どれほど現実とかけ離れた事象に接触したことだろう。未明が引き寄せているものなのか、それとも、彼女と共にあることで元々存在していたものが見えるようになっただけなのか。
まあ、康平にとって意味があるのは、目の前にあることだけなのだが。
本来の『現実』の姿など、どうでもいい。
しばらく走らせると、次第に康平の目にも『ソレ』が見て取れるようになってきた。
「なんだ、ありゃ……」
思わず車を停める。車外に出て、片手をかざして夕陽を遮り、マジマジと見つめる。
『ソレ』は、水に映した影のようにも見えた。まだ遠い空の中に、時々フッと揺らぎながら、たゆたうように浮いている。大きさは、いったいどれほどになるのか見当もつかなかった。
姿形は、何と表現したらいいのか。一番近いのは、卵から孵る直前の雛かもしれない。羽毛はなく、黒ずんだ、つるりとした肌がぬめりと光っている。異様に大きい目は、まどろんでいるように、今は閉じられていた。
「アレは、『旧き神々』のうちの一体、『空に棲まうもの』――シーカイよ」
見下ろすと、いつの間にか降りてきていた未明が隣に寄り添っていた。
「シーカイ?」
「そう。でも……変だわ」
「何が?」
「今まで色々な世界を渡ってきたけれど、こんなに大きな亀裂を見たのは、初めて。これまでは、ホントに、ちょっと隙間から覗けるくらいだったのよ?」
「ありゃ、『亀裂』っていうか、『透けてる』って感じじゃないか?」
「ええ、……そうね。そういうのも、初めてだわ。やっぱり、眠ってしまう人たちっていうのには、アレが関係しているんだと思う。……外に影響が出ているだなんて……」
多分、無意識なのだろう。未明の手が康平の腕に触れ、すがるようにしがみついた。その手の小刻みな震えが、彼女の内心の緊張を如実に伝えてくる。
――また、独りで何とかしなくちゃ、とか思ってるんだろうな……。
確かに、康平に手伝えることなどないのだが。
結局、自分には未明の助けなどできない。
康平は、頼ろうとしない彼女に、言外にそう拒絶されているような、気がした。
そんな苦い思いを押し隠し、彼は未明の頭をくしゃくしゃと撫でる。
「ま、一日二日でどうなるもんでもないだろうし、取り敢えず、今日は宿に行こうや。一晩休んで、明日は色々まわってみるぞ」
空から目を離せない未明を助手席に押し込んで、車を発進させる。
道は、化け物が浮かぶ空の下へと、真っ直ぐに向かっていた。