三
空港に来てみると意外に席があり、二人は何とか昼すぎの便を取ることができた。便利なもので、飛行機であれば北海道まで二時間とかからない。十六時頃には旭川に着けるから、そこから車を走らせても夕食時にはホテルで休めているだろう。
「ねえ、本当に、アレが空に浮くの……?」
搭乗待ちの間、待機しているジャンボジェット機を目前にし、未明が鼻白んだように言う。
「ああ? 今まで、浮かなかったことはねぇな。何だっけ、ほら……ゆうりょく?」
「揚力――理屈は読んだけれど、やっぱり、信じられない」
彼女のその眼差しは、「乗りたくない」と言い出しかねないものだ。
「大丈夫だって。墜落する可能性は交通事故に遭うよりよっぽど低いらしいぜ?」
「それは、統計上の話でしょ? 度数がずいぶん違うのだから、比較の対象が良くないと思うの。きっと、飛行機が自動車と同じくらい飛んでいたら、事故の頻度だってぐっと増えるに違いないわ」
「でもな、ほら、飛行機には飛行機同士の衝突ってのは滅多にないだろ? あるのはエンジンの故障か、鳥がぶつかったとかいうものぐらいじゃんか――そんなのはそうそうあることじゃない」
結局、飛行機に乗るのがイヤなだけだったのだろう。康平に諭されて二の句が告げなくなった未明は、ムッと口を引き結んだ。
子どもじみたその仕草に、今までもっと厄介な奴らを相手に、互角以上にやりあってきた筈なのにと、康平は苦笑を漏らす。飛行機などよりも、よほど、恐ろしい目に遭ってきた筈だ。
どうしても飛行機から目が離せずにいる未明を横目で眺め、康平は、彼女の『これまで』に思いを馳せた。
未明と暮らし始めて一月にはなるが、どんな小さなことでも、自ら康平に頼ってくることは一度もなかった。
いつぞやは夜も遅い時間に姿が見えなくなり、また拉致されたのかと慌てて探しに出たら、コンビニ袋を片手に歩いてくる彼女と出食わした。何をしているのかと詰問した彼に、きょとんとした顔で「朝食のパンがきれていたから」とのたまったものだ。康平が住処としている界隈は、治安が悪い。少女が夜中に一人で出歩いていい場所ではないのだ。度々言い聞かせていることを強い口調で繰り返すと、未明は済まなそうな顔で「康平はお風呂に入っていたし、近いからいいと思って……」と言った。
先だっての地震の時は、部屋に様子を見に行ったらベッドの下で布団を被って縮こまっていたし――彼女はこれまで地震というものに遭ったことがなかったらしい――、時々、部屋の明かりを消せずに眠りに就いていることもある。
こうやって屁理屈をこねるのも、素直に『怖い』と言えないからなのだろう。
一緒に過ごしてはいるけれど、まだ、彼女は本質的なところで『独り』なのだ。
しみじみとそれを噛み締める康平に、搭乗案内のアナウンスが入る。
「未明、行くぞ」
椅子から立ち上がって、未明に声を掛ける。しかし、彼女は渋い顔で動き出そうとはしなかった。
「何だよ、やっぱり怖いのか?」
――その一言を、出してみろよ。
だが、やはり未明は未明だった。
「そんなこと! ……ないけど」
尻すぼみにそう言い、唇を噛むと、彼女は康平に先立って歩き始める。
その後に続いて歩きながら、彼は小さく溜息をついた。
*
シートに座って、ベルトを締める。
その時点で、未明は両手を膝に揃え、真っ直ぐに前を見つめ、完全に固まっていた。
「もっとリラックスしたら?」
「……してるよ。全然、平気」
何処をどう見ても、そうは思えない。キャビンアテンダントが酸素マスクの使い方やら安全姿勢の取り方やらを教えているが、未明の頭にどの程度入っているかは、疑問だ。
やれやれ、と康平はシートにもたれて目を閉じる。
じきにキャビンアテンダントの説明は終わり、微かな振動と共に緩やかに機体が動き出した。と、肘掛に載せた康平の手に、何か柔らかく温かなものが触れる。感触からそれが何なのかは充分に推測できて、彼は薄く笑みを浮かべる。
ゆるゆると動いていたジェット機は方向を変え、離陸のための滑走路に入ると、次第にスピードを上げていく。それに伴い、Gがかかった身体がグッとシートに押し付けられた。
と――。
「いてッ!」
思わず康平は声を上げた。その声を聞きつけたのか、キャビンアテンダントが座席に捕まりながら近寄ってくる。
「どうかなさいましたか、お客様?」
心配顔のキャビンアテンダントが覗き込んでくるのへ、彼は苦い笑いで手を振った。
「大丈夫、何でもない」
だが、もう一方の手の甲には、今もギリギリと未明の爪が食い込んできている。それは、まるで、必死にしがみついてくる仔猫のようだ――爪が薄いだけに、痛い。
キャビンアテンダントを帰すと、康平は爪を立てられている手をひっくり返し、彼女の手を握りこむ。小さな握り拳はブルブルと震えており、康平の手のひらがすっぽり包み込んでもまだ余る大きさだった。
顔は無表情だが、未明が心底から震え上がっているのは、明らかである。
――なんで、その一言が出ないかな。
弱音の一つも吐いてみれば、可愛いものを。
そう心中でボヤきながら、康平は彼女の拳を包む手に力を込める。伝わってくる震えが、わずかに弱まった気がした。
天候はよく、殆ど搖れることのない順調なフライトだった。時折雲が窓の外にぽっかりと浮いているのが見えたが、未明はチラリとも目を遣ることはない。新幹線の時のように窓に釘付けになるとばかり思っていた康平には少し期待外れだったが、この怯えようでは仕方がないのかもしれなかった。
やがて、北海道の広大な大地が見えてくる。
じきに着陸態勢に入る旨のアナウンスが入り、シートベルト着用を指示するランプが点灯した。
「もうじき着くぞ」
多少は安心するかと思って未明に声を掛けると、彼女は無言でコクリと頷く。
康平の言葉が合図だったかのように、旋回しているのか、窓の外を占めるのは空よりも北海道の景色がメインになった。迫ってくるような地面が視界に入ってしまったらしく、未明の全身があからさまにびくりと震えた。見る見るうちに緑の絨毯のようだった森の一本一本の木々が認識できるようになり、家屋も『建物』に見えるようになってくる。
やがて空港と滑走路が見えてくると、間を置かずして下から軽く突き上げるような振動が伝わってきた。ガ、ガッと何度か揺れはしたが、取り立ててトラブルもなく、ジェット機は無事に着陸を終える。
シートベルト着用ランプが消えるのを待って、機内はざわめきで満たされ、各々が降りる準備を始める。康平もシートベルトを外し、立ち上がった――が、未明が微動だにしない。
「おい? 着いたぞ? 降りる準備しろよ」
声を掛けたが、やはり動かない。
「おい?」
三度目にして、ようやく、首が軋む音を立てるのではないかと思うほどぎこちなく、未明が康平を見上げてきた。
「……てない」
「あん?」
「立て、ない」
よくよく見れば、彼女の栗色の目はうっすらと潤んでいる。
――腰抜かすほどビビってたのかよ……。
溜息をつきつつ康平は身を屈めて彼女のシートベルトを外してやると、手荷物を持っていないほうの腕に抱き上げる。未明が慌てたように彼の首にしがみついた。
「ちょっ……と!?」
未明の抗議の声には取り合わず、康平はさっさと歩き出す。周囲からの視線に彼女の頬が真っ赤になっていることには、全く気付いていなかった。
「お客様……?」
出口で客を見送るキャビンアテンダントが康平の腕の中の未明に目を止めて怪訝そうな眼差しを向ける。
「こいつ、飛行機初めてなもんで、ビビっちまったようなんだ」
「まあ、そうですか……」
キャビンアテンダントの生ぬるい微笑が未明に向けられ、耐えられなくなったかのように康平の肩口に顔を埋めてきた。
「後で、覚えてなさいよ」
ぼそりと呟いたその声は、康平だけに届く。思わず彼は、肩を揺らして笑ってしまったが、それがより一層未明の怒りを買ったことは、言うまでもなかった。