二
道々不機嫌そうに黙り込んでいた康平だったが、自宅へ着くと、開口一番、未明を問い詰めた。
「お前、どういうつもりだよ?」
「え?」
康平が苛立っている理由が判らないのか、未明がきょとんと見上げてくる。
「四日後には満月だろ? うろつかないほうがいいんじゃねぇの?」
「え? あ、ああ。そのこと……」
他人事のような未明の返事に、康平がむっと眉根を寄せた。
「『そのこと』じゃ、ねぇだろうが。お前自身の問題だろう?」
――そう、未明には『問題』がある。
彼女が実は他の世界の人間だということも『問題』だろうし、今の十歳程度の少女の姿は仮のもので、実は成人した女性だということも『問題』だろう。だが、一番の『問題』は、それぞれの目的で彼女を狙う二つの存在――『崇拝者』と『求道者』――があることだ。
未明の本来の名前はミアカスール――彼女の生まれた世界では『希望をもたらすもの』という意味がある。彼女の故郷は、かつて『旧き神々』と称されたものたちによって支配されていた。それらを封じるために創り出されたのが『グールムアール』――至高の魔道書である。あまりに強大な力を持つその魔道書を宿せるのは、全く魔力を帯びていないという、彼女の世界においては特異な体質を持つ、未明だけであったのだ。彼女が『グールムアール』をその身に宿し、『旧き神々』の封印の礎となることにより、世界は平穏を迎えた筈だった。
しかし。
『旧き神々』による脅威が去った後は、『旧き神々』を崇拝し、未明を殺すことでそれらを解放せんと目論む『崇拝者』、未明の中の『グールムアール』を欲した『求道者』、そしてそのどちらをも防ごうとする者たちの三つ巴によって、新たな戦いが始まってしまったのだ。
自分を巡って人間たちが相争う事態を憂えた未明は、その世界を離れることを決意する。次元を跳び越え、世界を渡るほどの能力を持っているものは極わずかだ。大勢が争うよりも、少数から逃げ回る方が得策と考えたのだった。そして、世界を渡る未明の放浪と、それを追跡するものたちとの攻防が始まる。『崇拝者』からの追っ手は、キンベル・ゲダス――黒髪、黒瞳の巨漢だ。もう一方の『求道者』からの追っ手は、アレイス・カーレン――金髪、碧眼の優男である。
キンベルは時を選ばず未明の命を狙ってくるが、アレイスが『グールムアール』を奪えるのは満月の夜のみであるため、裏を返せば、多少なりとも余計な手間を省くには、満月にはジッと息を潜めている方が良い筈なのだ。
それを考えて、康平は『一週間後』と言ったというのに、未明は門屋の肩を持ってしまった。
せっかく康平が気を配ってやったにも関わらず。
ずっと独りでやり過ごしてきた所為か、未明は他人の気遣いや助けというものに無頓着だ。それは、必要としていないからというよりも、多分、経験不足の為にしてもらっていることに気付かない為だろう。
なまじ見てくれが年端もいかない少女なだけに、康平は未明のそんなところにジリジリする。甘やかすつもりはないが、少しくらいは頼ってくれてもいいのではないかと思うのだ。
だが、そんなふうにイライラを見せる康平に、未明はくすぐったそうに笑う。
「ふふ。結構心配性だよね、康平は。大丈夫だよ。それに、かえって満月が近いのは好都合なのかもしれない」
「?」
「なんだか、嫌な予感がするの。何か大仕事をしなければならない事態になったら、満月の夜が最適だわ。一番『グールムアール』の効果が最大になる時だもの」
「まあ、いいけどよ、お前がそう言うなら。だけどな、一番の問題は、これから行く先が北海道だということだ」
「何で?」
未明がきょとんと彼を見上げる。
「北海道へは、飛行機で行くことになるんだよな。車や電車で行けないこともないが……」
飛行機であれば、うまくいけば今日の夜には目的地に着くが、車や電車のみとなると、移動だけで一日かかる。疲労も入れると、時間のロスが大きすぎる。だが、飛行機で行くとなると……。
「飛行機だとチェックが厳しいし……流石に、色々持っていけないんだよなぁ」
明らかに銃刀法に引っかかる諸々のものを持っていって、何かの拍子に見つかったら、結構まずい。数日余裕があれば、それなりに手は打てたのだが。
「あいつらが襲ってきた時、空手じゃ心許ない」
呟いた康平に、未明が声をかける。
「武器がないことが、心配なの?」
「まあ、なあ。ま、何か現地調達したもんで作ればいいか」
鉄パイプ、チェーン――ホームセンターにでも行けば、いくらでも材料は見つかるだろう。工夫次第では何でも武器になる。
「しゃあないな。じゃ、支度するか。着替えだけ詰めりゃいいからな。まだこの時間だし、うまくいきゃ、昼の飛行機を捕まえられる」
迷いを取り去ると、康平が動き出す。だが、その彼を、なにやら考え込んでいた未明が呼び止めた。
「手を出して」
「ああ?」
「私が、武器をあげるわ」
「はあ?」
何を言っているんだか、という視線を向ける康平だったが、未明はいたって真面目な顔をしている。
「左手を出して」
未明が繰り返した。その眼差しに促され、康平は言われるがままに左手を差し出す。
彼女は康平の手を取ると、右手の小指を噛み切った。
「おい!?」
「大丈夫」
慌てる康平には取り合わず、未明はその小指から流れる血で彼の左手に何かをつづっていく。それは驚くほど明瞭な文様を刻み、より複雑になるに従って、康平の全身の血が滾り始めた。
「……くぅッ」
思わず康平は呻き声を上げたが、未明は何か呟きながら自分の作業に没頭しており、ちらりと視線を上げることすらしなかった。やがて手を止めた未明は、目を閉じ、康平の左手を挟み込むように両手をかざすと、朗々と声をあげる。それとともに彼の左手の文様が強い光を放ち、全身を沸騰した血液が流れているような灼熱感が襲う。
輝きは一瞬で、フッとそれが消えると同時に康平は強い立ちくらみを覚え、思わずその場に膝をついた。
「大丈夫?」
未明が軽く眉をひそめて、尋ねる。
「――じゃ、ねえ」
視界はちかちかと様々な色の光が瞬き、足には力が入らない。
「すぐに治ると思うから、ちょっと休んでて。その間に荷物作ってくる」
そう言うと、未明はリビングを出て行った。
残された康平は、何とか椅子の上に身体を引き上げると、ぐったりともたれさせる。左手を見ると、そこには何も残ってはいなかった。平も甲もためつすがめつしてみるが、血の染み一つない。いつしか、身体の熱も引いていた。
――これで、何ができるって言うんだ?
十分としないうちに、未明が大小のボストンバッグを抱えてリビングに戻ってくる。
「もう、平気?」
椅子に座っていると、ジッと覗き込んでくる未明とまともに眼が合う――何となく、居心地が悪い。康平は、わずかに視線をずらした。
「……大丈夫だ」
応えて、康平は立ち上がる。一瞬視界が暗くなったが、さりげなく瞬きするとすぐにおさまった。
「じゃあ、ちょっと左手を貸して?」
言われるがままに手を差し出すと、未明がジッと目を凝らして見つめる。そして、顔を上げた。
「あのね、頭の中で使い慣れたナイフを想像して、『我に応えよ』って念じながら、『キ・サム』って唱えてみて? 『俺に応じろ』でも『従え』でもいいわ。とにかく、そんな感じのことを考えながら、だよ? あ、左の手のひらは上に向けておいてね」
なんだかよく解らないが、取り敢えず従ってみることにする。言われたとおり、左手のひらを上に向けて。
「えぇと、き・さむ?」
「もう、気持ちが入ってない!」
そう言われても、そんな呪文みたいなものを口にするのは、普通の二十九歳の男にしてみたらかなり恥ずかしい。
「あー、き・さむ」
「もっと!」
「キ・サム!」
半ばやけくそで康平が声を張り上げる。
その言葉とともに。
康平の左手が燃えるように熱くなり、その手のひらに先ほど未明が刻んだ文様が浮かび上がる。そこから強烈な光が放たれたかと思うと、一瞬後には、彼の目の前に金属ともガラスともつかない、形だけはコンバットナイフをしたものが出現していた。
「手に取ってみて」
呆気に取られていた康平だったが、未明の声に我に返る。
「ああ……」
掴んだ途端に消えるのではないかと思いつつハンドルを握ると、それは怖いほどにしっくりと手に馴染む。
「それは、あなたの思考に応じて形を変えるわ。今はナイフを考えているから、それ。長剣になるように念じればそうなるし、あなたが構造をしっかりと想像できるのなら、弓や銃なんかにもなるわ」
「すげえな」
呟き、言われたとおりに銃の部品一つ一つを思い出し、念じる。次の瞬間、ナイフは大型のハンドガン――Mk23へと変化した。手にずしりと馴染む感覚は、懐かしさとともにわずかな嫌悪感を思い出させる。
「これ……撃てんの?」
「あなた次第ね。あなたがそれを銃だと思って、発射できる構造だと思っていれば、撃てるわ」
「へぇ。でも、こんな便利なことができるんなら、もっと早くやってくれてもよかったじゃんか」
「……ええ……」
目を伏せて答える未明の口は重い。
また、康平に何かを負わせることに引け目を感じているのだろうか。
だが、康平からしてみれば身を守るために使えるものは、全て使ったらいいと思う。彼のことも最大限に利用したらいいのだ。
何を躊躇することがあるのだろうと、彼が怪訝な眼差しを彼女に向けると、それに気付いた未明が微笑んだ。
「でも、使いすぎると体力を消耗するから、使いどころを考えてね? で、戻す時は、出すのと同じ要領で『キ・ナム』……『我に戻れ』って唱えて」
「キ・ナム」
早速口にすると、Mk23は瞬時に消え失せた。便利なことこの上ない。
「よし、じゃあ、一番の問題は解決したことだし、さっさと出かけるか」
康平はそう言うと、大きい方のボストンバッグを肩にかけ、小さいものを取り上げて未明に差し出した。
満月まで、あと四日――ということは、三日で片をつけてくればいいのだ。行くと決めたのであれば、さっさと動くに越したことはなかった。