十三
小旅行から戻って、数週間が過ぎた。
門屋からめぼしい情報もなく、進展のないまま日々が過ぎている。
その日、康平は、鮮やかな夕焼けの中でベランダに立つ未明に気付いた。
彼女はジッと空を見つめている。
「どうした?」
「うん……多分、今日……」
振り返りもせずにそれだけ言って、また押し黙る。
康平もベランダに出て未明と同じ方向に視線を向けてみたが、群青色に染まり始めた空以外には特に何も見当たらない。見下ろした未明の横顔は、厳しく引き締められていた。
もう一度未明に問いかけようとしたところで、電話が鳴る。
「はい?」
「黒木さん?」
「そうだけど」
「あ……わたし、佐々木です。佐々木幸子です。覚えてらっしゃいますか?」
「ああ、覚えてますよ。どうですか、その後」
電話の佐々木幸子とは以前の依頼主で、DVの元夫から守ってやった女性だ。夫は散々な目に合わせて、二度と幸子には近づかないと誓わせた。もう、かれこれ半年ほどが経っている。
「それが……あの、助けて欲しいんです。あの人が、また……キャァッ」
電話の向こうから何かを叩きつけるような音と、彼女の悲鳴が届けられる。平穏に暮らしているのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
「懲りないヤツですね。今、どこに?」
「自宅です。お願いです、わたし……」
聞こえてくるのは啜り泣きだ。
「わかりました。すぐに行きますんで」
電話を切って、未明を振り向いた。
「俺、ちょっと出てこないとなんだけど……」
「大丈夫。私は家にいるよ。ここは魔力を持つ者を弾く結界を組み立ててあるから、キンベルもアレイスも入ってこられないの」
「そうか……?」
それでも、康平には不安が残る。しかし、幸子も放ってはおけないのは確かだ。
「携帯は持ってるよな? 何かあったら、すぐに俺を呼べ。あと、何があっても、それは絶対に持っておけ。手放すなよ?」
しつこいほどに念を押す康平に、未明は笑って手を振る。
「大丈夫だって。これでも、今までは独りでやり過ごしてきたんだから。ほら、急いでるんでしょ? 早く行ってよ」
未明にそう言われても、後ろ髪を引っこ抜かれるような感覚は消せない。だが、康平は諦めの溜息をつくと、バイクの鍵を取った。
「いいか、すぐに片付けてくるからな」
「わかった、わかった。いってらっしゃい」
彼の過保護さに苦笑する未明に見送られて、康平は玄関を出る。
バイクに飛び乗ると、帰宅ラッシュで混雑する車の間を擦り抜けて幸子のアパートへ向かった。康平のマンションからは三十分ほどかかる。
幸子の部屋に着くと、取り敢えずドアベルを鳴らしてみる。ドアが壊された形跡などはないが、中からの返事もない。
「幸子さん?」
声をかけて、ノックをしてみる。ノブを回しても、ドアには鍵がかかっていた。
――部屋の中で意識を失っているのだろうか。
康平はピッキングの道具を取り出すと、ものの数秒で鍵を開ける。
日が沈みきったにも関わらず電気が点けられていない部屋の中は暗く、康平は油断なくあたりに目を配りながら手探りで照明のスウィッチを見つける。
明るくなった部屋の真ん中には、携帯電話を手にしたまま、幸子が崩れ落ちていた。
「幸子さん?」
上体を抱えあげると身体は温かく、呼吸もしっかりしている。軽く全身に目を走らせても、特に怪我をしている様子もなかった。
「幸子さん」
ピタピタと何度か頬を叩くと目蓋が震え、ゆっくりと目が開かれる。
しばらく彼女はボウッとしていたが、視線の焦点が合うとびっくりしたように目を見開いた。
「黒木さん!?」
康平は答えるように頷く。だが、幸子はまるで見当がつかないようにパチパチと瞬きするばかりだ。その様子に、彼の中に嫌な予感が溢れ出してくる。
「幸子さん、覚えてますか? あなた、俺に電話をしてきたんですよ」
「え!?」
案の定、彼女はさっぱりわからない、という様子で声をあげる。
「旦那がまた来ている、と言ってましたが」
「まさか! 黒木さんが追い払ってくれてから、彼はあれっきり姿を見せてません」
予想通りの返事に、康平は舌打ちをする。どうやら、やられたらしい。
「俺の勘違いだったようです。無事なら、良かった。じゃあ」
それだけ言うと、何がなんだか解らないままの幸子を置き去りに部屋を飛び出した。
――アレイスか、キンベルか。
どちらにしても、未明は対応できる筈だ。しかし、康平は嫌な予感を拭えない。
ふと空を見上げると、真円の月が明るく輝いている。
「変態金髪野郎の方か……」
問答無用で殺そうとしないだけ、マシなのかもしれないが。
康平はバイクに跨ると、一散にマンションを目指す。
エレベーターを待つのももどかしく十五階の自室に着くと、廊下の先からでも部屋の戸が開いているのが判った。
部屋に走りこむと戸は外から破られた形跡があり、室内は複数の者が乱入した様を呈している。
「くそッ」
毒づいて、康平は携帯を取り出す。未明に渡した携帯のGPSは生きていた。それが示しているのは康平のマンションではない。だが、そう遠くない地点だ。
康平はすぐさま部屋を飛び出した。