九
「やはり、魔術では敵わないな」
その言葉と共に暗闇の奥から姿を現したのは、黒尽くめの巨漢だった。背丈は一八〇センチ強の康平よりも、かなり高く、恐らく、二メートルはあるだろう。体つきもがっしりとして、優男だったアレイスとは何もかも正反対だ。髪も目も黒く、肌の色も濃い。長いマントも黒だった。
「ちょっと、不意打ちなんて卑怯なんじゃないの? キンベル・ゲダス。……いつものことだけど」
「そうでもしないと、お前には到底勝てまいよ。自尊心よりも、勝利の方が大事だ」
充分な距離を置いたまま、未明がキンベルと呼んだ男は立ち止まった。背丈は二倍、体重に至っては三倍以上はあろうかという相手に向かって、未明は昂然と顎を上げる。
「ここは何なのよ。元々あったの? それとも、あんたが何かしたの?」
「いや……。俺は何もしていない。この世界は面白いな。全くといっていいほど魔術とは縁がないのに、こうやって我が神を垣間見ることができる場所は、幾つもある」
そう言うと、キンベルは未明を通り越して亀裂の方へと陶然とした眼差しを投げた。どうやら、あの奥でのたうつモノを『神』と呼んでいるらしいが、康平には、とてもそうは思えない。何処からどう見ても、単なる『化け物』だろう。
しばらくうっとりと眺めた後、キンベルは亀裂から未明へと視線を戻した。
「さて、俺も訊きたいな。何故、お前はここにいる? まあ、いつも雲隠れしてなかなか姿を見せないお前がこうやって俺の目の前に出てきてくれたのは、ありがたいことだがな」
「別に、あんたの為にこんなところまで来たわけじゃないわ」
「それでもいいさ。丁度いい。我が神の為に、その命を捧げさせてもらおう」
そう言うと、キンベルは背中に手を回すと、スラリと何かを抜き取った。
「ちょっと、待て。あんなもの持ってきてやがんのかよ」
康平と未明の目の前で、キンベルは未明の身長ほどもある肉厚な両刃の剣をゆったりと構える。
「大体、殺す気満々ってのは何なんだよ。話が違うだろ? 後で説明してもらうからな」
「康平、私が……」
「いいから、隠れとけ」
康平はキンベルに目を据えたまま未明にそう言いおくと、腰の後ろに挿しておいたコンバットナイフを鞘から取り出す。カーボンスティール製で、刃渡り二十センチ以上なのに重さは五百グラム無く、強度も優れている。相手は長物だが、懐に入り込んでしまいさえすれば、むしろこちらに有利だ。
キンベルの長剣に比べれば玩具のように見える得物を持って近づく康平を、彼は大きな身体を揺するようにして嘲笑する。
「お前は何者だ? ミアカスールが人と共にいるなど、珍しいな。そんなもので向かってくるとは、いい度胸だ」
「刃物と何とかは使いようなんだよ。バカにしてると痛い目見るぜ?」
康平は、ネコ科の猛獣のようなゆったりとした歩みで無造作にキンベルに近づいていく。しかし、その目は大男の全身を隈なく探っており、わずかな筋肉の動きも見落とすつもりはなかった。
彼の動きに、キンベルの目に緊張が走る。
「……少しは、できるようだな」
「判っていただけた?」
軽口を返しながらも、両者の眼差しに油断はない。
康平が、キンベルの剣の間合いの一歩手前を保つ程度の距離で、円を描くように動く。滑らかな足運びは、小さな音一つ立てない。
両者ともに踏み込むタイミングを探る。
先に動いたのは、互いの隙を窺うのに焦れたキンベルだった。空気を震わす気合と共に剣を振り上げて康平めがけて突進する。
「でやぁッ!」
渾身の力で振り下ろされたその刃は、当たれば人の身体など真っ二つにできるだろう。だが、康平はナイフのバックでそれを受け、キンベルの力のままに流していく。多々良を踏んだキンベルだったが、力任せに剣をVの字を描くように下から上へと切り上げた。わずかに、康平の髪が削がれるが、それだけだ。
懐に入り込んだ康平がナイフを水平に薙ぐと、キンベルの長衣の胸元がぱくりと口を開ける。挨拶代わりにそれだけすると、康平は再びトトッと後ろへ下がる。
「貴様……!」
キンベルは続けざまに康平に向けて剣を振り下ろす。
子ども一人分ほどの重さはあるだろう大剣を、キンベルは上下左右に軽々と操った。が、康平は踊るような足取りで全て紙一重でかわしていく。
「おっさん、魔法は使わねぇの?」
再び距離を取って、康平は茶化す。未明を見ていて、魔法を使うには『呪文』が必要なことは判っていた。多分、キンベルにはそれを口にするだけの余裕がないのだ。
案の定、キンベルの顎がギリ、と音を立てる。
大剣が唸りをあげて横薙ぎに振り抜かれる。康平はトン、とそれを一歩のバックステップでかわすと、その反動で前に跳ぶ。一気にキンベルの懐に入ると、回し蹴りで彼の側頭部を薙ぎ倒した。
頭蓋骨への強打で脳を揺さぶられ巨体が思わず膝を突く。
「違う世界から来た人間と言っても、見てくれが同じなら急所も同じなんだな。どうした、平和ボケした世界の住人に油断したか?」
未だ立ち上がれずにいるキンベルは、顔を伏せたまま、康平の揶揄にも応えない。膝を突いたまま意識を失ったのかと半歩近付いた康平は、ふと、彼から漏れ聞こえる微かな呟きに気付く。
と、焦りを含んだ未明の警告が洞穴に響く。
「いけない! 康平、下がって!」
利き足を前に踏み出した格好の康平は、未明の声に反応はしたが行動は遅れる。
未明の声と同時にキンベルが顔を上げ、ニヤリと嗤った。そこにあるのは勝利の確信。
「喰らえ!」
突き出した彼の片手から、至近距離で火球が放たれる。
「!」
思わず意味もなく腕を上げ、顔を庇う康平。
そんなことで、岩壁を抉るほどの代物を防げるわけもない。
だが。
身構えた康平を、熱も衝撃も襲うことはなかった。
火球が彼に触れようとした寸前、彼の胸元が熱を帯び、瞬時に目の前に輝く壁が出現する。それは火球が衝突すると同時に一際強い光を放ち、両者が互いを吸収したように消え失せた。
「ミアカスールの護符か……」
一瞬呆気に取られた康平だが、忌々しげなキンベルの毒づきに我に返る。
「よくよく、不意打ちの好きなおっさんだな」
一種感心したような声で言う康平の前で、キンベルはゆっくりと立ち上がり、後ずさる。
「今回は準備不足だ。せっかくの機会は惜しいが、また出直させてもらう」
そう言うと、以前の金髪の優男と同様に姿を消した。
静寂を取り戻した隧道の中、パタパタと未明が康平に駆け寄る。
「康平! 大丈夫? 怪我はない?」
彼の周りをグルリと回って上から下まで眺めつくす未明に、康平は苦笑する。
「そんなに見たって、かすり傷一つねぇよ。こいつ、すげえな」
傷を作らずに済んだ理由の最も大きなものは、未明の護符だ。胸元から鎖を引っ張って取り出すと、もらった時には輝いていたそれは、うっすらと黒ずんでいた。
「もう一度、魔力を入れておかないと。家に帰ったら、渡してね」
康平の無事を確認して安堵した未明は、彼にそう言っておいて、再び亀裂へと向かう。
岩壁――亀裂に、今にも触れんばかりに近づく未明に、あんな禍々しい空気を放っている場所に近づいて、おかしくならないのだろうかと康平は不安になった。自分だったら、三メートル以内に近づいたら発狂しそうだ――その自信がある。
だが、未明は指先が触れそうなほどに両手を前に突き出し、泰然と佇んでいる。
何度かの深呼吸で大きく肩を動かしたが、ピタリと止まると彼女の柔らかな声が洞穴に響き始めた。それはキンベルとの戦いと、異形のものへのおぞましさでささくれ立った康平の心を鎮めていく。
やがて未明の身体が光を帯び、徐々に強まっていく。洞穴の不自然な明るさが未明の放つ光に圧倒され始め、それと共に、まるで映像を巻き戻しているかのように亀裂が次第に修復されていく。
亀裂がわずかな隙間を残すのみとなった時、そこから、濁った金色に縦長をした暗黒の瞳孔を持ったものがぎょろりと覗いたが、未明が一際強い光を放つと同時に、その隙間すら消失する。
未明の身体が放つ光が掻き消えると同時に、辺りは本来の闇に包まれた。
と、トサリ、と、柔らかなものが落ちる音だけが康平の耳に届く。
「……未明?」
声を掛けても返事がない。
康平はマグライトを再び取り出すと、未明が立っていた辺りを照らす。そこに姿はなく、少し下げたところ、地面の上に、彼女は崩れ落ちていた。
「未明!?」
駆け寄って、頬に触れる。ライトに照らされた顔色は蒼褪めていたが、肌は温かく、首筋にはしっかりとした脈が感じられた。
小さく息を吐き、康平は空いている腕に彼女の身体を抱き上げる。小さな頭がくたりと肩にもたれてきて、微かな吐息が彼の頬をくすぐった。
マグライトを肩の高さで固定したまま、周囲をグルリと照らしてみる。そこは、もう、ただの隧道の行き止まりだった――おぞましさも、不安も、掻き立てられることはない。
「まったく。わけの解らんことに足を突っ込んじまったな……」
呟いて、康平は闇の中を歩き出す。
これまでの常識を覆す敵に、正体不明の化け物。
あの亀裂を目にした時、感じたのは本能に訴える、生理的なおぞましさだった。だが、それは、裏を返せば単なる感覚に過ぎない。
康平は、もっと明確なおぞましさを知っている。それに比べれば、あんな根拠のないものなど、取るに足らない。
彼にとって、この件から手を引くほどの衝撃とはなり得なかった。