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第六話 飯屋


 湯気の向こう側で、女店主のマーサが溜息をついた。

 かつては冒険者たちで賑わっていたこの飯屋も、今は静かな時間が多くなった。

 通りの向かいに、若い給仕たちが派手な衣装で客を呼び込む店ができてから、客が少なくなった。

 

「……グランツさん、ゆっくり食べていいわよ。今日はお客も多くないから」

 

 マーサが力なく笑った。

 30代後半。顔立ちは整っているが、目尻のシワや肌の乾燥は、彼女が歩んできた年月を隠してはくれない。

 だが、グランツはその顔を好ましいと思っている。

 それぞれの舞台には、それぞれに相応しい美がある。

 この店という舞台では、マーサの顔は十分すぎるほど美しいとグランツは思う。


「ありがとうございます」


 グランツは、目の前に置かれたポトフを一口運んだ。

 野菜の甘みが体に染み渡る。この国で、これほど「安心」を形にした味は他にない。

 貴族でもあるグランツだが、このポトフが気に入って、店に通いつめていた。

 実家のコックが出すスープも美味しいが、このポトフには到底敵わない。


「こんなに美味しいポトフは、この店でしか食べられないですよ」

「そう言ってくれるのはグランツさんだけだよ。最近は常連まで向こうに行っちまって」


 マーサはそう言って、両手の指を絡ませて視線を落とした。

 グランツも、向こうの店の前を通ったことがある。

 顔に派手な色を塗った女給仕。その女たちから漂ってくる匂いは、ポトフの柔らかい香りを一瞬にして台無しにする。

 そう思ったグランツの足は、その店から遠ざかった。


「色々やってはいるんだけど……」


 ポトフの味は変わらない。

 だが、盛り付ける皿が変わった。

 店内の様子も、少し違うように見える。


「でも、肝心の店員がこんなおばさんじゃね」


 自分に言い聞かせるようにマーサが呟いた。

 グランツの手が止まった。

 

「マーサさん、あなたはそのままでいいんです」

 

 グランツはスプーンを置き、彼女の目を見た。

 

「でも、心配なら相談にのりますよ」


 グランツはマーサに近づいて言った。


「自分をおばさんなんて言ってはいけません。まずは自分を信じてください。マーサさんは十分に美しいんです。化粧なんて簡単でいい。方法は教えます。毎朝続けられる程度のものでいい。」


 マーサが驚いた顔を見せた。

 信じられないという表情で、口をひらいた。


「でも、あっちの店はもっとキラキラしていて……」

「キラキラ? あの店の主役は料理じゃない。冒険者たちが求めているのは、戦いから戻ったとき、羽を休められる『家』です。あなたは、自分の息子さんに作るいつものご飯を出し続ければいい。彼らには家がない。ここを、彼らの帰る場所にすればいいんです」


 グランツはポトフが冷めるのも構わずに続けた。


「あなたのその手で、いつも変わらないポトフを、客に出してあげてください」

 

 マーサは、戸惑ったように自分の荒れた手をあげた。

 伸ばした指先を、回すようにして見た。

 

「私の、この手で?」

「ええ。あなたの手のバランスは素晴らしい。手の甲に比べて、指がわずかに長い。爪の形も美しい。手の造形は、持って生まれた才能です。誰にも変えられない武器です」

 

 グランツは小さな小瓶を取り出した。

 中には、夕陽を閉じ込めたような、温かみのある琥珀色の液体が入っている。

 

「少しだけ魔法をかけます」

 

 彼はマーサの手を取り、その爪に静かに筆を走らせた。

 

「爪は、お客さんに最も近い場所にあるパーツです。手も、料理の一部だと思ってください。配膳するとき、ほんの少しだけ、その指先を見せる。それだけでいい」

 

 塗り終わった爪が、厨房のランプに反射して柔らかく光る。

 

「母親の手は、誰にとっても特別なものです。迷宮で血を流してきた冒険者たちが、その指先を見たとき、はじめて自分が無事に帰ってきたことを実感できます」

 

 マーサは、自分の指先をじっと見つめた。

 琥珀色の輝きが、彼女の瞳に小さな火を灯した。


 

 翌朝。

 店の扉を開けたのは、傷だらけの剣士だった。

 マーサは教わった通りの薄化粧を施し、いつものポトフを運ぶ。

 器を置く瞬間、琥珀色の爪が、湯気の中で優しく揺れた。

 

 剣士の動きが止まった。

 彼はその手を見つめ、それから、しっかりと呟いた。

 

「……ただいま」

 

 その声を聞きながら、グランツはカウンターの隅で、熱いポトフを口に運んだ。



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