第四話 娼婦
娼館街の夜は、安っぽい香水の匂いと、濁った酒の吐息で満ちている。
路地裏の、湿った空気が横たわる店。
その中で、メイサは古びた椅子に深く腰掛けていた。
「……嫌だよ。本当は。でも仕方ないだろ」
彼女の声は、夜の闇に吸い込まれるように細かった。
二十歳にも満たない肌は、まだ夜の世界には若すぎる。だが、その瞳には幼い弟妹たちの未来という、重すぎる鎖が繋がれていた。
「わたしが何とかしないと。……だから、グランツさん。あんたの腕を見込んで頼みがあるんだよ」
メイサは顔を上げ、縋るような、それでいて乾いた目で彼を見た。
諦めと、決意が入り混じった色。
そんな目をした女性が、この娼館街にはたくさんいた。
男に媚び、男に選んでもらい、男に奉仕しなければ、この街から出ていくことはできない。
それを運命だと簡単に言うことが、グランツには出来ない。
「男好みの女にしてほしい。媚びる目とか、柔らかそうな唇とか。何でもいい。人気が出て、稼ぎが増えれば……ここを出られる日が、少しは早くなるかもしれないから」
メイサはそう言って唇を硬く閉じた。
伏し目がちに視線を泳がせている。
グランツは黙って彼女を見つめた。
男好みの女。それは消費されるための顔だ。安く買い叩かれ、飽きられれば捨てられる、砂の城のような美。
彼がこれまで鏡の前でしてきたことは、そんな使い捨ての美ではない。
だが、目の前の女は、自分を早く消費してもらうことで、この苦境から抜け出そうとしている。
そして、それを非難する権利も、資格も、自分には無いとグランツは理解していた。
「……やります」
グランツは短く答え、道具箱を開いた。
「ですが、男好みにはしません」
「えっ……でも、それじゃ客が……」
「娼館に来る男に気づかせる。自分たちが何を買いに来ているのか、分からせます。分かれば、もう客は貴方から離れられない」
グランツが取り出したのは、深海に生息する魔魚の鱗から精製した、真珠よりも鋭い光沢を持つ粉末だった。
一時間。
メイサの店が開くまでの時間。
グランツは持っている技をメイサの肌に描き残した。
甘いだけの桃色を排し、肌には冷徹なまでの陶器のような質感を。
眉は意思を感じさせるほどに細く、鋭く描き、目元には紫鉱石の影を落とした。
それは、慈悲深い女神ではなく、侵しがたい魔性の輝き。
仕上げに、彼女の唇に深い、あまりに深い紅を乗せた。
吸血鬼の牙の紅よりもさらに暗く、熟しきった果実のような、毒を含んだ色。
妖艶さには、魔性が必要だ。
「終わりました」
グランツは鏡を渡した。
メイサはそれを受け取り、絶句した。
そこには、生活に疲れ、家族のために身を投げ出す悲劇の少女はもういなかった。
「……これが、わたし? こんなに……怖いくらいに」
「ええ。あなたはもう、選ばれる側ではない。選ぶ側です」
グランツは彼女の肩に手を置き、鏡越しに彼女の瞳を捉えた。
「最後に魔法をかけます。……決して、男とは正面から目を合わせないでください」
「目を、合わせない?」
「ええ。あなたに真っすぐに見てもらえる栄誉。その栄誉を誰にでも与えてはいけません」
グランツの声は、冷徹なまでに響いた。
「彼らは貴方のもとを訪れるたびに思い知ります。身体だけでは貴方を征服できないことを。征服欲が満たさなければ、無限の渇望を生みます。金を落とします。男が本当に欲しいのは、女の身体ではない。女の、真っすぐな視線です」
メイサは、鏡の中の自分と、そしてグランツの目を見た。
彼女の瞳に、覚悟という名の火が灯る。
「……わかった。見ないよ。誰のことも」
「それでいい。あなたの真っすぐな視線は、いつか現れる人のためにとっておいて下さい」
彼女が立ち上がった。
安物の服が、まるで最高級の漆黒のドレスに見えるほど、その佇まいは凛としていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
彼女が娼館のホールに現れた瞬間。
下卑た笑い声で溢れていた空間が、一瞬で凍りついた。
男たちが、息を呑む。触れようとした手が、そのあまりの気高さに、思わず引っ込められる。
彼女は一言も発さず、誰を見ることもなく、ただ優雅に、それは優雅に階段を登っていった。
その背中に、数え切れないほどの金貨の音が降り注ぐのを、グランツは確信していた。
「……強すぎたか」
グランツは、いつのまにか笑っていた自分に気づいた。
そして、彼女がいつか、この紅を落として、ただの「姉」に戻り、誰かを真っ直ぐに見つめる日が来ることを祈った。




