第三話 暗殺者
夜、アリシアから呼び出された。
クロフォード邸ではなかった。城の外れにある、石造りの建物の前にアリシアはいた。
衛兵が二人いた。アリシアが何か言うと、衛兵たちが道を開けた。
「来てくれてありがとうございます」
「構いません。でも、珍しい場所ですね」
「ええ」とアリシアは言った。それ以上はなにも言わず建物に入った。
グランツは道具袋を持ち直して、黙って従った。
石の廊下を歩いた。
松明の光が壁に揺れた。足元が湿っていた。地下に降りる階段があった。降りた。さらに廊下が続いた。
一番奥の扉の前で、アリシアが止まった。
「中に、人がいます」
「はい」
「話しかけても、なにも答えないと思います」
「分かりました」
「今はまだ、なにも説明できません」
「僕の好きなように仕上げても?」
「それで構わないわ」
グランツはアリシアを見た。アリシアは真っ直ぐグランツを見ていた。迷っていなかった。覚悟を決めた人間の目だった。
「説明しなくても構いません」とグランツは言った。「頼まれた仕事をします」
アリシアが扉を開けた。
独房だった。
小さい。窓はない。松明が一本、壁に差してあった。
檻の中で女が床に座っていた。
両手に鎖があった。壁に繋がれている。顔を上げなかった。グランツが入ってきても、動かなかった。
グランツは部屋を見回した。
鏡を置く台がない。椅子がない。水はある。床に木桶が一つ置いてあった。
グランツは道具袋を床に置いて、その場に膝をついた。女と同じ目線になった。
女がわずかに顔を上げた。
グランツは女の顔を見た。
整った顔だった。だが疲弊していた。何日も眠れていない目をしていた。傷がいくつかあった。口元が乾燥していた。環境がどれだけ過酷だったか。グランツにはわからなかった。
そういう顔を、グランツは知っていた。
何かを続けてきた人間の顔だ。
ひとつのことを長いあいだ続けてきた人間は、肌が少し硬くなる。
グランツはアリシアを見た。
アリシアは黙って鍵を出した。
「鎖で繋がれてるから何もできないと思うけど、近づいたら保障できないわ」
「私の仕事は近づかないとできませんよ」
「だから、あなたを呼んだの」
グランツは鍵を受け取った。
檻の扉をあけた。
女がグランツを見上げた。
「動かないでください」とグランツは言った。「痛いことはしません」
女は答えなかった。
グランツは水で布を湿らせて、ゆっくりと女に近づいた。
女は、動かなかった。
まず顔を拭いた。丁寧に、端から端まで。女は抵抗しなかった。どこか遠くを見ていた。
道具袋の中に、今日のための素材があった。
夜蛾の鱗粉。闇の中で光る。
昼間の光の下では目立たない。しかし、夜の灯りの下では肌が内側から発光するように見える。夜会向きの素材だ。グランツがまだ一度しか使ったことのないものだった。
今夜、使うことがあると思った。
夜に呼び出した理由があると思った。
下地を薄く乗せた。鱗粉を頬骨の高い部分に入れた。目元に影を足した。唇に、ほんのわずかな色を乗せた。
それでも女は動かなかった。
グランツは手を動かしながら、何も聞かなかった。
なぜここにいるのか。何をした人間なのか。アリシアとどういう関係なのか。
だが自分には関係ない。
自分ができることをする。
この顔に、今できることをするだけだ。
目元の仕上げをしているとき、女が初めて口を開いた。
「……なぜ」
グランツは手を止めなかった。
「なぜ、こんなことをする」
「頼まれた仕事ですから」
「わたしが何者か、知っているか」
「知りません」
「知ってても、やるか」
「知ってても、やります」
女は黙った。
グランツは筆を置いた。
「終わりました。気に入ってもらえるか分かりませんが」
鏡を取り出した。女の前に差し出した。
女は鏡を見なかった。グランツを見た。
「お前は変な男だな」
「よく言われます」
「暗殺者だ」
女は小さく、ほんのわずかに、笑った。
それから鏡を見た。
長い沈黙があった。
何かが、女の目の奥で、静かに動いた。
扉の外でアリシアが待っていた。
グランツが出ると、アリシアは中を覗いた。
それから、嬉しそうに笑った。
グランツがアリシアの笑顔をこれほど嬉しそうだと思ったのは、初めてだった。
「さあ」アリシアは言った。「夜会に行きましょう」
衛兵たちが扉を開けた。
女が出てきた。
鎖はなかった。グランツはいつ外れたのか気づかなかった。
夜蛾の鱗粉が、松明の光の下で、かすかに輝いた。
衛兵の一人が、呼吸を忘れた。
アリシアが女の隣に並んだ。
「行きましょう、シア。あなたのドレスを用意してあるの」
女は何も言わなかった。
ただ、アリシアの隣を、歩いた。
グランツは二人の背中を見送った。
暗闇に消えるまで見ていた。
それから道具袋を持って、一人で外に出た。
漆黒だった。
夜蛾の鱗粉は、月明かりの下でも光る。今夜の夜会で、あの女の顔を見た人間が何人かは、翌朝まで忘れられないだろう。
それだけのことだ。
シアが何者か。頭に浮かんですぐに消えた。
シアの小さな笑い。
それだけでいい。
* * *
数か月後のことだ。
社交界にひとつの噂が広まった。
クロフォード伯爵令嬢の傍に、美しい護衛がいる。名前は知られていない。どこから来たのかも分からない。ただ、アリシアの隣にいつもいる。凄腕だという噂もある。だが見た者はいない。
アリシアは護衛の名を問われると、いつも同じように答えた。
「シアです。わたしの大切な人です」
アリシアはそれ以上、何も言わなかった。
護衛はただ、微笑むだけだった。




