第二話 冒険者
朝の市場は、色んなにおいがする。
焼いた肉、香辛料、馬の汗、泥、川の水。グランツはそれらを嗅ぎ分けながら歩いた。今日の目的は染料だった。先週仕入れた紅花の発色が悪く、代わりの素材を探していた。
声をかけられたのは、薬草師の店の前だった。
「あんたが、化粧師か」
振り返った。
女が立っていた。革鎧を着ていた。腰に短剣を二本。肩幅が広く、手の甲に古い傷が走っていた。冒険者だと、一目でわかった。
肌が褐色だった。日に焼けた、という言葉では足りない。長い経験でしか身につかない色。深く、温かい色だった。
目が、鋭かった。
「そうですが」とグランツは答えた。「なにか」
「綺麗にしてくれ」
言葉は短く、声は低かった。視線が一瞬、逸れた。
「わたしは……いや、わたし、じゃなくて、連れのために」
グランツは黙った。
女は続けた。
「連れが、恥をかいた。わたしのせいだ。次はそういう思いをさせたくない」
「あなたのせいで?」
「そうだ」
「その人は、そう言いましたか」
「言わない。そんな奴じゃない」
グランツは女の顔を見た。視線を逸らさなかった。女も逸らさなかった。目の奥に、何かがあった。怒りではなかった。もっと静かで、もっと深いものだった。
目に力がある女だった。
「名前を、教えてもらえますか」
「レイナだ」
「レイナさん。少し、顔を見せてください」
屋台の日陰に移った。グランツはレイナの顔を、近い距離で観察した。
褐色の肌は、きめが細かかった。傷はなかった。冒険者にしては珍しかった。頬骨が高く、顎が引き締まっていた。目の切れ長な形が、光の角度によって色を変えた。
ほとんどの人間が、この顔を見ない。見ようとしない。身体の強さが先に目に入るからだ。肩幅に気をとられてしまう。精悍な腕に目を奪われる。
「ひとつ、聞いていいですか」
「なんだ」
「連れの人に、綺麗になってほしいと言われましたか」
レイナは一瞬、動きを止めた。
「……言わない。さっきも言っただろ」
「では、あなたが勝手に決めたことですか」
「そうだ」
「なぜ」
答えが出なかった。
グランツは待った。市場の喧騒が、遠くに行きはじめた。
レイナはやがて言った。「あいつに、卑屈な思いをさせたくない」
グランツは頷いた。
「卑屈な思いなど、しないと思いますよ。少なくとも、僕ならしない」
グランツはレイナの目を見てそう言った。
「迷宮なら。そうかもしれない。ギルドや酒場でも、そうだと思う……」
レイナがはじめて自分から目を逸らした。
「魔物を討伐した。A級の魔物だ。貴族の依頼だった。喜んでくれたんだろう。貴族の主催するパーティーに招待された」
「行ったんですか?」
「行った。すぐに後悔した。まわりは貴族のお嬢様ばかりだった。持ってる服の中で一番綺麗なものを着て行ったんだ。でも、笑われた。声を出して笑われたわけじゃない。でもわかる。みんな、口元が歪んでた」
グランツは黙っていた。
レイナの肩が震えていた。
「またパーティーに招待されたんですね」
「そうだ。行かないと決めてた。でも、あいつが……」
「その彼は行くんですね」
「行くなとは言えない。依頼主だし、ランクを上げるには貴族の推薦もいるから……」
レイナが顔をあげた。
「あいつが言った。一緒に行こうって。俺は恥ずかしくないって……でも」
「わかりました。引き受けます」
「ほんとに綺麗になるのか?」
「素材が必要です。一緒に来てもらえますか」
街の外に出た。レイナが先を歩いた。グランツはその後ろを歩きながら、背中を見た。広い肩が、迷いなく進んだ。
「どこへ行くんだ?」
「ホワイトタイガーの縄張りです」
「ホワイトタイガーなら、わたし1人でも大丈夫だ」
グランツは苦笑した。
「必要なのは牙です。倒さなくていい。抜け落ちたものを拾えれば十分です」
「ああ。縄張りの端に、古い牙が落ちてる場所を知ってる。何度か通った道だ」
林に入った。草が深く、足元が湿っていた。レイナは音を立てずに歩いた。グランツは少し遅れた。
「彼のことを、話してもらえますか」
レイナの足が、わずかに止まった。それだけだった。また歩き始めた。
「カルロス」
「カルロスが、彼の名前ですか」
「ああ。幼馴染だ。ガキの頃からずっと一緒に冒険者をやってる」
「離れたことがない」
「ああそうだ。いつも一緒だ。昔からそうだ」
林の奥で、枝が揺れた。遠くで何かが動いた。レイナが手で制した。二人は立ち止まった。静寂が戻った。また歩き始めた。
「カルロスは何も言わなかった」とレイナは言った。「帰り道も、ずっと。宿に戻って、おやすみと言って、自分の部屋に入った。それだけだ」
グランツは何も言わなかった。
「怒ってるわけじゃない。あいつは優しいから、何も言わない。わたしを傷つけたくないから、何も言わない。でも」
レイナが立ち止まった。
足元に、白い牙が落ちていた。長く、緩やかに湾曲した、古い牙だった。
「令嬢たちが笑っているのを知った時の、あいつの顔が、忘れられない。あいつの目が、哀しい色になったのが忘れられない」
グランツは牙を拾い上げた。手の中で、冷たく、重かった。光に透かすと、白の中に青みがあった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
部屋に戻った。
グランツは牙を砕き、細かく磨り潰した。粉末は純白だった。光を当てると、青みを帯びて輝いた。
「美白にしてくれるのか」とレイナが言った。椅子に座って、腕を組んでいた。
「しません」
「じゃあ何に使う」
「褐色は、太陽に愛された色です」
レイナが黙った。
「愛された色には、愛された光がある。それを引き出すために使います」
レイナが黙った。
「褐色の肌に、青みのある白い光を乗せると何が起きるか。白い肌では光が溶けて消えます。でもあなたの肌では、光が浮き上がる。金と青の間の色になる。夕暮れの海を見たことがありますか」
「ある」
「あの色です」
レイナは何も言わなかった。
グランツはドレスを出した。純白だった。レイナが目を細めた。
「……白か」
「はい。あなたの肌の色を、最も際立たせる色です。隠すためではない。見せるために、白を選びました」
レイナはドレスを見た。長い間、見た。
「着たことがない」
「着てみてください」
二時間かかった。
下地を丁寧に乗せた。肌の質に合わせて薄く、でも均一に。頬骨の高さに合わせて光の位置を決めた。ホワイトタイガーの牙の粉末を、頬の高いところと鼻筋と目の下に、筆で薄く乗せた。
光が、浮き上がった。
夕暮れの海だった。金と青の間の色が、褐色の肌の上で揺れた。
純白のドレスが、それを縁取った。
グランツは鏡を持った。渡さなかった。
「レイナさん」
「なんだ」
「最後に魔法をかけます」
「魔法?」
「はい。魔法です。レイナさん。女らしくという言葉は忘れてください。パーティーに行ったら、自分が一番強くて格好いいと思って歩いてください。令嬢たちよりも背が高かったら、もっと背筋を伸ばしてください。そうすれば、誰もあなたを笑いません。凛とした佇まいは、どんなドレスよりも素晴らしいものですから」
レイナが、初めて表情を動かした。
鏡を受け取った。見た。
泣かなかった。泣くような女ではなかった。顎が、わずかに上がった。目の鋭さが、そのままだった。でも何かが変わっていた。目の奥の、静かで深いものが、少しだけ前に出てきていた。
長い沈黙があった。
「……あいつ、驚くかな」
「驚くと思います」
「今度は笑うかな」
「笑うと思います」
レイナがグランツを見た。
「笑うのか」
「嬉しくて、ですよ。もちろん」
レイナはもう一度、鏡を見た。
それから、小さく、本当に小さく、笑った。声のない笑いだった。アリシアの笑いとは違った。もっと短く、もっと不器用で、でも同じ種類のものだった。
自分の顔を見て、初めて笑った人間の顔だった。
帰り際、扉のところでレイナが振り返った。
「礼を言う」
「仕事ですから」
「あんた、変わった化粧師だな」
「よく言われます」
「美白にしなかった。色を変えなかった」
グランツは少し考えた。
「変える必要がなかったので」
レイナはそれを聞いて、また小さく笑った。今度は声があった。短い、乾いた笑い声だった。
「褐色は太陽に愛された色だと言いました。それは夜会の令嬢たちが生涯持つことのできない色です。躍動の色は太陽の下にいる時が一番美しい。夜の世界から出てこられない者のことなんて、忘れてもらっていい」
「それは褒めてるのか?」
「もちろんです」
扉が閉まった。
グランツは窓の外を見た。街が夕暮れに染まっていた。金と青の間の色だった。
レイナが最後に見せた顔。
もう、手を入れる余地がなかった。
あとは、彼の仕事だ。




