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第一話 化粧師(けわいし)


 夜会の扉が開いた瞬間、音楽が止まった。

 指揮者が止めたわけではない。演奏者たちの指が、動かなくなった。

 酒を嗜んでいた貴族が、グラスを持ち上げたまま固まった。

 令嬢たちが扇を止めた。 

 令息たちが背筋を伸ばした。

 会場の空気が、支配された。

 会場の視線が、ひとつになった。


 アリシア・クロフォード伯爵令嬢が、扉の前に立っていた。

 夜会ではあまり見かけることのない漆黒のドレス。

 本来なら目立たないはずの色が、いま、この空間でもっとも輝いていた。

 胸元から足元にかけてあしらわれた無数の小さな宝石が、天空の星のように彼女を柔らかく包んでいる。


 一歩。また一歩。


 貴族たちのあいだを、優雅に、それは優雅に、彼女はゆっくりと進んだ。

 誰もが、声を発することも、息を吐くことも忘れ、彼女の姿に惹きつけられた。



 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 

 一か月前、この国で最も格式高い晩餐会の席上で、彼女は婚約者から一方的に婚約破棄を告げられた。

 理由はその場で公言された。

 容姿が、公爵家の嫁として相応しくない。

 その屈辱的な言葉を聞いても、誰も、なにも言わなかった。笑う者さえいた。

 彼女は涙をこらえながら、走り出した。

 その彼女が今、同じ場所、同じ時間に、あらわれた。

 今度は誰も笑わなかった。笑えなかった。

 壁際でその光景を見ていたグランツは、静かに息を吐き、拳を握った。


 グランツ・ルーカス。

 前世の記憶を持つ転生者だが、それを誰かに話したことはない。

 12の年に突如記憶が蘇った。

 男爵家の三男として生まれた記憶も残っていた。

 前の世界で彼が持っていたのは、剣でも魔法でもなく、長年かけて磨いたメイクアップアーティストの技術。

 数え切れないほどの女性を、鏡の前で磨いてきた。

 花嫁。女優。泣いていた人。笑いたかった人。自分の顔が嫌いだと言った人。全員が、最終的には鏡を見て——何かの表情をした。

 だが、すべてが上手くいったわけではない。

 磨かれた顔で新しい世界に踏み出した女性が、それでもなお傷ついたとき。グランツには何もできなかった。顔を作ることはできる。でも、その先の人生は作れない。何人かの顔が、眠れない夜に浮かぶ。美は作れるが、内面は作れない。


 転生したこの世界にメイク道具はなかった。

 化粧品と呼べる品質のものは、ほとんど存在しなかった。女性たちは蜜蝋を唇に塗り、木炭を目の縁に引く。それが、この国の「化粧」と呼ばれるものだった。

 自分の職業を思い出し、市場を歩き、薬草師の棚を眺め、素材を触った。

 スライムの粘液が驚くほど肌に馴染むことに気づいたのは、雨の日に市場の隅で死にかけたスライムを拾ったときだ。

 龍の鱗の粉末を光に透かしたとき、その輝きが前世のハイライトパウダーと同じ原理で機能することを確認した。


 道具は、作れる。

 素材さえあれば。


 晩餐会から追い立てられるように庭に出てきた令嬢を、グランツは追いかけた。

 泣いていなかった。それが印象に残った。

 アリシア・クロフォードは、噴水の縁に腰を下ろして、両手を膝の上に置いて、ただじっとしていた。泣くことすら、許せない顔をしていた。


「……あの」


 気づいたら声をかけていた。

 アリシアが顔を上げた。不審そうな目だった。

 当然だ。見知らぬ男が夜の庭に立っている。


「無礼を承知で申し上げます」とグランツは言った。

「また夜会に出席されますか」

「もう出るつもりはありません」


 彼女はまっすぐな眼でそう言った。 

 

「もう一度だけ、出てもらえませんか」


 令嬢の目に、わずかな怒りが浮かんだ。

 グランツは確信した。まだ大丈夫だと。

 怒りは、人を成長させる。


「なぜあなたにそんなことを」


「僕はグランツ・ルーカスといいます。化粧師です。いや、化粧師になろうとしています」

化粧師けわいし? なんですかそれ?」

「簡単に言えば、女性を美しくする仕事です」


 アリシアが口を閉ざした。

 当たり前だ。

 たった今、それを否定されたばかりなのだ。

 しかも、夜会という最も華やかな場所で。


「申し訳ありませんが、さっき、見ていました。あの場でなにか言うべきだったと思うのですが、声よりも、あなたの横顔に目を奪われてしまった」

「わたしの横顔ですって……」

「はい。あなたほど横顔の素敵な女性はそういるものではない。正面からならいくらでも誤魔化せるが、横顔は誤魔化せない。骨格は変えられない。自信を持ってください。あなたは、美しいのです」


 アリシアは信じられないといった表情で口をひらいた。


「そ、そんな話、信じられません。だって、そんなこと誰も……」


 長い沈黙があった。

 グランツは覚えていた。

 美は与えられる。

 だが、切っ掛けを掴むのは女性自身だ。


「……わたしの、何が変わるというの」

「何も変わりません」とグランツは答えた。

「ただ、あなたが今持っているものを、みんなに見えるようにします」


 三日間かけて、グランツは素材を集めた。

 スライムの粘液で下地を作った。夜市で拾った白磁の粉を調合してファンデーションにした。色は、乾燥させた紅花から取り出した。唇に乗せる紅の素材だけは、どうしても手持ちに良いものがなく、市場の外れで薬草師の老婆と三時間交渉した。

 結局、老婆が引き出しの奥から出してきた小さな瓶を適切な値段で買った。

 吸血鬼の牙を砕いて調合したという、深紅の顔料だった。

「これ、本当に安全ですか」

「百年以上前に作ったものだからね」と老婆は言った。「毒は抜けてる。多分」

 多分、という部分だけが不安だったが、選択肢はなかった。

 自分で飲み、三日間様子を見た。


 二時間かかった。

 アリシア令嬢は最初、鏡を見ようとしなかった。グランツは何も言わなかった。ただ手を動かした。

 下地を丁寧に肌に乗せていくとき、令嬢の輪郭がどういう形をしているか観察した。頬骨の位置。目の深さ。唇の形。どれも、隠すべき欠点ではなかった。ただ、光の当て方を知らなかっただけだ。

 目尻に細い線を引いたとき、令嬢が小さく息を吐いた。

 紅を唇に乗せる前に、グランツは一度筆を止めた。

 この色は強い。この令嬢に必要なのは、庇護されるための可憐さではない。一人で夜会の扉を開けられるだけの、内側からの炎だ。

 吸血鬼の牙の紅を、唇の中央から外へ向けて乗せた。


「終わりました」


 グランツは鏡を渡した。

 令嬢は受け取り、しばらく動かなかった。

 やがて、顔を上げた。

 何かを言おうとして、唇が動いて、言葉が出なかった。もう一度鏡を見た。グランツはその横顔を見ていた。

 令嬢が笑った。

 声のない笑いだった。泣いているのか笑っているのか、最初は判別がつかなかった。でもそれは笑いだった。自分の顔を見て、はじめて笑った人間の顔だった。

 グランツの胸の中で、何かがほどけた。

 ああ、と思った。

 これが、自分がここにいる理由だ。


「ドレスは漆黒を選びました」

「漆黒の……」

「はい。あなたには陰がある。でも誤解しないでください。女性が生まれつき持っている陰は才能なんです。どんな凄腕の化粧師でも、光を当てることはできても陰をつけることはできない。陰を持っている女性はミステリアスを纏うことができる。これができる女性は、千人にひとりです」



 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇



 夜会の階段を、アリシア令嬢が降りてくる。

 男たちが動き出した。令嬢の元へ向かう人間が一人、二人、三人。伯爵家の子息が先回りしようとした。隣国の使節が目を細めた。


「最後の魔法をあなたにかけます」

「魔法?」

「はい。簡単な魔法ですので忘れないように。歩くときは、いち、に、いち、に、です」

「いち、に、いち、に」

「はい、そうです。そして、いちの時に足を出す。にの時は出さない」

「つまり、ゆっくり歩く」

「そうです。そのリズムで歩いてくれれば、あなたはこの国で一番優雅な女性になれます」


 会場の中をアリシアは約束通りに歩いていた。

 まるで女王だった。

 漆黒の女王が、会場を支配していた。

 人垣の向こうで、アリシアが少し身体を回した。視線が一瞬、グランツに触れた。

 グランツは小さく頷いた。

 アリシアは、また前を向いた。男たちの挨拶を受けながら、静かに微笑んでいた。

 彼女に婚約破棄の言葉を告げた男は、目を逸らすように会場を出ていった。

 グランツはそれを見てグラスを手に取り、一口飲んだ。


 思っていた味ではなかった。

 原因はわかっている。

 今夜見た顔の中に、まだ手の届いていない人間が何人かいた。あの目元のくすみには何が効くか。あの乾燥した唇には何を調合すべきか。

 考えることはまだまだあった。

 できることが、山ほどあった。


 グランツは自分の手を見て、もう一口飲んで、その場をあとにした。




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