第五話: 宿る思いは
ーー信じろ
己で鍛えた刃を信じてーー
森は静寂に包まれていた。
夜明け前の淡い霧が木々の間を漂い、濡れた土の匂いが鼻をつく。
悠真は木刀を右腰に構え、ゆっくりと息を吐いた。
この一呼吸が、命を分ける。そんな気配が、森に満ちている。
――試練。それがギルド長の言葉だった。
「生きて帰れ。それが条件だ」
簡潔で、冷酷な響き。だが、それがどれほど残酷な意味を持つのか、悠真はまだ知らなかった。
「……緊張してますか?」
背後から、澄んだ声。セリナだ。
振り返ると、霧の中、銀の髪が月光を受けて揺れていた。美しく、だがその双眸は氷のように冷たい覚悟を湛えている。
「緊張は、してるさ。でも――」
悠真は木刀を少し押し下げ、目を細める。
「刀を抜くときに迷うのが、一番怖い」
セリナの唇がわずかに動くが、言葉は出なかった。
その瞳に映るのは、信頼か、不安か――判別できない。
カナリアが、指を鳴らす。
「試練開始ッ!」
その瞬間、森がざわめいた。
――ギシ、ギシ、と重い何かが地を踏みしめる音。
霧が揺れ、空気が震える。悠真の全身が、戦慄に支配された。
霧を裂いて現れた影を見た瞬間、息が止まった。
それは狼――否、狼と呼ぶには異形だった。
黒鉄の毛皮が、夜明けの光を鈍く反射する。
牙は鉱石の刃のように鋭く、目は赤い灼熱を宿していた。
その巨体は、馬よりも大きい。
――魔鋼狼。
「……冗談だろ」
口に出した声が、自分のものと思えないほど冷えていた。
魔鋼狼が咆哮を上げる。
空気が裂け、耳が痛むほどの轟音が森を揺るがす。
瞬間、巨体が飛んだ――速い。
悠真は反射で半歩退き、抜刀の一閃を放つ。
ガキィィィンッ!!
火花と金属音。
木刀が牙を受け止めた瞬間、衝撃が腕を貫いた。
弾かれる。
悠真の肘が悲鳴を上げ、木刀には深いヒビが走った。
(……硬すぎる)
息を呑む間もなく、魔鋼狼が着地し、低く身を沈める。
次の瞬間――消えた。
「っ――!」
背後から殺気。悠真は本能で身を捻る。
だが避けきれず、肩を掠める爪。血の匂いが立ち上る。
「悠真さん!」
セリナの声が遠い。加勢はできない。これは悠真の試練だ。
森を駆ける。影を追う。
――だが、重い。木刀が通じない相手と戦うという絶望が、足を鈍らせる。
(俺の剣が……通じない?)
胸の奥に、冷たいものが流れ込む。
剣を握ってきた理由――刀一本で生きる意味が、音を立てて崩れそうになる。
――刃さえあれば。
そのとき、声がした。
誰もいないはずの森で。
耳元で、囁くように。
『そうだ。刃を求めろ。それで全てを断てる』
(……誰だ?)
息が詰まる。時間が止まったかのように、音が消える。
霧が濃くなり、世界が歪む。
声は続いた。
『木刀で何を守る? 何を斬る? その矛盾が、お前を殺す』
(黙れ……俺は、刃なんか……)
『欲しいはずだ。本物の剣を、力を――この世界で生きるために』
「悠真さん!魔力を――武器に流せば!」
セリナの声が響いた。
現実が戻る。
魔力?そんなもの、どうすれば――
悠真は歯を食いしばり、深く息を吐いた。
(……気を刀に通すように。中心を、静めて――)
刹那、木刀が淡い青白い光を帯びた。
冷たい輝きが、霧を裂く。
声が、愉悦に震えた。
『いいぞ。その力だ。選ばれた者よ――もっと、もっと強くなれ』
(俺を呼んだのは……お前か?)
『応えろ。刃を持てば、お前の願いは叶う』
「……俺は、刃なんかいらない!」
悠真は叫んだ。
次の瞬間、魔鋼狼が跳んだ。
迫る牙。悠真は腰を落とし、居合の型を極める。
時間が、引き延ばされたように遅くなる。
息を吐く――一拍。
全身の魔力を、木刀に流し込む。
――抜刀。
バギィィィィンッ!!
光が爆ぜ、音が砕ける。
木刀の一閃が、魔鋼狼の顎を砕き、その巨体を吹き飛ばした。
森が震え、静寂が戻る。
悠真は荒い息を吐き、木刀を見下ろした。
深いヒビ。それでも、折れてはいない。
「……勝った?」
セリナが駆け寄る。
その瞳に、驚きと安堵と、そして――恐怖があった。
「さっきの光……魔力、ですよね」
「……そうらしいな」
悠真は答えながら、胸の奥のざわめきを抑えきれなかった。
(あの声……なんだったんだ)
森の奥、深い闇の中で、誰かが笑った。
『まだ刃を求めぬか。ならば――試そう。もっと、深く』
霧が、ひどく冷たく感じられた。
――――――




